【番外編】『雪は白。赤は竜の。』
番外編です。
銀の女王とその御仔が、まだ魔の森にいた頃のお話です。
一面に広がる白銀。
弟妹達の蒼い瞳が未知への期待に輝く。
興奮に高まった鳴き声が、白く形作られて碧空に融けてゆく。
それもまた面白くて、彼らは天に向かい長く高く吠える。
「ふゆっ」
「ゆーきー」
「しろ!」
「しろ、しろ……う、うさぎ!」
初めて見る雪原への喜びを謳っていたはずが、途中から思念ゲームになっていた。前の言葉から連想したイメージを思念に込めて鳴く遊びは、彼らの姉が考えたものである。
さて、その彼女は、弟妹達よりも一前足先に地上へと近づいていた。それを見た小銀毛玉達もまた、「まってー」「あたちもっ」と小さな尾を振り、姉を追って空を駆けていった。
***
魔の森に冬は来ない。
魔力に満ちた根源の森は常春の地だ。
永遠の春に住まう彼らが銀世界にいるのには理由があった。
その前の晩、母親の魔獣は夜の物語で『四季』を謳った。春を喜び、夏を楽しみ、秋を堪能し、冬を迎える人の地の物語に、弟妹達は蒼の瞳を輝かせて聞き入っていた。
春咲きのマンドレイクが踊り狂うサラダの宴。
水着のセイレーンが雄の魚を歌い誘う真夏のカルパッチョ祭り。
秋が旬のミ―ノ―タウロスお手製青カビチーズ。
真冬の暖炉で作るローストフェニックス。
ナニカを思い出しながら、母親の魔獣はうっとりと前足を毛繕った。特に、雪の晩には体の芯から温まるフェニックス料理がお勧めだそうだ。
「お前達の父親曰く、フェニックス料理は火加減が命だということだ」
弟妹達がごくりと喉を鳴らし、舌舐めずりした。
獲物を思って銀毛を繕うピンクの舌達を眺めながら、『くろいの』は背筋の毛を逆立てた。
生食や踊り食いに抵抗を示しながらも、『くろいの』は与えられた命を最後まで頂いてきた。しかし、彼女が獣としての食事を何とか受け入れられたのは、獲物に兎や鮭など前世で見慣れたものが多かったためである。
だが、今母親の話に上がった料理の数々は、彼女の限界を軽々と越えていた。
(む、むりーっ)
食材からしてアウトという、越えられる気がしない食文化の壁が『くろいの』の前に立ちはだかった瞬間であった。
しかし、弟妹達は違った。生まれながらに天狼である彼らにとっては、基本的に家族以外の魔獣は全て『外敵』すなわち『食べ物ー!』である。倒せるものは食えるもの。食えるものは全て食う。彼らの辞書に『好き嫌い』という項目は存在しない。
その翌日、御母様は人の地に『旬の料理』を狩りに出掛けた。愛し仔達(『くろいの』を除く)のおねだりの結果である。
「良い仔で待っているのだよ」と咆哮した母様の魔獣を見送り、洞窟の入り口で尻尾追いをして遊んでいた時のことだった。『ちいさいの』が、それまで追いかけていた自分の尻尾をピンと立てて鳴いた。
「今が『はる』なら、『なつ』と『あき』と『ふゆ』を狩りに行こうよ!」
魔の森は広いから、どこかに『四季』が隠れているはずだ、と『ちいさいの』は蒼の瞳を輝かせた。互いの尾を追いかけ合っていた他の弟妹達も賛同の意を示して吼える。
「かりーかーりー」
「ころちゅのよっ」
「たべるぞー」
そんな彼らに『くろいの』は慌てて鳴いた。
「『四季』は獲物として捕まえることはできないよ。それに、人の地にしかないものだって御母様が言っていたでしょう?」
むーと唸り尻尾をしょぼんと垂らす三毛玉に、モニカは困ったように空を見上げた。
そして、その『白』に気がついた。
「……狩るのはムリだけど、『ふゆ』を見ることはできるかも」
途端に「ほんとー?」と激しく振られる銀の尾達。
弟妹達に詰め寄られ、半ば圧し掛かられた『くろいの』が見やったのは北方にある雪山であった。瞳に魔力を集めて『遠視』で見てごらん、と『くろいの』が促す。弟妹達のまんまるな瞳が蒼色の光を帯び輝く。
