【番外編】副神官長物語(5)
晴れ渡った夏の日のことだった。
白いバルコニーから群衆を見下ろしたのは。
歓声に耳がビリビリとした。
彼らが掲げ持つ花の香りに、風が甘く染まっていた。
色取り取りの礼服と花束が広場を埋め尽くしていた。
彼らは皆、何かを喜んでいた。
―――それが、私が初めて見た外の世界だった。
***
「銀の賢獣様、お手数をおかけして申し訳ありません」
ダヴィード王子が巨大な魔獣を見上げた。
「いいや、貴族一人を邸宅から連れ出すぐらい、お安いご用さ」
優しく蒼の瞳を細める銀の賢獣に、ありがとうございますっ、とダヴィード王子が飛び付く。
どさくさに紛れて、ふかふかの胸元に顔を埋めて堪能していた。
銀の揺籃、その屋上で、一人と一匹が今日も今日とて戯れていた。
いや、今日は新しく一匹の人間が加わっている。
「ほう、絶景かな絶景かな。銀の賢獣と傾国の美姫が星空の下で寄り添い合う。まるで絵画のようではないか」
のんびりと言ったのは、今宵の招待客アレクシであった。
居室で休んでいたところを突然部屋に現れた魔獣にたたき起こされ、襟首をくわえられて、事情も分からぬままに連れてこられたのだ。もう少し、驚くなり機嫌を損ねるなりしてもよさそうなものである。
マイペースな公爵家嫡男に、第一王子は素早く返した。
「誰が美姫だっ。私は男だ! まったく、何度目になるのだろうな、このやりとりも」
さて、と彼はアレクシと目を合わせた。
「それでは、始めるとするか。わが父上を亡きものにするための話し合いを」
桃色の唇が放ったのは、幼い声に似合わぬ物騒な内容であった。
***
一段落付き、ふいに夜天を見上げたダヴィード王子は呟いた。
「私には星空の美しさが分からぬ」
「何を美しいとするかなど、人それぞれであろう」
揺れる蒼を、緑の瞳が静かに見下ろす。
「私にとっては、この世の何よりも一角獣様が美しい。けれども、それは私の尺度だ。余人の理解を得られるとは限らぬし、得る必要も感じぬ」
胸を張る友に、王子は小さく笑い声を立てた。
「相も変わらぬ一角獣バカだな」
アレクシはニマリと笑って返した。
「我が友よ、貴君が星空を美しいと思えぬのは、それよりも美しいものを知っているからではないのか」
キョトンと蒼の瞳を丸めたダヴィード王子に、アレクシは星空の下に灯った人の光を指さした。
「我が友にとっては、星空よりも、その下で幸せそうに笑って生きている民の方が、嬉しくて美しいのではないかね」
何しろ貴君は、希代の国バカ民バカだからな、そう言って、アレクシは密やかな笑い声を立てた。
まったくだ、と吼えた銀の賢獣とアレクシの笑い声を聞きながら、ダヴィード王子は王都を見下ろした。思い出すのは、生まれて初めて見た世界の景色だ。
ダヴィード王子が初めて外に出たのは、生誕祭の日であった。
生まれて数ヶ月のことだ。
常人ならば覚えているはずのない記憶を、しかし、ダヴィード王子は持っていた。
忘れ得ぬ、鮮やかな音と匂いと色を、彼は思い出した。
そこにいた無数の人間は、民は、ダヴィード王子の誕生を喜び笑っていた。
祝福の花束を両手一杯に抱えて、
―――ああ、そうか
とっておきの一張羅を着て、
―――あの時、この胸一杯に広がった熱
嬉しそうに笑う人々がいた。
―――あれが、『美しい』ということか。
幼い子供は、一人静かに王都を見つめ続けた。
友が「もう子供は寝る時間だ」と頭を撫で、魔獣が「寒くはないかい」と尾で包むまで。
***
11年後、20歳となった第一王子ダヴィードは父である現王を弑逆した。
死罪を申し渡された狂王子は、如何なる手によってか魔の森へと逃亡し、銀の賢獣の怒りを買う。
魔獣の地への許可を得ぬ罪人の侵入に激怒した要の賢獣は、当時権勢を誇っていた複数貴族と官に責任を負わせ、彼ら各々が魔獣と結んでいた盟約を無効とした。権威の象徴である盟約を失った彼らが凋落した結果、宮廷内の権力均衡は崩れ、政は混迷を極めると思われた。
しかし、大半の家臣と有力貴族の予想を裏切り、即位した第二王子は速やかに騒乱を治め、綱紀の乱れを正し、世を平らかなさしめた。まだ十代後半であったエリック王を支えたのは、盟約の魔獣クロード(通称『銀の賢獣』)と後見人エスピリディオン公爵であった。
賢王エリック時代の始まりである。
魔の森に逃亡したというダヴィード王子の行方は、杳として知れない。
次回更新は8/28(火)に副神官長物語を更新予定です。