【33】最初の記憶
もし、召喚直前に事故で『小坂晶』が死んでいなければ。
もし、『小坂晶』の魂が、銀の魔王の御仔以外の存在として生まれ変わっていれば。
もし、『くろいの』が、魔獣となった己を受け入れなければ。
もし、コーキとモニカが出会わなければ。
可能性は無限にある。選ばれなかった選択肢を考えても仕方がない。分かっている。分かっているのだ。それでも、起こらなかった未来を考える度に、モニカはゾワリゾワリと黒毛を蠢めかせずにはいられなかった。
***
彼女は乳飲み仔として目覚めた当初、自分が魔獣として生まれ変わったことを受け入れられなかった。
知らない世界。己の母だと本能が教える、巨大な銀の獣。生まれたばかりらしい、目も開いていない銀の幼獣達。空腹を訴える腹。己が獣だなどと信じたくない、と乳を吸うことを拒否する心。
真っ黒に塗りつぶされた彼女の心に光を灯したのは、御母様と幼獣達だった。
初めてモニカのことを『くろいの』と呼んだのは御母様だった。
乳を飲まず弱る幼獣に彼女は優しい声音でそっと囁いた。
「我が愛し仔よ。世にも稀有なる色を宿しし『くろいの』よ。何をそれほど憂うというのか。何がお前を怯えさせるというのだ。案ずることはない。お前を恐れさせるものが何であろうとも、この牙で切り裂いてやろう。我が愛し仔のためならば、私は、この命すら惜しくはないのだから。
……『くろいの』。我が愛し仔よ。だから、どうか、生きておくれ」
小さく震える御母様の声に、弱弱しく黒の瞳を開いた獣が見たのは、眩い銀色だった。
既に日が落ち、洞窟に差し込む月光を弾く銀色が、『くろいの』の黒毛を優しく包み込んでいた。
御母様の腹に抱え込まれた『くろいの』はゆるりと顔を上げた。
そして、己を見つめる四対の蒼の瞳に気がついた。
いつの間にか、弟妹達は目が開くようになったらしい。
その小さな蒼の瞳が、彼女を、巨大な銀の獣に包まれた小さな黒毛玉を映していた。
きゅう、と一匹が鳴いた。
それに続いて、他の三匹も次々と鳴き声を上げる。
お母様とはまるで違う、拙くてたどたどしい思念が込められた鳴き声だった。
「『くろ、いの』」
「『く、ろいの』、のむ」
「お、かあ、さまの」
「のむ」
小さな銀の毛玉達が彼らの体を押し付けてぐいぐいと『くろいの』を御母様の腹に近づけさせる。
まだ四足で歩くことも覚束ない様子だった。
それでも彼らは必死に、柔らかな銀毛と温かな体温でもって小さな黒毛玉を取り囲んだ。
十分に乳を飲んでいないため冷え切った彼らの兄弟を暖めようとするかのように。
『くろいの』は幼獣達に押されて御母様の腹を見た。
そこには仔魔獣にとって命の源泉とも言える乳があった。
どうやら、これを飲め、と言っているらしい。
『くろいの』はゆっくりと頭上を見上げた。
心配げに揺らめく蒼の瞳と目が合った。
初めて見た時には、その迫力に彼女が気絶してしまった巨大な獣。
覇気に満ちていた表情は、今、不安に彩られ、蒼の瞳も陰ってしまっているように見えた。
「『くろいの』」
巨大な銀の獣と小さな銀毛玉達が、口々に彼女の名前らしきものを呼ぶ。
色こそ違えど、彼れらと同じ姿をした小さな黒毛玉が揺らめく蒼の瞳に映っていた。
その黒の獣は、酷く飢えた心細げな顔をしていた。
背中と両隣りに弟妹達を張り付けたまま、ぽすん、と『くろいの』は御母様の腹に顔を埋めた。
温かかった。
柔らかくもあった。
ふかふかしていた。
寂しさで冷え切った心に、温かい何かが流れ込んでくるかのようであった。
くぅ、と鳴いたのは、はたして『くろいの』の腹であったのか、喉であったのか。
久々に、激しい空腹感が『くろいの』を襲った。
そこから先は、本能だった。獣の思考が求めるがままに『くろいの』は乳をむさぼり飲んだ。
そんな彼女につられるように、弟妹達もまた乳に吸いついく。
御母様は安堵の溜息をつき、彼らが乳を吸いやすいように態勢を変えてくれた。
顔を上げずとも、彼女が優しく細めた蒼の瞳で彼らを見守ってくれているのが分かった。
小坂晶であった魂が、『くろいの』としてこの世界で生きたいと、生きようと思った、最初の記憶だった。
***
モニカにとって家族は生きる意味と同義だった。
心に灯った銀色のキラキラとした光達。
その家族を害する存在として、自分はこの世界に喚ばれた。
それを知った衝撃は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
地中深く埋めて二度と日の目を見なくさせたい事実だった。
――その、事実を。
モニカは、二人の神官を感情を消した黒の瞳に映して白い牙を鈍く光らせた。
(一生の秘密を、この私に鳴かせたんだよ。しかも、盟友の目の前で。
さぁ、覚悟はできているよね、神官サマ?)




