【25】今夜は月が綺麗だね、と少年は笑った。
黒の勇者は寝室の大窓から夜空を眺めていた。
満月に照らし出された幼い顔には険しい表情が浮かんでいる。
夜風に黒の髪をなびかせ、彼は皓々と輝く月をただ眺めていた。
「へい! そこの少年。おいらと一緒に夜の散歩としゃれこまないかい?」
少年の頭上から一頭の魔獣が音もなくバルコニーに降り立つ。突然の登場と色々と台無しな台詞に、少年は複雑そうな表情で笑った。
「どうしてこの台詞でお母さんを釣れたのかが、俺、いまだに理解できない……」
魔獣が吼えた台詞は小坂家一子相伝のナンパ術だった。若かりし頃の父親が幼馴染みであった母親を初デートに誘った時の台詞だそうだが、何故この台詞に母親が頷いたかはコーキにとって小坂家七不思議の一つであったりする。呆れた表情の弟に、姉は可笑しそうにヒゲを震わせる。
「あの二人は意外と割れ鍋に綴じ蓋なんだよー」
不思議そうな表情をするコーキにモニカはふふふ、もうちょっと大きくなったら分かるよ、と笑い、艶やかな黒毛に覆われた背を向ける。
「月が綺麗だね。夜空の散歩と洒落込まない?」
何それ、愛の告白? と口元を緩めた弟に、うん、魔王一家では恒例のイベントなんだよーとモニカは返した。
***
黒の獣の背に乗り、黒の勇者は夜の空を駆ける。辿り着いたのは王宮外れにある尖塔であった。モニカは、コーキを背から屋根に降ろすと、魔力を押さえて犬の姿となる。そして、夜風からコーキを庇うように彼女は寄り添った。高いなぁと怖がる様子もなく下を見下ろす弟に、王都で二番目に高くて、私のお気に入りの場所なんだよ、と姉は尾を振った。一番はどこなの? とコーキが尋ねる。
「ええと、ほら、御父様がよく籠もっている塔があるでしょう? 銀の揺籃っていうだけど、あれが王都で一番高い建物なんだよ」
御父様は、まだ人間だった頃、桁外れに高い魔力量から色々な人間や魔獣に狙われたんだって。そういう人間とかから御父様を護るために当時の王が作ったのが銀の揺籃――銀の愛しき幼子が眠る揺りかご――だって聞いているよ。子供のために王都一の塔を最新の魔術の保護付で建ててしまうなんて過保護だよね、と王子の娘が牙を剥きだし笑う。黒の勇者は、なるほど、御父様の親馬鹿は遺伝か、と深く頷いていた。ちなみに、へたれと恐(愛)妻家も遺伝していたりする。
「月に手が届きそうだね」
眩しそうに満月を眺めるモニカに、コーキもまた天を見上げる。
「うん。でも、届かないからこそ月は月なんだよ」
首を傾げたモニカに、光輝は片手を天に伸ばし、月を撃ち落とす真似をする。
「だって月を撃ち落としても、それは、ただの巨大な石ころだ。月が輝いて見えるのは、太陽の光を反射しているからで、月は独りじゃ光れない。月は宙にあるからこそ光り輝くことができるんだよ」
だから、と光輝はモニカを見上げる。
「俺は月を地に引きずり落としたりしない。だって、宝物にはきらきらと輝いていて欲しいものでしょう?」
姉の膨らんだ尾を宥めるように撫でて弟は告げる。
「お別れ、だね」
コーキ、と震える声で己を呼ぶ姉に、光輝は黒の瞳を潤ませ、笑う。
「知っていたよ。モニカは、もう、アキラ姉じゃなくてモニカなんだって。魔王一家の長女で、あの気に食わない男の盟友で、魔獣なんだよね。家族が好きで、王宮の人間が好きで、一角獣と神官の悲鳴が大好物な、この世界を愛するモニカ――でも」
いつかのようにモニカの首に縋り付き、艶やかな黒毛に顔を埋めコーキは呟く。
「俺の姉だから。生まれ変わっても、魔獣になっても、異世界にいても、モニカになっても、姉さんは、俺の姉さんだ」
うん、と頷いたモニカが、弟の背を宥めるように前足でタシタシと叩く。
今夜は月が綺麗だね、と呟く弟に、目と耳を赤くした姉が、再び、うん、と頷いた。
***
すっきりした、とコーキは少し目元を赤くして笑う。
モニカがどちらの世界を選ぶか。それは、彼女が魔王一家や銀狼騎士団と戯れ、王族やパレヴィダ神官で遊ぶ様を見ていれば、コーキに言わせれば一目瞭然であったそうだ。特に一角獣狩りの時のモニカは妙に輝いて見えたという。何か恨みでもあるの? 置き土産代わりに俺が果たしてもいいよ? と純真な瞳で見上げる弟に、暴走する弟妹は間に合っていますと激しく首を振るモニカだった。
何時、モニカから別れを告げられるか、と怯えるのにも飽き、いっそ、石ころでもいいから持ち帰っちゃおうかと思っていたところだよ、モニカ姉は生まれ変わってもマイペースだよね、と弟は爽やかに笑う。え、私の意志は? と後じさる姉に、よいではないかーと襲いかかる弟。ひとしきりじゃれ合った後に、姉弟は屋根に転がる。
「あんまりモニカ姉が待たせるからさ、俺から言ってやろうと思っていたところだったんだ」
そ、それはお待たせいたしまして、と耳をへたらせたモニカに、モニカ姉は天然だから仕方ないよ、と弟はその頭を撫でる。弟に慰められ、ますますしょぼんとした耳と尻尾をニマニマと面白そうに眺めていた弟は、ふと思い出したように顔を上げ、モニカの黒の瞳をじっと見つめた。
「それよりもモニカ姉。ヴォルデのことなんだけど」
うん? と首を傾げたモニカにコーキは輝かんばかりの笑顔で告げた。
「俺は、義弟と呼ばせるつもりはないからね」
どうしてコーキをヴォルデが弟と呼ぶの? と目を瞬かせた姉に、弟の方が脱力した。コーキが、この世界で一番姉が輝いていると思ったのは、彼女が、ある人物と一緒にいる時だった。だが、この天然の姉はまだ自分の気持ちに気づいていないらしい。
あの男もさぞ苦労することだろう、と敵ながら同情するシスコン弟であった。
アキラとコーキの母もまた、天下一品の天然嬢であり、そんな彼女を口説くために生み出した直球かつ古典派の術こそが、小坂家一子相伝ナンパ術であると、父親の数々の苦労話と共にコーキが知るのは、また別の話だ。