「あの白いのが雪だよ。冬に空から降ってくる、えっと、冷たくて柔らかい水の塊、だよ」
「こおりじゃないのー?」
首を傾げる『おなが』に、『くろいの』は小さく唸る。
「氷なんだけど、私達が知っている魔力で凍らせた水とはまた別のものなんだよ。むー、説明が難しいなー」
『みみなが』が元気良く吠えた。
「じゃあ、見に行こうよ! あの高くて白いとこに!」
『くろいの』は自分の四足を見下ろした。毛皮に覆われた短い脚だ。あの山頂まで歩いて行くのに何日かかるだろうか。うん、無理。ピンクの肉球を覗き込み、『くろいの』は頷いた。その頭上に影が差す。
「なにしてるのー?」
「おいてくよー」
「はやくー」
「『くろいの』!」
早く早くと急かす、宙に浮かんだ弟妹達。黒の瞳が丸くなる。そういえば先日、月見のために御母様が雲上に連れて行ってくれた。アレの応用かな。
こ、こうかな。『くろいの』は小さく尾を振った。ふわりと黒の毛皮が空気をはらむ。地を離れた黒い前足に、おおっ、と喜びの鳴き声があがった。
銀と黒の小毛玉が空を駆け、白を目指す。
遠ざかる楽しげな鳴き声を聞きながら、洞窟は思う。
(さてはて、今代の天狼もまた腕白なことよ。『良い仔でお留守番』ではなかったのかの)
今も昔も親とは大変なものよの。吹き込む風に笑い声をのせ、洞窟は楽しげに己が身の内を眺めた。その身に付いた傷は、歴代の天狼一家が噛みつき引っ掻き砕いた跡だ。今代の『御母様』をその目が開かぬ頃から知っている其れは、愛おしげに己の傷を数えた。
(今代の『愛し仔』達がおらぬと知った『御母様』は、どうするかの。我を作った一撃の如く、お山に八つ当たりするならば、知り合いがまた一つ増えるの。)
それもまたそれでよし。大きく出入り口を広げ、呵々大笑して洞窟は在る。何時か崩れるその時まで、何代でも『御母様』と『愛し仔』達の巣たり続けるために。
***
魔力で宙に浮かんだ幼獣達が、ゆっくりと大地に近づく。
降り積もった白にピンクの肉球が恐る恐ると触れた。
ふわりと沈む感触に慌てて前足を振って雪を払い、彼らは再び浮かび上がる。
「つめたいっ」
「ふわふわー」
「水の匂いがするよ」
「味もみ、ず……あ、あたまが……」
『みみなが』が耳を伏せて丸くなった。『くろいの』は慌てて火と風を呼び、彼を暖めて慰める。
「大丈夫だよ。じっとしていたら治まるから」
ふるふると震える銀毛玉を毛繕いながら、『くろいの』は黒の瞳に魔力を宿す。
千里を見通す魔獣の目が、遥か彼方の下界を映す。
(『巣』があんなに遠い)
巣の方角で、何かが銀色に光った気がした。『くろいの』が更に瞳に魔力を込めようとした時だ。背後で小さく悲鳴じみた鳴き声がした。
何事かと瞳の魔力を散らして振り返れば、不用意に魔力を切った一匹が雪に沈んでいた。尻尾だけを出して雪に埋まった『おなが』に、小毛玉達が焦ったように鳴く。
「『おなが』! だ、大丈夫!?」
急いで風を呼ぼうとした『くろいの』達全てを、黒い影が覆った。
銀毛に包まれた大きな口が『おなが』の尻尾を優しくくわえた。
すぽんっ、と良い音が出そうなほどあっさりと『おなが』は引き抜かれた。
逆さ釣りにされた小銀毛玉が雪塗れのまま弱弱しく鳴く。
「お、かーさま、ありが、とー、ございま、す」
他の弟妹達が、「御母様だー」「おかえりなさいっ」「おみやげはー?」と嬉しそうに鳴く。
その後ろで、『くろいの』はじわりと嫌な汗をかいた。彼女は思い出した。そういえば、自分達は『良い仔でお留守番』していたのではなかったか? 脳裏に、前世の弟が浮かんだ。しっかり者とご近所でも評判の彼がぷりぷりと説教する。「アキラ姉は、目の前のことに夢中になり過ぎだよ!」ごめん、弟よ。お姉ちゃんは生まれ変わっても変わっていません。
心の中で現実逃避する彼女の頭上で、銀の魔獣が大きく息を吐いた。白く染まった溜息で視界一杯に靄がかかる。
