【35】いつか見た、瞳。
目前の優美な佳人が叫ぶ過激な言葉の数々にモニカはあっけにとられていた。パレヴィダ神殿の外交官だと聞いていたこともあり、腹に一物ある人物だと考えていた。モニカの脅しに対して、逆に脅し返すか、何らかの反論をしてくるだろうと予想していた。だが、彼の口から出た言葉は対外交渉に優れた神官とは思えない暴言だった。これほど直情的な人間であったとは想定外だ。
叫び続けるシリルにどう対応したものかと考えるうちに、ふつふつと腹の奥から湧きあがってくるものがあった。随分と好き勝手を言ってくれる。
「黙れ、人間。喰らうぞ」
喉の奥から低い唸り声が出た。薄まっていた魔力が再び室内を満たし始める。
煩い人間を黙らせるつもりだった。だが、シリルはここでもモニカの予想を裏切った。
胸に手を当てた彼は、真っ直ぐモニカを睨みつけて叫んだのだ。
叫びすぎて掠れた声で。
「ああ、喰えよ! どのみち近いうちに死ぬんだ、好きにしろ。俺に直接牙をつきたてるのがあんただろうが俺自身だろうが馬鹿貴族だろうが、俺を殺すのはあんただ。俺が必死に守ってきたアホ共を殺すのは、アンタだっ」
ギラギラと暗い光を宿した瞳がモニカを射竦める。
人間程度の威嚇に怯えるモニカではなかった。しかし、その物騒な言葉に彼女は黒の瞳を細めた。
「……死ぬ?」
訝しげな声にシリルがいらだたしげに答えた。
「ああ、そうさ。パレヴィダの贄たる証、生涯切ることの許されぬ髪を切ったんだ。出家の際に誓った通り、俺達はこれから一週間以内に死ぬ。そうじゃなけりゃ、ここに入った原因に殺される」
そこまで言ってシリルは言葉を途切らせた。
翠色の瞳に、尾を限界まで膨らませ、背筋を逆立てたモニカが映っていた。
まさか、と小さな声で彼は呟いた。
「まさか、知らなかったとは言わねぇよな、パレヴィダ神官の掟を」
震えた声に答える時間も惜しかった。モニカは急いでヴォルデにかけた魔力の拘束を解く。説明を求める黒の魔獣に彼女の盟友は深いため息をついた。
彼はまず、シリルに向かって首を振って見せた。
「彼女は知らない。魔獣は精神的成熟が早いとはいえ、まだ七歳なんだ。パレヴィダの掟などという人間社会の暗部を、一部とはいえ知らせるにはまだ幼すぎる。銀の魔王陛下とその番殿とも相談の上、十歳頃から少しずつ教えるつもりだった。……モニカ」
彼はシリルの横に片膝をついてモニカと視線を合わせた。
幼い子供に言い聞かせるようにゆっくりとした調子で淡々と彼は語る。
「パレヴィダ神官は一部の人間から『生きる屍』『白亜の囚人』と呼ばれる」
揺れる黒い瞳を、後悔の色に染まった黒の瞳が見つめる。
もっと早く教えていれば、そう彼が思っていることが声に含まれた思念から痛いほどに伝わってきた。
「パレヴィダ神官という身分は、本来ならば殺されるはずだった人間を社会的に一度死んだことにして命だけは助けるものだ。生前の名も地位も財産も家族も友人も、何もかもを捨てて彼らは神官になる。理由は様々だ。正妻に殺されかけた妾の子、承継権争いに担ぎ出されるのを厭った王族、一族郎党死刑になるはずだったがあまりに幼いと許された子」
母性の象徴たる女神ローネルシアの名の下に、彼らは生命を国家から保証される。
ただし、とヴォルデが言ったところで、シリルが暗い声で続けた。
「ただし、パレヴィダの掟を守ることが条件に、な。一、元の名を捨て、神官名を授かること。一、王命には絶対服従であること。……一、国家への忠誠の誓いとして、生涯髪を切らないこと」
シリルの声には悲痛な嘆きが含まれていた。
彼の揺れる翠色の瞳に、モニカは見覚えがあった。
それは、いつか、暗い洞窟の中で見た覚えのある瞳だった。
(ああ、これは。この目は――)
「掟を破れば、国家反逆罪で俺達は殺される。あんたに首を切られる前に、髪を切られた時点で俺達の命は風前の灯ってわけだ。分かったかよ、御仔サマ。今さら分かったところで、全部遅い」
そのまま顔を覆ったシリルの肩を、今度こそ慰めるようにアルフォンスが叩いた。
室内を覆う沈黙を破ったのは、黒の魔王だった。
「分かった」
ぽつりと呟いた獣に、潤んだ翠の瞳が向けられる。
「だから、分かったところで遅いって言ってんだろうがっ」
頬を伝う銀滴は、零れ落ちる前に舐めとられた。
瞬く翠の瞳。そこに映された黒の魔獣が、大きく口を開けた。
胸を反らし、白亜の天井のそのまた遥か彼方天上を睨み上げ、獣は再び咆哮する。
室内を再び襲った暴風に人間三人は声なき悲鳴を上げる。ふいをつかれた神官二人は衝撃に床に膝をついた。彼らは気づかなかったかもしれないが、体勢を崩した彼らを、そっと包む風があった。
魔力に振り回される空気の悲鳴が止み、身体を襲う風力が消えたのを感じて人間達は目を開けた。
応接室は先程以上に酷い有様だった。
「予算おりっかな、コレ。壁の塗装も剥がれてっし、完全に改装決定だろ」
もはや素を隠す気力もない様子でシリルが言う。
それに応えるアルフォンスの声もげっそりとしていた。
「必要ないだろう。一週間後には、この神殿の住人は誰も生きてはいまい」
そっか、と呟きシリルは頭を掻いた。
「うっわ。ぼさぼさだ。髪がなげぇとこういう時不便、だよ、な……」
そこまで言って、彼は慌てた様に己の髪を掴んだ。
先程はなかったはずの長髪が彼の目の前にずっしりとした重みを伴って現れる。
しばし呆然とした後、彼は黒の魔王――モニカに目をやった。
気まずげに目をそらした後、モニカはシリルの鼻に己の黒い鼻頭を合わせて、小さく鳴いた。
「ごめんなさい。やり過ぎました」
え、と目を丸くしたシリルに耳を伏せたモニカは言った。
「神官の髪は全部元の長さに戻したよ」
「ほ、本当にか? 全員? 一人残らず?」
震える声で、シリルは尋ねた。
それにモニカは力強く頷き、答えた。
「確かに、全員戻したよ。ただ……」
続くはずだった言葉は、きゅうっという鳴き声にとってかわられた。
勢いよくモニカに抱きついたシリルは、彼女の首筋に顔を埋めたまま震えていた。
毛筋を濡らす水滴を感じたモニカは、神官を長い尾で優しく覆った。
小さな声が胸元からモニカのうちに響く。
「ありがとう」
「よかった」
「これで、あの子達は。少なくとも、あの子達だけは救われる」
何度も、何度も。
(似ている、と思った)
(あの時に見た御母様に)
(己の愛し仔を、私を失うかもしれないと揺れていた、蒼の瞳に)