【46】能面神官と百物語(ジュラ神官視点)
草木も眠る丑三つ時、パレヴィダ神殿の闇に溶けた黒の娘が一人いた。静かに動く口元を照らすのは、か細い灯りである。最初は百本あった蝋燭も、黒目黒髪の娘が一話語るごとに一本づつ吹き消されて、残るは一本のみとなっていた。
聞き手の神官と神官見習い達は、半円を描くように黒の語り部を囲んでいる。自由な座り方でよいと言われたため、座席は老神官に譲り、そのほかの者は思い思いに床に座り込んでいた。
まだ幼い神官見習いの中には、友人や大人の神官にしがみついて震えている者もいた。無理もない。今宵聞かされた九十九の物語は、そのどれもこれもが不気味で奇妙な話ばかりであった。かわいそうだが、どれほど怯えても最後まで聞かねばならない。これは、違法召還に対する罰なのだから。
しがみつかれる側の一人ジュラ神官は、そこで首を傾げた。
(ふむ、だが・・・・・・)
そして彼は己の白い神官服に埋もれるようにしがみつく小銀毛玉に目線を落とした。なんだかフルフル震えている。とりあえず撫でてみた。柔らかく、良い手触りである。
(なぜ、主催者のモニカ嬢以外の御仔様まで一緒になって聞いているのだ? そして、なぜ・・・・・・私にしがみつくのだ)
ジュラ神官は知らない。彼が今宵の聞き手の中で最も平静に見える人物であったことを。感情の出にくい彼の二つ名は『能面神官』である。
彼が散々撫で繰り回した仔魔獣の名を、アルクィンという。まだ震えの止まらない小動物に潤んだ瞳でジュラ神官が礼を言われるのは、この百物語の後であったが、それはまた別の話だ。
***
外面はどうあれ、こうも立て続けに怪談を聞かされるというのは、ジュラ神官にとっても気持ちのいいことではなかった。彼はチラリと祈りの間の隅を見やった。光の届かぬ闇で何かが蠢いた気がしたからだ。
この懲罰式【百物語】は、百の物語を同数の蝋燭を吹き消しながら話すことで異界の魔獣【妖怪】を召喚する儀式であるらしい。勇者召喚に対する刑罰として百物語を百夜連続開催するという通知を受けた時に、ジュラは、そんな召喚が成立するはずがないと苦笑した。だが、心の片隅でこう思ったのも確かだ。
(しかし、聞けば勇者の召喚も理論的には不可能であったというではないか。今回も、もしかすると・・・・・・)
本当の奇跡を目の当たりにしたばかりなのだ。荒唐無稽な話だと笑い飛ばす気にはとてもなれなかった。百度も繰り返せば一度は成功してしまうかもしれない。彼は戦々恐々としながら、銀の魔王が御仔モニカ嬢の話を拝聴してきた。
これまでの九十九夜では、どうにか神殿を破壊するような魔獣【妖怪】は召喚されずにすんだようであった。ジュラは、この【妖怪】という魔獣をこれまで知らなかったが、九十九の話を聞くうちに、強く百物語の失敗を祈るようになっていた。
(今宵が最後。今晩もどうか無事に終わってくれ。妖怪などという化け物が神殿に住み着くとは何ともぞっとしない話ではないか)
『一つ目の僧』『首長娼婦』『芋洗い』・・・・・・。
モニカ嬢が話す怪談の中には、よく似たホラ話を聞いたことがあるものもあった。だが、所詮は作り話、ファンタジーだ。なにかの魔獣や魔術の見間違いに過ぎない。
空想の産物に過ぎない化け物が存在するとは、異世界の日本、おそるべし・・・・・・!
