【0】プロローグ
―――それは、昔、昔のお話だ。
「ようこそ、この世界に。我が愛し仔」
生まれたばかりの赤仔を、蒼の瞳が優しく見下ろしていた。
「我が愛おしき仔、こちらだ」
黒い鼻面が、弱々しく鳴く赤仔を乳へと寄せてやる。
「新しい『ちいさいの』、いっぱい食べて早く一緒にあそぼーねっ」
短い尾を振り、小さな銀の魔獣が吠えれば、それより一回り大きい幼獣も元気よく鳴いた。
「僕と『ちいさいの』、じゃなくて、ええと、『ちゅうくらいの』の秘密基地を見せてやるよ!」
―――今では『過去』となった話を、世界のカケラはキラキラと映し輝かせる。
石に囲われた部屋の中、木の寝台に倒れ伏した男がいた。
端から垂れ下がる白い手に、黒い鼻面がそっと寄せられる。
「きゅ?」
常ならば、「どうした?」と男が頭を撫でてくれるはずであった。
しかし、妙に冷たい右手が動くことはなかった。
「くぅん」
彼女は寝台によじ登り、彼の青ざめた横顔を蒼の瞳に映した。
微かに銀の睫を揺らし、前足を彼の胸に当てる。
「きゅう」
安堵に似た溜息が、彼女の口から零れた。
―――まだ、間に合う。今ならば。
彼の胸に当てた前足に、ぐっと力を込めた。
彼女の、全てを渡すために。
―――世界のカケラ達は、知っている。『過去』に『過去』は変えられぬ。
熱気が立ちこめる小部屋で、彼は鍋を覗き込んでいた。
木べらで乳白色の液体を掻き回し、満足げに頷く。
「よし、こんなものか」
鍋を火から下ろして、卓上の鍋敷きに乗せた時だった。
慌てた様子の女が小部屋に駆け込んで来た。
「鍵! 鍵を、早くっ」
彼女の言葉を聞き終わるや否や、彼は小部屋を飛び出す。
もはや、床に投げ捨てられた木べらも、冷めてゆく鍋も頭になかった。
ただ、思うのは『あの子』のことだけであった。
だから、彼は知らない。
小部屋の扉が再び開かれて、人影が木べらを拾い上げたことを。
そして、鍋に指を付けてソースを掬いあげて舐めたことも。
「美味しい」という台詞とは裏腹に、苦々しげな顔をしていたことも。
―――世界のカケラ達は囁き合う。ならば。ならば、『未来』に『過去』は変えられないのか?
『彼ら』は、その全てを知って、木の葉を揺らした。
『彼ら』は、少しでも近づこうと、枝を伸ばす。
『彼ら』は、それでも届かぬと根を張り巡らせた。
けれども、『彼ら』は何も為せぬままであった。
世界に喰われて散った『彼ら』には、もはや伸ばす前足も、守る牙も、包み込む尾もありはしない。
『彼ら』のカケラにできるのは、変わりゆく世界を眺めることだけであった。
―――世界のカケラ達が『可能性』の肉球に枝を踏まれた、その日までは。