【31】盗み食いは駄目と言われたので、おねだりしてみた。
不可視の点を宙空に穿つ。並び立つ点が線になり、円になり、球となる。
そこに、モニカは己が身のうちから漆黒の魔力を流し込んだ。
現れた球状の魔術陣を中心に、室内に風が渦巻き、卓上の書類を吹き上げる。
モニカの頭上で無数の紙が舞い踊る。
そのあまりに強い魔力と風圧に、二人の人間が思わずといったふうに瞳を閉じるのが見えた。
モニカもまた、漆黒の瞳を閉じた。
黒の毛皮とヒゲを風が弄ぶに任せて、彼女は魔術の翼を広げる。意識を拡散させ、魔術の見えざる手が書類から拾い上げた情報の海を、魔術の翼で泳ぐ。
人であれば発狂したであろう、情報の洪水。
それを飲み干し、モニカは低く唸った。
――見つけた。この記録だ。
目的のものは見つかった。素早く尾を一振りして、情報収集及び探査魔術を霧散させる。それと同時に、物体移動の魔術陣を新たに組み上げ、発動させた。
風が止んだのを感じた二人の人間が再び目を開けた時には、最後の一枚が、ひらりと元あった山の一番上に舞い降りるところであった。
舞い上げられた書類は全て元通りとなっていた。
「シリル神官」
モニカは白い牙を剥きだし、漆黒の瞳に金髪の佳人を捉えた。
「異世界召喚事例簡易表の53枚目にある、8年前の春告げ鳥月にあった失敗召喚について少し聞きたいことがあるのだけれど、いいかな」
神官シリルが信じられない、と言いたげに目を見開く。
慌てて書類を捜し出した彼の手が微かに震えているのに、モニカは気づいた。
「た、確かに、その事件について53枚目に記載があります」
ヴォルデが卓上に幾つも築かれた書類の山を見やり、呆れたような声で尋ねた。
「モニカ。今の一瞬でここにある書類全てを読み切ったとでもいうのか」
モニカは両前足を踏ん張り、胸を張って答えた。艶やかな黒毛がふわりと揺れる。
「もちろん。だって、御父様自慢の魔術だもの」
常に机上を書類の山で埋めているヴォルデが、今度俺にも教えてくれないか、と感心した声で求めるのに、モニカはきょとんと眼を丸くした。
「いいけど、狂うよ?」
え、と固まったヴォルデにモニカは小首を傾げた。
「だって、私達天狼と人間とでは魔獣としての器が違うもの。魔力許容量も空間把握力も、なにもかもが。天狼用の魔術を使って無事な人間がいたら、そっちの方が怖いよ」
怖い、と言いながら、ん? とモニカは顎に尾の先を当て、考えた。
(あれ、そういえば、御父様って元は人間ではなかったっけ?)
暴走しがちな御母様や弟妹達の影に隠れがちだが、実は、常識外れという意味では魔獣一家で最もデタラメな御父様であった。
***
パレヴィダ神殿の違法異世界召喚は、なんとも呆れたことに、数百年にわたり、何百回と繰り返されていた。あまりの多さに、査察用資料は規模の大きさなどを基準にして主要なもの以外は簡易な記述のみとなっていた。
そして、モニカが指定した召喚は、簡易な記述の召喚事例に分類されている、とシリルは申し訳なさそうに告げた。
「少々お待ち下さい。詳細な資料と担当者を呼んでまいります」
足早にしかし優雅に立ち去った神官に、モニカは黒の瞳を細めた。
シリルの顔色がかすかに変わっていた。
常人であれば分からなかったかも知れない。
だが、モニカは魔獣だ。
魔に生きる獣の瞳は、彼が纏う魔力の揺らぎを確かに捉えていた。
(私が査察に口出ししたことがそんなに予想外だったのかな)
食べ物と小動物に騙されたりするとか、本気で信じられていたのだろうか。
モニカは、これまでの自分達魔獣一家とパレヴィダ神殿の交流を思い返してみた。
副神官長をボロ雑巾にする御母様。
一角獣か美味い肉をよこせと咆哮するバルトロ。
教皇の純白の法衣に肉球スタンプを押すエルティナ。
魔力の風で副神官長を怪我をさせないように優しくそっと転がすアルクィン。
副神官長のお菓子をじぃっと見つめるリーナス。
つぶらな瞳でティータイム中の副神官長を見つめるリーナス。
根負けして菓子皿をリーナスの前に置く副神官長。
満足そうに菓子をあむあむと齧るリーナス。
ほどほどにね、と言いつつもあまり止めようとはしない御父様。
――これからは、もう少し平和的な交流を心掛けてみようかな……、と少し耳を伏せたモニカだった。