【45】言葉の力は偉大です。
我が友エスピリディオン。朕は何を間違えたのであろうか。
つい最近のことだ。我が愛する息子が朕の寝所に参りて曰く、
「父上、お選びください。ここで死ぬのと、国を滅ぼすのと、どちらがよろしいか。できることならば、死んでいただけると助かるのですが」
エスピリディオン。朕は正妃亡き後、朕なりに精一杯我が息子二人を守り育て導いてきたつもりだ。母親が恋しいと泣けば、側妃を迎えて彼らを慰めさせた。兄弟が互いだけだと寂しがれば、養子を得て彼らと遊ばせた。息子達が欲しいと願うものは全て与えた。
おお、それなのにエスピリディオン。此度息子が希ったのは、我が死であった。朕が誅殺されねば、国は滅び人の世は終わるとまで説かれた。なんということだ、エスピリディオン。朕が愛息子達のために作った後宮が、我が第三の子、我が王国を殺すというのだ。国の財を食い潰す園を、これ以上看過することはできぬ。我が息子は、我が第一王子は、静かに朕に向かい白刃をかざした。
なれば、エスピリディオン。朕はゆこうぞ。この身、この血を糧に我が愛する息子と国が生き延びるのだ。躊躇う理由はない。朕を待つ正妃のもとへ、朕は還ろうぞ。
ところで、エスピリディオン。聡明なる汝ならば既に気づいておろう。この書簡の奇妙さに。朕の筆跡で書かれた朕が死ぬことを前提とした文などあるはずがない。なにしろ、朕は突如乱心した第一王子に誅殺されたのだからな。あの世で書いたとしか思えぬであろう。
エスピリディオン。汝は知っているはずだ。生ける屍が生を祈る、その園を。
エスピリディオン。知らぬはずがない。汝の長子もまた、その園に身を投じたのだから。
けれども、エスピリディオン。忘れてはならぬ。朕は死したのだ。ここにいる儂は、息をするだけの屍。王族や俗世とは何の関係もない、ただの翁じゃ。
ここの生活はなかなかに興味深い。そうだ、先日のことだ。教皇なる者に、甘やかすだけが愛の形ではないと叱られた。この年になって、かように若き者に教え諭されるとは思わなんだ。儂は幼子に甘過ぎるのだそうだ。親子揃ってと苦く笑われてしまった。
エスピリディオン。儂は教皇を牽制した。神官たる者に親も子もありはしない、と。儂の前世を知るのは限られた者だけでなくてはならない。口にすることも許されないのだ。すると、エスピリディオン。彼は笑ったのじゃ。これは失礼、おっしゃる通り親も子もありはしない。しかし、家族はいるでしょう、私たちが、と。
我が若き家族は、儂に贈り物だと白き幼仔を託してくれた。貴方は、誰かを愛さねば生きてはゆけない。この幼仔は、誰かが愛さねば生きてはゆけない。これほど似合いの一人と一頭はなかなかにおりませんね、と教皇は微笑んだ。
エスピリディオン。かの男は、酷く懐かしい面差しをしておった。まだ正妃が微笑み汝が奥方の尻に敷かれていた、あの頃を思い出すほどに。エスピリディオン、汝は覚えておるだろうか。おお、すまぬ。思い出す必要などなかったのう。汝と奥方は今も昔も変わらず仲睦まじい。
エスピリディオン。過ぎ去った歳月の中で『朕』は何を間違えたのであろうか。けれども、エスピリディオン。『朕』が誤った末にある今を、実のところ悪くないと『儂』は思おておる。
願わくば、エスピリディオン。儂はこの白き幼仔を今度こそ過たず育てたい。
そして、エスピリディオン。祈らずにはいられないのだ。
この永遠を生きる白き聖獣に、我が子の子の子のずっと先に生まれるであろう子まで、未来永劫に彼らの幸せを見守って欲しいと。
そして、エスピリディオン。死した朕は汝に願う。朕亡き今、第二の息子が朕の遺志を継ぐこととなった。朕の誅殺を皮切りにした革命で朝廷は荒れておる。エスピリディオンよ。我が愛おしき息子は、聡明なれど未だ年若い。どうか第二王子、いや、現国王陛下がこの荒波を乗り越えて平らかな世に王国という全人類を乗せた船を導く羅針盤となってはくれまいか。
もし、もしもじゃ、エスピリディオン。もし、我が愛おしき息子が乗った船が沈む、その時には、海の底で汝は地獄と出会うことになるやもしれぬ。なにしろ、エスピリディオン。今は亡き朕は汝の愛人をこの書簡で汝の名を呼んだ数だけ知っておった。そして、エスピリディオン。汝の愛する奥方は、熱心なパレヴィダ信者であったな。先日奉納頂いた胡桃入りの焼き菓子は大変旨かった。
エスピリディオン。無論、儂はこの口を菓子で塞いでおる。今のところは。
