【34】ありえないことは往往にして起こりうる。
「馬鹿な。召喚者の魂が銀の女王の御仔に生まれ変わるなどありえません」
思わずといったふうに神官アルフォンスが呟いた。
かすかに眉間に皺を寄せた彼に、モニカは白い牙を剥きだして嗤う。
「ありえたからこそ、ここに私がいるんだよ」
ゆっくりと二人の神官に近づきながら、モニカは歌うように鳴く。
楽しげな調子にも関わらず、そこに込められた思念からは感情が読み取れなかった。
押し殺した激情を覗かせた瞳が神官達を射竦める。
いつしか、室内は黒の魔獣が放つ魔力で満ち、口を開くことすら躊躇わせる威圧を人間たちに与えていた。
「私にはね、異世界の少女の記憶があるの。彼女は貴方達も良く知っている人物の姉だったんだよ。誰だと思う?」
凍りついたように動かない神官二人の前で立ち止まり、モニカは小首を傾げる。
「コサカコウキ」
その名に目を見張る神官達に、モニカは喉を鳴らした。可笑しくて仕方がないというように。
「そう。小坂光輝。貴方達が異世界から呼び出した勇者は私の弟だったんだよ。わらっちゃうよね。前世の弟が今世の母親を倒す勇者だなんて、三文小説にしても下らない」
細められた黒の瞳に神官達が映される。
「もう一度、コーキに逢わせてくれたこと。御母様の仔としてこの世界に出逢わせてくれたこと。その二つだけは貴方達に感謝しているの」
ありがとう、と吠えたモニカの瞳には、しかし、冷たい光が宿っていた。
「でもね」
彼女は魔力を解放して巨大な黒の天狼に戻った。
室内に満ちる濃密な魔力に神官達の背を冷たい汗が伝う。
「やっぱり、御母様とコーキを傷つけようとした貴方達パレヴィダ神官をただでは許せない」
ヴォルデが慌てたようにモニカに向かい一歩踏み出す。だが、彼が声を発するよりも早くモニカは尾を振った。それが合図だった。神官達に語っている間に構築した魔術陣に漆黒の魔力が注ぎ込まれる。
彼女は王都に響かんばかりの大音上で高らかに吠えた。同時に、神官二人の足元に円形の魔術陣が浮かび上がる。黒く染まった陣には彼らには理解できない複雑な文字と文様が描かれていた。だが、彼らがその陣に気づく前にその魔術は発動する。
室内に魔力の渦が吹き荒れた。机に山積みにされていた書類が舞い上がり、耳障りな悲鳴をあげる。モニカが先ほど使った探索魔術より強い風に、人間三人は腕で顔を庇い、姿勢を低くした。だが、モニカだけは瞬くことなく黒の瞳を開いていた。自分が行使した魔術の結果を最後まで見届けていた。
***
風が吹きやんだのを感じて、人間達がゆっくりと顔の前から腕を外し目を開けた。
室内は惨憺たる有り様であった。
書類が部屋中に散らばり、床を覆っている。
ティーカップは卓上から落ち、絨毯に紅茶色の染みを広げていた。
花瓶は倒れ、机の上にできた水溜りに花が浸ってしまっている。
シャンデリアは未だ揺れ続け、蝋燭が全て落ちてしまっていた。床を覆う大量の書類に紛れ、見つけ出すのに苦労しそうだった。火がついていなかったことだけが幸いと言えた。
室内にさっと目で観察した二人の神官は、あれだけの風が吹いたにしては軽い被害に安堵の表情を浮かべた。だが、己の横にいる神官を目に入れた瞬間に彼らは叫び声をあげた。
「髪が!」
パレヴィダ神官は終生髪を切らない。長く神官でいるほどに伸ばされた髪は女神に捧げる信仰心の現れともいわれている。その髪が肩のあたりでバッサリと切られていた。
おそるおそるというふうに己の髪に触れた彼らはその短さに絶句した。
ヴォルデは室内の惨状も目に入らないという様子で神官二人の短くなった髪を凝視していた。少し震える声で彼は呟いた。
「なんてことを」
そこに込められた非難にモニカは悲しげに尾を垂らし、静かな声で鳴いた。
「髪を切ったのは貴方達だけではないよ。この世界にいる全パレヴィダ神官の髪をさっきの魔術で短くしたから」
眉間に皺を寄せたヴォルデがモニカに怒鳴った。
「モニカ! 何を考えているんだ! こんなことが許されるはずが……」
続くはずだった言葉は風の魔力で口を塞がれて途切れた。
ヴォルデを強制的に黙らせたモニカは、再び大型犬になると神官二人を見据える。
近づけば怯えたように後退る神官二人にモニカは告げた。
「呪いをかけようか、パレヴィダ神官、貴方達に。私の命をかけた呪いを。もし、これから言う約束を破った時には」
白い牙を鈍く光らせて彼女は唸り声を上げた。
「全てのパレヴィダ神官の首を切る。それが可能なのは、外の騒ぎを聞けば分かるよね?」
沈黙を保つ室内とは裏腹に、外からは悲鳴や怒号、人が駆け回る音などが絶え間なく聞こえてきていた。パレヴィダ神殿全体が大混乱の中にあるようであった。
それだけではなく、モニカの魔獣の耳は王都でも同様の騒動が起きているのを聞きとっていた。国中のパレヴィダ神官のいる地が同じ状況となっているはずだった。
シリルは目を閉じて肩を震わせていた。その細い肩をアルフォンスが宥めるように叩き、掠れた声でモニカに尋ねた。
「何を私達に約束させようというのだ。黒の魔王」
ゆっくりと尾を振りながらモニカは答えた
「二つの約束を。一つは、二度と異世界召喚をしないこと。もう一つは、私が被召喚者であることを誰にも話さないこと」
その言葉を聞いてシリルがかっと眦を決した。
そんなこと、と激情に震える声でシリルが叫んだ。
「言われなくとも二度としないし、誰にも話さなかった! 異世界召喚なんてバカな真似、俺が助祭枢機卿になったからには絶対にさせないつもりだったんだ。あんたが異世界人だったことなんざ、外交取引にも使えねぇことだ。話したらこっちがヤバくなるようなことを、口が軽くてお気楽なバカ共の誰に言うってんだっ! そんな下らないことのために俺達の髪を切ったっていうのかよ、この馬鹿魔獣!」
室内の空気が凍った。先ほどとは別の意味で。
アルフォンスとヴォルデが目を丸くして神官シリルを凝視している。
美貌の佳人はなおも叫び続けていた。もはや意味のある内容ではなく、下町訛りの聞くに堪えない罵詈雑言に変わった糾弾を、止められるものは人間にも魔獣にもいなかった。
後にヴォルデは思った。
召喚しなくともパレヴィダ神殿には立派な勇者がいるではないか、と。