「まったく。お前達の魔力が巣にいるにしては酷く遠いと慌てて帰って来てみれば、洞窟はもぬけの殻。北のお山に魔力を感じなければ、私はもう一つ巣を作っていただろうよ」
巣を作るって何ー? 無邪気に尋ねる『おおきいの』の頬を、母親の魔獣はべろりと大きな舌で舐めた。
「機会があれば実演してやろう。しかし、その前に少しお話をしようか。『くろいの』、もう少しこちらへおいで」
恐る恐る近づく『くろいの』の前に、巨大な魔獣の顔が近づく。
幼獣達と視線を合わせた母親の哀しげな鳴き声が雪原に響いた。
「我が愛し仔達よ。お願いだから、『いい仔でお留守番』をする時は、巣の中で遊んでおくれ。世界は危険に満ちている。美味なる強敵に挑戦するは我らが性ではあるが、お前達は幼い。今は未だ、我が牙と爪が届く内にいておくれ」
その切々とした思念に、弟妹達も自分達が母親の魔獣を心配させたと気づいたようだ。
ごめんなさいー、と弱弱しく鳴き、母親の目元を彼らは毛繕う。大きな蒼の目がくすぐったげにゆるりと細められた。その目許を舐めながら、『くろいの』は決心した。
(弟妹達は、私が守る。もう絶対に御母様を心配させたりはしない)
確かに、元人間の知識がある分、『くろいの』は『良い仔』であった。しかし、普段大人しい分、稀に引き起こす大爆発の規模が凄まじいのだ。後に父親の魔獣は人の国王にこぼした。
「結局、振り回されることに変わりはないんだよね、どの仔も……。ああ、でも可愛いよ愛し子超可愛い」
***
反省した様子の小毛玉達に、毛を繕い返して母親の魔獣が吠えた。
「さて、せっかく北のお山に来たことだ。少し大きい獲物を狩ってみるかい、我が愛し仔達よ」
弟妹達の、しょぼんとしていた尻尾が持ち上がる。少し伏せられていた目が、喜びに輝きを増した。垂れていた耳も、ピンと三角になって天に向けられる。
「かりっ」
「にく!」
「おっきーにくっ」
「ころちゅ!」
今泣いた烏がもう笑う。随分と凶暴に笑う烏だ。ふるりと『くろいの』は黒い髭を揺らした。彼女は気づいていなかった。己の目許もまた笑っていることに。
そんな黒小毛玉を、母親の魔獣がひょいとくわえた。
え、と黒い眼が丸くなる。もう小さくないのだから自分の四足で走りたい、と後ろ足をばたつかせる『くろいの』に、母親の魔獣は小さく笑いを含んで唸った。
「お前は、魔力を操るに長けるというのに狩りが苦手であろう」
ギクリと『くろいの』は固まる。確かに彼女は狩りが苦手であった。命を殺すという行為を、現代日本人であった記憶が邪魔するのだ。大人しくなった黒小毛玉に、母親の魔獣は唸った。
「ほう、自覚があったか。ふむ、今日は特別な狩りの練習をするとしよう」
ついておいでと銀小毛玉達を誘い、母親の魔獣は雪原から飛び立った。
***
母親の魔獣にくわえられた『くろいの』は、そのままぺいっと獲物の前に投げ出された。
「ほら、少し難しい狩りの練習だ。がんばるがよい、愛し仔よ」
「がんばれー、『くろいの』!」
「にくー! 赤いにくー!」
「ひっかけー」
「たべりょー!」
背後から心強い声援があった。しかし、吠えたい、天に向かって。
(コレは、全然『少し』じゃありませんっ、おかーさまっ)
目の前にいるのは――深紅の火竜であった。巣のある雪山に侵入した外敵に怒り狂い、焔を吐く巨大な魔獣。その力強い咆哮に、『くろいの』は後退った。そして、竜の爪ほどもない小黒毛玉は気づいた。気づいてしまった。
自分の後ろにいるのは、誰だ?
―――御母様と『ちいさいの』と『おおきいの』と『おなが』と『みみなが』
もし、自分が倒されたとしよう。
―――ありえないけれど。だって、御母様は、その爪と牙は絶対に自分を守ってくれる。
もし、もしもだ。自分が倒されたとしたら、アレが次に狙うのは……ダレだ?
