【37】シリルとパレヴィダ神殿(2)
パレヴィダ教徒は女神ローネルシアの僕である。少なくとも、教義の上では。
有名な話だが、パレヴィダ教徒は実質的には各神官の支持者であり、女神ローネルシアを信仰する教徒は皆無である。
宗教的にはともかく、実質的にこれほど存在意義のない神も珍しい。
もはや崇拝の対象は女神でなくともよいのではないか、とある高位神官に尋ねたことがある。
(今思えば無謀であった。子供の戯言とはいえ、不信心者と弾劾されても不思議ではない失礼な質問だ。幸いなことに、かの神官は丸い腹を揺らして笑って答えて下さった)
「この世に生きとし生ける者で、母のおらぬ者はいない。木の股から生まれたのでもない限り、な。言っておくが、私の言う『母』は、生みの母に限らんぞ。無力な赤子に乳を含ませ、下の世話をし、あやすもの。それが、血縁者でも赤の他人でも女でも男でもかまわん。彼らは総じて赤子の『母』だ。
我らパレヴィダ神官にとっては、いってみれば、信者の方々も『母』だ。彼らがいるからこそ、私たち皆は生きることができる。だから、我らパレヴィダ神官は母性の象徴たる女神ローネルシアを称える。己を生かした全ての『母』に感謝するために」
それにな、と件の神官は笑みを深めた。
「寄らば大樹の陰、祈らば天下無敵のゴットマザー。この世で最強の生き物はやはり『母』であろう」
当時の筆者は少年であった。今は亡き実母を思った。後妻である継母を思った。
深く頷いた筆者の頭を、その神官は丸い手で軽く叩いて去っていった。
今、筆者は思う。パレヴィダ神官にとっての『母』は、かの神官であろう、と。
(パレヴィダ本神殿秘書『魔獣ブターと僕の100問答』より抜粋)
***
その頃のシリルは、今とは似ても似つかない別人だった。
痩せこけた顔の中、翠の瞳ばかりが大きくギラギラとしていた。
痛みくすんだ金髪は、虫が湧いていたこともあり、入信前に剃られてしまっていた。
肌は栄養失調でかさみ、体は骨と皮、幽鬼もかくやという姿であった。
何とか彼が病床から離れることができるようになった頃のことだった。
初任務をギルバート司祭長より拝命した。
神官見習いとしての初仕事は、彼より幼い神官見習い達の世話係だった。
神官達の中には、
幼い少年達が彼の外見に怯えるのではないかと危惧したり、
長い放浪を経験した彼から悪影響を受けるのではないかと反対したり、
病み上がりの彼に幼い子供の相手は無理だと心配する者もいた。
だが、ギルバート司祭長はそれら全てを却下した。
「下らん。外見に怯える? この私に「魔獣ブタ―が来たぞ、にっげろー」という捨て台詞を吐いて逃げ出す子供達だぞ。多少痩せっぽっちな外見程度に怯える可愛い器か、あやつらが。悪い影響……? 生家で十二分に受けておるわ。あのように幼い子供をパレヴィダ神殿に入れる家がまともなはずが無かろう。おかげで皆良い根性をした子供ばかりだ。知っておるか。あやつら、私のティータイムを狙って中庭に遊びに来て、こちらを見つめてくるのだぞ。同席している信者のご婦人方が幼子に弱いと分かってやっているのだから、まったく」
一番幼子に弱いのは誰だか、というアルフォンスの呟きは黙殺された。
病み上がりという意見に対しては、ふむ、と執務室の天井を見上げ、横に控えたアルフォンスに目をやった。
「まかせた」
目を見開いたアルフォンスが口を開くよりも早く、ギルバート司祭長は扉の向こうに消えた。信者との茶会という名の情報収集の場に参戦するために。
「こういう時にばかり素早いのだから、あの方は……」
がっくりと肩を落とした彼は、仕方が無く羽ペンと羊皮紙を手に取る。
文句を言いつつも、彼はあまり体力を使わない仕事を調べ上げてシリルの担当にした。
ついでに、ギルバート司祭長のティータイム中にシリルが中庭をよく通るように予定を組んだ。
ほんの少しの腹いせである。
あの少年は自分から何かをねだるということをしない子だ。それに、他の子供が欲しそうにしていれば、すぐにその子に分けてしまうだろう。誰にもばれないようにこっそりとシリルに菓子を食べさせるのに苦労するがいい。アルフォンスは密やかに笑った。
***
こうしてシリルは神官見習い達の世話係となった。
しかし実のところ、どちらが世話係でどちらが年下か分からない状況だった。
ある日、ある少年はシリルが中庭で仔犬を抱き上げるのを見かけた。
「僕も一緒に仔犬さんのお世話するー」と駆けだした少年は次の瞬間、目を見開いた。
なんとシリルが中庭の聖樹に仔犬を逆さづりにし始めたのだ。
「シっ、シリルさま! ダメだよ! それは神殿の飼い犬だよ。絞めちゃダメー! 食べちゃダメ―!」
