【番外編】『夜の歌 月の宴』
番外編です。
銀の女王とその御子が、まだ魔の森にいた頃のお話です。
それは未だ幼き日のこと。
幼獣達は、狩りを許されたばかりであった。
昼間に草原を駆け回った彼らは心地よい疲れに包まれてうとうととしていた。
銀月が分厚い雲の向こうに隠れた夜だった。
闇に覆われた洞窟の中、御母様の柔らかな声が響く。
寝る前のお話をしていた御母様が、ふと不自然に言葉を途切らせた。
しばしの沈黙の後、銀の魔獣は呟いた。
「月の歌、か。ほう、今宵であったか……」
(何か聞こえるかな)
モニカと弟妹達は小さな三角の耳をピンと立てた。
聞こえてくるのは、
木々のざわめき、
風の唸り声、
小さな魔獣が駆ける足音、
いつもと変わらぬ夜の楽だ。
モニカは首を傾げた。
(特にいつもと変わらないよね?)
弟妹達にも特に変ったものは聞こえなかったらしい。不思議そうに鳴声を上げていた。
御母様がそっと立ち上がる気配がした。
(どうしたのかな?)
離れる御母様の体温を追うべきか、モニカは迷った。お話の途中で寝てしまった弟妹がいたためだ。起きていた弟妹も戸惑っているようだった。
彼らの迷いを断ち切るように、「ついておいで」と御母様の咆哮が暗闇の先から響く。
(御母様が呼んでる。行かないと!)
「御母様、まってー」
「『ちいさいの』、起きてっ」
「んー。『おおきいの』。……なぁにー? まだ朝の匂いじゃないよー」
「『みみなが』、頭をどけて! それ、私の尻尾っ。……噛むなー!」
寝ている弟妹を起こして、幼獣達は慌てて母親を追った。
***
洞窟の外は常と変らぬ夜の森であった。
曇天に覆われた夜空の下、深い闇が魔の森を包む。
己の鼻さえ見えぬ中、幼獣達は互いの体温と匂いを頼りに身を寄せ合った。
閉ざされた空の遥か先、天を見上げる母親の魔獣の足元で、小さな鳴き声が響く。
「何にも見えないね」
「今日はまんまるお月さまの日なのに、ちょっと残念ー」
「『おおきいの』、寒いの? ちょっと震えてるよ」
「『おおきいの』はまんなか! 『おなが』、そっちによってー。ん、ありがとっ」
「ほら、これで寒くないよね」
『おおきいの』を中央に囲い、幼獣達は魔獣団子になって暖をとった。
御母様が、己の足元で丸くなった愛し仔達を見下ろす。長い銀の尾がふわりと揺れた。
母親の柔らかな銀毛が幼獣達を包み込み、彼らを冷たい夜風から守ってくれる。
「さあ、これぞ『森の宴』だ。我が愛し仔達よ。ご覧」
御母様の声に、幼獣達は魔の森に目をやった。
彼らは、その目にした光景に黒と蒼の瞳を丸める。
(光り始めた!)
魔の森の木々が銀色に光りだしていた。
白く眩い光が、輝きを強め、弱め、また強める。
幼獣達は驚いた様子で口々に鳴いた。
「真っ白に光ってるっ」
「お月さまみたいな色ー」
「お日様が昇ってるみたいっ」
「強くなったり弱くなったりしてるよ!」
「御母様、どうして魔の森が光っているのですか?」
小さな尾を激しく左右に振り、丸い瞳をキラキラと輝かせた幼獣達に、銀の獣は満足げに口角を上げた。覗いた鋭い牙が鈍く光る。
蒼の瞳に輝く魔の森を映して、銀の魔獣は謳うように高らかに吼えた。
「美しかろう? さて、なぜこのように魔の森が輝くかを私は知らぬ。ただ、月の歌が聞こえる晩のみに、この森は白銀を宿すのだ」
御母様は蒼の瞳を細め、懐かしげな唸り声をあげた。
「私の父様は、きっと魔の森が月を招いて宴会でもしているのだろうと楽しげに吠えたものだ」
目を閉じて魔力を感じてみてごらん、と御母様は囁いた。
モニカは弟妹達と一緒に、黒の瞳を閉ざす。すると、周囲を満たす魔力にかすかな違和感を感じた。
(魔力が濃いところと薄いところがある)
魔の森を常に満たす濃密な魔力にムラができていた。その濃いところと薄いところの境目を辿って、彼女は思う。
(まるで波紋みたい)
魔力の境目を意識して、彼女は魔の森全体に意識を広げた。
そして、気づく。