―――それは……
ぶわぁっと『くろいの』は総毛立つ。本能が脳内で警鐘を鳴らしている。全身を魔力が駆け巡り、主の生命を脅かす『敵』を排除せんと膨れ上がった。そして、黒の獣はソレを睨んだ。
―――赤の瞳と、目が、アッタ。
ブチリ。己の奥底で、何かの鎖が千切れる音がした。『くろいの』は、生まれて初めて腹の底から大音声で咆哮した。本能の赴くままに。
直後、『くろいの』を中心として焔が渦巻き、爆発した。
天をも貫く火柱が、雪山を赤く染め上げる。
小毛玉達はその爆風に煽られ天高く舞い上がった。
「あーれー」
「『くろいの』、すごいっ」
「だいたんー」
「ごうかいー」
風を操りわざとくるくると回る小毛玉達は、結構余裕であるようだった。炎の花にチリチリと銀毛が焙られる。それでも彼らは楽しげに鳴く。だって、知っている。彼らの姉は、例え本能に食われたとしても自分達を傷つけたりはしない。天まで届く焔の柱を眺めて、弟妹達は蒼の瞳を輝かせた。
弟妹達は、『くろいの』の狩りに違和感を覚えていた。
命を狩る。それは、魔獣にとって当たり前のこと。息を吸うのとおんなじことだ。
なのに、どうやら『くろいの』はそれが苦手らしい。
『くろいの』は、物知りなくせに、時々大切なことを知らない。
本能というのは生きるためにある。そして、生きるということは、何よりも優先されるべきことだ。
(知ってる? いつか僕らは世界に喰われる)
(だから、あたち達は世界をころちゅ)
(喰われる前に食べちゃう)
(だって、明日も『くろいの』と鳴いて遊んで狩りをして)
(皆で楽しいねって笑いたいから)
(だから俺らは狩りをする)
それなのに、『くろいの』は狩りを嫌う。楽しくないわけではないらしい。黒い瞳は輝いている。なのに、なにかを思って、その瞳は時に陰る。その、なんと危ういことか。
(世界に、喰われちゃう)
小銀毛玉の中で、小さな警鐘が鳴っていた。このままではダメだと。なのに『くろいの』は知らない、気づかない。彼女の中でも鳴り続けているはずの、その音に。
その『くろいの』が理性を飛ばした。鐘の鳴るまま、彼女が世界に食らいついた。その生存本能の、なんと熱く輝かしいことか。なんと強く凶暴なことか。
(強いってことは、喰われないってことだ)
(喰われなかったら、長く一緒にいられるね)
(いつか世界に喰われるまで皆で楽しく遊ぼう)
(少しでも長く、できれば、ずうっと一緒に)
母親の魔獣は炎の中で満足げに牙を剥きだし、うむと唸った。
「やはり、天狼の狩りはこうでなくてはな。己が滅びるか世界を滅ぼすか。その覚悟と心意気で臨むのだ、愛し仔よ」
赤い焔の中、母親の魔獣が愉悦の咆哮をあげた。それに、弟妹達の愛らしくも獰猛な鳴き声が重なった。
後に聞くところによれば、天まで届く赤い火柱は人の地からも見え、その轟音は父親の魔獣の心臓を一瞬止めたそうである。
***
その数日後、母親の魔獣は再び人の地に出かけていた。
先日の火柱を見た父親の魔獣から「何があったんだ!」「君と愛し仔達は無事かい!?」等々の、混乱の極致にある思念が籠った連絡石を受け取ったためである。母親の魔獣曰く、精神的な不安から父親の魔獣はかなり魔力が不安定になっており、このままでは王都が爆散するため少し宥めてくる、とのことであった。
母親の魔獣を小さな尾を振って見送り、今日も幼獣達は『良い仔でお留守番』を始めた。洞窟の入り口に幼い鳴き声が響く。
「ふーゆっ」
「ゆーき!」
「ゆき、ゆき……しろっ」
「あかー」
「りゅーのだんまつまっ」
間違えた一匹を、他の三毛玉が押しつぶす。
ざんねんー、と彼らは楽しそうに鳴いた。
「『おおきいの』の負けー!」
「二つの意味を並べたらダメなんだよ―」
「美味しかったよねっ」
三匹に押しつぶされ、尻尾を降参降参と地に打ちつけていた『おおきいの』が苦しげに鳴く。
「ぐっ、お、おもいーっ。……あれ、『くろいの』は?」
『くろいの』は、三角の耳を前足の肉球で塞ぎ、「私は何も聞いていない」と鳴いていた。
(私は良識のある魔獣だもの。竜の断末魔なんて聞いていないし、雪山を抉って、別荘用の巣を作ったり、し、してないもん)
聴覚を閉ざすということは獣にとって命の危険を伴う。
そのことを彼女が四匹分の重みと温もりと共に実感する、その少し前のことであった。
『くろいの』は知らなかった。
今回のことで、どこか危なっかしい黒毛玉に危機感を覚えさせるには、実地が一番だと弟妹達が考えるようになったなどとは。
この後、小銀毛玉は数々の悪戯を『くろいの』に仕掛けた。その結果、常に聞き続けることになる生存本能が、今日も『くろいの』の中で悲鳴を上げている。まずは彼女の背後に近づく四匹の銀毛玉を感知して。