高級娼婦であった母親が農家の出であってよかったとこれほど神に感謝したことは無い、と少年は後に語った。そうでなければ、鶏の絞め方を知らず、シリルが何をしようとしているか分からなかったであろうから、と。
ある日、幼年神官見習い向けの神聖文字の授業中にシリルが教材を運んできたことがあった。
「シリルさまー。しんせー文字、難しくてよく分かんないよ。統一文字だったらわかるんだけどー」と半泣きの少年に、シリルは首を傾げた。
「『統一文字』って何だ?」
え、と少年は固まった。
へ、と講師役の青年神官も固まり、教室の外に駆け出した。
「シリルは辺境伯家で一通りの教育を受けていると言ったのは誰だっ。きちんと確認しなくては駄目ではないか!」と神官達は責任追及に忙しそうだった。
そんな大人達とは逆に、幼子達は冷静だった。
「シリル様、僕の横に座ってー。こっちだよ!」
椅子に座ったシリルを少年たちが囲む。
「僕の石板と白墨を貸してあげるね」
「統一文字っていうのはね……」
小さな手が握った白墨が流暢に書き連ねる文字列を、困惑したようにシリルは眺めた。
「え、と、授業の邪魔に……」
ならないよっ、と少年達が声を揃えた。
「神聖文字なんて楽勝だもん」
「そうそう。僕なんて家で貴族間の暗号まで御父様の日記を盗み読みして自分で覚えたよ」
「あの神官様は新人だから、幼年参拝者向け神聖語授業の予行演習として付き合ってあげていただけだよ」
少年達は悪戯げな表情で声を潜めて囁いた。
「大人には内緒だよ」
くすくすと小さな声で楽しげに笑う少年たちに、シリルもつられて口元に小さく笑みを浮かべた。ありがとう、と彼は小さな声でお礼を言った。
翌日から少年達に交じって文字を習うシリルの姿があった。
シリル様と一緒だ―と喜ぶ子供たちに、シリルもまた少し嬉しそうであった。
またある日、家に帰りたいと大泣きしている少年がいた。
人気のない神殿の倉庫、その埃っぽい大理石の床に座り込んで、彼は声なき声で叫んでいた。
今は亡き母を求め、己を捨てた父を恨み、自分を追い出した後妻を呪って、彼は泣く。
ふと、涙に歪む彼の視界に影が浮かんだ。
彼と目線を合わせるために膝をついた誰かは、ほろりほろりと頬を伝う滴を輪郭のぼやけた手で掬う。
酷く細い指だった。その手はかさついてもいた。
「……しっ、しりる、さま?」
片目に黒い影が映り、目もとをぐいっとぬぐわれた。
半分だけ鮮明になった世界の中、その人は――。
少年は急いでもう片方の目にある邪魔な涙を己の手で取り払った。
そして、小さな手を慌てて伸ばした。
紅葉の手を伝ったのは、銀色の滴だった。
いまだしゃっくり上げながら、少年は震える声で問うた。
「っ、どっ、どうして、シリルっ、さま、がっ、泣くの……?」
え、と頬に触れてシリルは目を丸くした。
「あ、本当だ」
ぱちぱちと瞬く目から溢れる水、水、水。
「あ、あれ、止まんないや」
どうしたらいいのかな、と己を見つめるシリルに、少年は眉尻を下げた。
「……シリル様が泣いてどうするの」
仕方が無いなとシリルの涙を拭き、頭をぽんぽんと叩いて慰める少年は気づいていなかった。自分が背にする扉が少し開いており、そこから幾つもの顔が覗いていて、よくやったと頷いていることに。
が、彼らはすぐに慌てだすことになる。
シリルが何時までたっても泣き止まず(泣くのが久々過ぎて泣き止み方を忘れてしまったらしい)、全員(ギルバート司祭長を含む)でシリルを慰めることになるのは、このもう少し後の話だ。
***
神官見習いシリルは、子供達の世話役になることを反対されていた。
反対の理由は、様々であった。
彼の外見であったり、
――「おばけー」と笑った子供達にきゃわきゃわと囲まれた。
彼の過去であったり、
――「あくどさなら僕の母上の勝ちー」「ええ、えげつなさなら俺の父様の方が上だよっ」と少年達は胸を張った。
彼の健康状態であった。
――「重いものはもったらだめ。ほら、あそこに無駄にムキムキな神官様がいるよ。元騎士なんだって。立ってる筋肉は目上でも使わないとねー」とトコトコと幼子達は青年神官の捕獲に向かった。
様々な理由があった。しかし、どれも杞憂であった。
神官見習いの幼子達には大人の予想を超える強さと逞しさがあった。
そんな彼らに関する報告を聞いたアルフォンス神官は顔を引き攣らせた。
「すぐに神官見習いを拾ってくる暴走上司に加えて、こいつらが俺の部下になるわけか……」
上司から菓子を強奪でもしないとやってられん、と彼がギルバート司祭長の隠し戸棚に手を伸ばす5分前、扉から覗く丸い大きな瞳達に気付く8分前、件の上司の悲痛な叫びが響き渡る15分前のことであった。
「魔獣ぶった―が来た! にっげろー」
「私のとっておきが……。おのれ、覚えておれ!」
「そこまで悪役台詞にこだわらなくとも……」
「口元に菓子屑がついてるよ、アルフォンス」