現国王陛下の元に、汝のように忠誠心に満ちた臣下がいるとは何とも頼もしいことだ。どうか汝と奥方に末永く女神ローネルシアの慈悲があらんことを。
(とある由緒ある公爵家本邸の隠居部屋の隠し戸棚所蔵文書『動物或いは魔獣に端を囓られた形跡のある羊皮紙』より抜粋)
***
尾で床を打ち、何かを考え込むモニカを、四対の瞳が見守っていた。しばらく後に、モニカは顔を上げて御父様に尋ねた。
「御父様、副神官長は御父様の友達なんだよね。私たち魔獣はよほど親しくなければ背中に人間を乗せたりしないもの」
返答は少し遅れた。先ほど娘に泣かれたショックからまだ立ち直れていないらしい。
「え、ええと、うん、そうだよ。彼が生まれたときからの付き合いだからね」
そっか、とモニカは頷く。
―――結論は、出た。正しかろうと間違っていようと、これが自分の決めた答えだ。
彼女は、副神官長を改めて見つめた。そして、その蒼の瞳に力強く吠えた。
「ごめんなさい! やり過ぎました!」
目を丸くする大人(成獣を含む)達の中、最初に口を開いたのは副神官長だった。
「・・・・・・お許し、下さるのか」
肉に埋もれた瞳を、さらに細めてパレヴィダ式に礼をした。シリルとアルフォンスもそれに倣う。副神官長は、白の裾を優雅に舞わせて彼はモニカの前に跪き、彼女と目を合わせた。
「感謝を。銀の女王の御子様と女神ローネルシアの慈悲に心より感謝し申し上げます」
心底安堵したという声音に、モニカはほうっと肩の力を抜いた。彼の声に、彼女は嘘を感じなかった。少なくとも、副神官長は神官達を大切にしているらしい。
―――そう、御父様がモニカを守り育ててくれるのと同じように。
モニカは、御父様を見上げた。巨大な魔獣の身の丈に合った、大きな蒼の瞳の中に、小さな黒い仔犬がいる。
シリルが副神官長を信じるように、モニカも信じているのだ。御父様を。
その御父様が友人とする人物であるのならば、副神官長はそう悪い人間ではないのだろう。その彼がまとめる人間集団である。いつもは一角獣にしか興味がなかったが、悪徳神官達は思っていたよりも面白い人間達であるようだ。
だから、彼らは食らうべき敵ではない。広域魔術による威嚇攻撃がやり過ぎであった過ちは認めよう。最初から、殺すつもりはなかったし。でも。
モニカは小さな牙をきらりと光らせて微笑んだ。とある時の御母様によく似た表情であった。御父様が、思わず迎賓室の天井に届くほど銀毛を膨らませる。突如膨らんだ銀毛玉を驚き見上げる副神官長に、モニカは可愛らしく鳴いた。
「副神官長」
彼が見下ろしたのは、愛らしい仔犬であった。
しかし、忘れてはならない。
彼女は、魔獣だ。魔の王たる天狼の娘なのである。
モニカは大きく顎門を開いて鈴が鳴るような声で威嚇音を出した。
「でも、やり過ぎたのは貴方達も同じだと分かってるよね。光輝は私にとって無二の存在なの。その彼を、意図せずとはいえ召還して危険に晒した。その咎を受ける覚悟は勿論あるよね」
御父様が焦ったように吠えた。今度は泣かせないようにと、ゆっくりと噛んで含ませるような言い方であった。
「モ、モニカ。君にとってコーキが大事な存在だというのは僕も分かっているよ。彼らにはそれ相応の罰を与えている。僕たち天狼が感情のままに動けば、この王都は明日にも物理的に滅んでしまうんだよ。平和的に、人間的に解決しようじゃないか」
うん、とモニカは頷いた。元気よく鳴いて良い仔のお返事さえした。
そうして、ほっとしたような御父様に向かい、彼女は唸り駄々をこねた。
「でもね、御父様。コーキが危ない目に遭ったのに、何もできないだなんて、いや」
「そうは言ってもね・・・・・・」
困ったように耳を垂らす御父様に、彼女は愛らしくねだる。
「だから、魔術や魔力じゃなくて、精神的な復讐だったら、いいでしょ?」
「じゅ、呪術的な精神操作かい。そ、それは・・・・・・・」
拒否の意を込めて慌てたように唸る御父様に、モニカは首を振った。
「ううん、違う。ねえ、御父様・・・・・・・百物語って知ってる?」
***
百物語。それは百の怪談話を語り妖怪を召喚する儀式である。異世界の日本発祥のこの恐ろしき懲罰式が、これより後百日間パレヴィダ本神殿の夜の説法に代わって開催されることとなった。主催者は勿論、本当に召喚できたら面白いよね、とノリノリの銀の魔王一家の長女である。
真夜中に祈りの間で闇に溶けた黒の魔獣が語る魑魅魍魎の恐怖は、パレヴィダ神官を悲鳴まで凍り付かせ、窓の外で盗み聞きしていた弟妹達の毛を一本残らず逆立てさせたのであった。