「空から魔力が降りてきているみたい!」
魔力の波紋は、遥か天上から降り注いでくるかのように形作られていた。
御母様が心地良さそうに優しく唸る。
「夜空から歌声が響いてくるかのような波動であろう? さて、もう一つ珍しいものを見せてやろう」
珍しいもの? と期待に満ちた目で己を見上げる幼獣達に、にやりと御母様は牙を剥きだし、天に吠えた。
魔獣達の周囲を強い風が渦巻き、彼らを包み込む。
御母様がひと際強く咆哮した。
「このまま飛ぶぞ!」
「え、」
モニカの驚きの声は悲鳴に取って代わられた。
急激な浮遊感が幼獣達を襲う。
「きゃー」
「わー」
「浮かんでるっ」
「回ってるー」
「お母様っ。もっとー」
涙声のモニカは、最後の一匹の鳴き声に内心で吠えた。
(どうしてそんなに余裕なのっ)
「よかろう」
御母様が再び力強く吠えた。
その咆哮をかき消すほどに大きく、モニカの悲鳴が夜空に響いた。
***
雲海は下界から『森の宴』に照らされ、淡く光っていた。
暗闇の中で銀雲が白銀の光を明滅させる様は何とも幻想的である。
しかし、モニカにその風景を楽しむ余裕は無かった。
黒毛玉は息も絶え絶えという様子で、柔らかな毛を膨らませて丸くなっていた。
「『くろいの』、もう空の上だよー」
「よ、酔った……」
「だいじょうぶ?」
「『くろいの』、どこか痛いの?」
「舐めたら治るかな?」
ふるふると震える黒毛玉を、こちらも寒さに毛を膨らませた銀毛玉達が囲む。弟妹達は『くろいの』の背を宥めるように舐め始めた。
御母様も己の尾に乗せた小毛玉達を覗きこみ、心配げに蒼の瞳を細めた。銀の魔獣は、急ぎ火と風の魔力を呼び起こした。その温めた空気で、幾重にも愛し仔達を包み込む。そして、丸まったままの黒毛玉を慰めるように舐め、銀毛玉達の風圧で乱れた毛並みを毛繕ってやる。
モニカの震えが止まったのを確かめて、御母様は天に向かい遠吠えをした。
「ほら、見てご覧。我が愛し仔達よ。月の光が宴に出掛けているぞ」
御母様の声に誘われて、ゆるりと顔をあげたモニカが見たのは、欠けた月であった。
(あれ、今日は満月のはずなのに……)
弟妹達が御母様を真似て月に遠吠える。銀に光る雲海に、幼獣達の未だ拙い遠吠えが、細く長く響き渡った。
「今日は、まんまるお月さまの日なのに!」
「昨日はもっと太ってたよっ」
「欠けたとこが、ほんのり赤く光ってるよー」
「お月さま、『うたげ』に出かけてるのかな」
ふしぎーどうしてー、と幼獣達に見上げられた御母様は喉の奥で低く笑って月を見上げた。
「さてな。どうやら、森の宴で一杯聞こし召したお月殿は、酔いに赤く染まったまま光るのも忘れて、大層御機嫌に歌っていらっしゃるようだ。ここは天に近い分、魔力の波動を強く感じるであろう? 何とも楽しげな御様子ではないか」
細められた蒼の瞳に、幼獣達も小さく笑いを含んだ鳴き声をあげる。彼らは、いまや弧を描くように細まった月を見つめた。
「お月さま、笑ってるね」
「魔力が気持ちいいー。優しい雨を浴びてるみたい」
「いいなー、僕も『森のうたげ』に行きたいなー」
「美味しいものがたくさんあるのかな?」
「『宴』だったら、いつもしているよ」
蒼の瞳をキラキラと輝かせた弟妹達に、モニカは黒の瞳を細めた。
「皆で食べておしゃべりして遊んで、楽しいねって笑ったら、それが『宴』なんだよ」
それを聞いた弟妹達は、小さな尾を振りながら月に向かい吠えた。
「じゃあ、お月さまも一緒に『うたげ』しよー」
「どうやったらお月さまに来てもらえるかな」
「こっちおいでー」
「お月さまー」
そのまま銀の魔獣とその愛し仔達は、月を眺め続けた。
酔っぱらった月に、いい加減に目を覚ませと太陽が朝日を浴びせる、その時まで。
***
鳴いてもなかなか降りて来ないお月さまに弟妹達が泣き出し、「よかろう撃ち落としてみるか」と御母様が発動させてはならないナニカを始めようとしたのを、モニカが必死に止めたというのは、また別の話だ。