そんな人外魔境から勇者を召喚した神官達を、心の底から呪うジュラ神官であった。
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百物語最後の話は佳境に入っていく。この物語は、地方の農村であった話だそうだ。時には淡々と、時には老若男女に声音を変えて語られる物語に、聴衆は主人公の村人イワンになった気分で聞き入っていた。
「・・・・・・『そんだもんで、俺は言やした。旦那ぁ、確かに俺は学のない田舎者でさぁ。でんも、旦那が見たっていう顔がない侍女なら知っていやすぜ。そんれは・・・・・・飲み過ぎたんでさぁ』
憮然とした若君の顔を思い出してイワンは笑いました。ふふとジゼルも笑います。声につられて、イワンは隣の娘を見やりました」
そこまで語ると、黒の娘は白い手で蝋燭の炎を包み込んだ。火傷をするのではないかと心配になったが、悲鳴一つあげないところを見ると、何らかの魔術を使っているらしい。
最後の灯りが隠されて、祈りの間は暗闇に包まれた。視界を閉ざされた人々に囁くように娘は語り続ける。ジュラ神官も息を殺して彼女の話に耳を傾けた。小銀毛玉も話の続きが気になるらしく、先ほどから何度も手首に三角の耳らしきものが当たっている。
「新月の晩のことです。あたりは己の手さえも見えない真っ暗闇。携帯ランプの灯りも、歩く二人の足元を照らすのでやっとでした。でも、何故だかイワンには笑う娘の顔が見えた気がしました。人気の無い夜道に、響くのは二人の足音だけ」
ジュラ神官は、己の手にすがりつくように寄せられたヒヤリとした感触に、一瞬悲鳴を上げそうになった。しかし、それが仔魔獣の鼻面であると思い当たり、小銀毛玉の背があるあたりをポンポンと叩いてやった。
「しばらくして、ジゼルが可愛らしい声で尋ねました。『ねえ、ところで、その御貴族様が見たっていう顔は』そこまで言うと、彼女はなぜか携帯ランプの明かりを持ち上げました。そして、言いました」
そこで、前方に白い顔が浮かび上がった。モニカ嬢が蝋燭の炎を覆っていた手をのけたらしい。
彼女を見たジェラ神官は、思わず小銀毛玉の前足を握りしめた。
「・・・・・・こんな顔だったかい?」
―――仄暗く照らされた顔には、『顔がなかった』。
仔魔獣のけたたましい悲鳴が膝の上からした。立てられた爪が神官服を貫通して膝に突き刺り、ジェラ神官は思わず呻いた。少年神官見習いらしき泣き声が後ろからする。ドスンという音は、老神官の誰かが座席から転げ落ちた音に違いない。
(助けに行かなくては)
そう思いつつも、ジェラ神官は、驚きに丸く膨張した小銀毛玉の背らしき部分を慰めるように撫でるしかなかった。なぜなら。
(腰が、ぬけた・・・・・・)
動くに動けないジェラ神官は、闇に浮かんだ白い顔が、口もないのにどうやってか蝋燭の炎を吹き消すのを見た。再び祈りの間が闇に包まれ、怒号と悲鳴が溢れかえる。どうやら逃げようと扉方向に人が殺到しているらしい。暗闇で闇雲に動いては、怪我人が出かねない。ジェラ神官が静止の声を出すより早く、部屋に明かりが戻った。
見れば、消されたはずの百本の蝋燭全てに再び灯りが点されている。ゆらゆらとした炎が照らし出すのは、巨大な黒の魔獣だ。祈りの間の天井に届かんばかりの大きさで、黒い毛に覆われた尾は人一人ほどの長さがあり、口には長く鋭い牙が鈍く光っている。語り部をしていた銀の魔王の御仔様だ。人態から獣態に戻っている。
黒の魔獣は喉を反らせて満足そうに一吠えした。
「皆様おつきあい頂きましてどうもありがとうございました。異世界伝来の百物語は今晩これにて終わりでございます。これに懲りて、勇者召喚など二度となさりませぬよう、ご忠告申し上げます。もし、再び召還が行われた、そのときには」
魔獣の黒の瞳に物騒な光が宿った。
「心臓が止まる程度では済まない、今よりもっと怖ろしい目に合うことになりますので、お忘れ無きように」
蝋燭の火を受けて、巨大な魔獣のシルエットが白い壁面に浮かび上がる。ジュラ神官は思った。どうやら我々パレヴィダ神殿は、百物語をするまでもなく、勇者召喚をした時点で目覚めさせてはならない怪物の尾を踏み呼び寄せていたらしい。
まったく、怖ろしいものだ。内心そう呟きつつも、完全に無表情のままどうにか立ち上がる。しがみついて離れない小銀毛玉は抱き上げることにした。
(勇者を召喚してしまおうが、魔王を生もうが、妖怪が出ようが、自分は神官としてするべきことをするだけだ)
さしあたってジェラ神官がするべきことは、斜め前の床にへたり込んでいる老神官を座席に戻してやることであった。
***
ジュラ神官は、後に小銀毛玉に尋ねた。
「怖いのならば何故最後まで聞いたのだ」
彼がアルクィンに「最後まで聞かない方が、続きがどうなるか分からなくて怖いんだよ!」と涙目で吠えられたというのは、また別の話である。
また、これも別の話だが、あの日、ジェラ神官の後ろには少年神官見習いはいなかった。幻聴かとも思ったが、アルクィンも後方から声を聞いたという。泣き声の正体は未だに分かっていない。