【21】弟妹は可愛いものです。
懐かしい声に呼ばれている気がする。
聞こえるはずのない声が
誰も知らないはずの名を
呼んでいる気がする。
「……え……ラねえ、アキラ姉! 朝だよ!」
「あと十分……」
まどろみの中、モニカは己の耳元で怒鳴るナニカを前足で抱え込み、丸くなる。
うわ、ちょ、とか奇妙な人間の鳴き声が聞こえた気がした。
知らないはずなのに、どこか懐かしい鳴き声が。
んーねむいーと、己の尾を枕にモニカは低く唸った。
もう一度、深く眠りの底に沈もうとしたモニカの顔をナニカが叩いた。
(肉球が無い……人? 魔獣を叩く度胸のある人間というと……)
「……ヴォルデ?」
無意識の呟きに応えたのは低い唸り声だった。
「やっぱり、あの男、締める」
物騒な台詞に一瞬で目が覚めたモニカがその日最初に見たのは――
「おはよう、アキラ姉」
己の毛皮に埋もれた、まぶしい笑顔の愛弟だった。
「お、おはよう、コーキ。締めるって、その、誰を?」
「あはは、やだなぁ。決まってるじゃん。アキラ姉、まだ寝ぼけてるの?」
明るく笑う弟の目は笑っていなかった……。
***
どうにか、弟に『第二次ヴォルデ闇打ち計画』の実行を思いとどまらせる頃には、随分と日が高くなっていた。
部屋付きのメイドに頼んで弁当を作って貰い、モニカは光輝を背に王都の空をのんびりと走る。
「すごい!」
ブランチのはいった大きなバスケットを抱えた光輝が歓声を上げた。
弟の機嫌が直ったらしいことに内心ほっとしたモニカは走りながら背中の弟を振りかえる。
「そんなに空中散歩が気に入った?」
「うん! あ、アキラ姉。鳩の群れが飛んでるよ。何処に行くのかな?」
身を乗り出した弟に、こら、落ちるよ、とモニカは小さく笑う。
***
昨晩、弟妹達を自室へと戻し、光輝を寝かしつけた後、モ二カは両親のもとへ向かった。そしてそこで「勇者光輝殿の御世話は全て私に御一任下さい」と魔獣の女王たる御母様に嘆願した。
「ほう。それ程にあの人間が気に入ったか」
面白そうに蒼の目を細めると、御母様は「よし、我ら魔獣としての勇者へのもてなしは全て我が愛し子にまかせることにしよう」と、あっさりと許しが下りた。
モニカは、何かを企んでいそうな御母様が気になったものの、尋ねたのは別の疑問だった。
「あの、御母様。どうして御父様の毛皮がところどころ焦げているのでしょうか?」
まさか、家庭内暴力? でーぶい? とモニカが不安げに見上げれば、御母様は優しく彼女の頬を舐めてやる。
「なに、少々意見の相違があっただけだ。案ずることはない。我が愛し子よ」
そうだよ、と御父様も苦笑しながら同意する。
「ちょっとだけ、クリスのお前に対する愛情が迸ってしまっただけのことだよ。心配しなくても大丈夫さ。クリスが本気なら今頃、僕ごと王都は跡形もなく焼き払われているはずだからね」
それよりも、と御父様は落ちつかなげに尻尾を振る。
「そんなに、あの人間の子供が気に入ったのかい?」
「はい。新しい弟ができたかのようで」
自分と同じ毛色だから、というと御母様は少し耳を垂らし「弟……そうか弟か……」と呟き、御父様は尻尾をぶんぶんと振り回し「弟! そうか弟か!」と叫んだ。
対照的な二匹に首を傾げたモニカは知らなかった。
御母様が光輝をモニカの婚約者にすると言いだしたのを、御父様とヴォルデが、モニカの意志に任せるように必死で説得を行い、今の発言でモニカ自身が無意識のうちに完全に光輝の婚約者フラグをへし折ったなどとは。
***
魔獣側の光輝に対する世話役になったモニカは、その権限で弟妹たちに『光輝禁止令』を出した。
「ずるいーっ」
リーナスが不満げに唸り声をあげれば、
「モニカお姉様、横暴ですわ!」
と、エルティナが不満げに長い尾をフルフルと震わせ、
「僕も異世界人と遊びたいです。……どうしてもだめですか? モニカ姉様」
と、アルクウィンが蒼の瞳を潤ませながらねだり、
「俺は異世界人で遊びたい」
と、バルトロが大音声で吠えた。
最後の発言はどうかと思うが、確かに抜け駆けではあるため、弟妹達を説得するのに苦労したモニカは結局、明日から『光輝解禁』を約束してしまった。今日一日で光輝と口裏を合わせなければならないことに、内心ため息をついたモニカだった。
全ては、可愛すぎる弟妹達が悪い。
不満げに肉球パンチとかどんな最終兵器だ。
モニカを傷つけないよう爪をしまっているリーナスを、思わず人間の感覚で、前足で撫でてしまったところ、肉球パンチを返したと勘違いしたリーナスを含む弟妹たち全員との肉球パンチ合戦になってしまったのだ。最後には永遠に続けそうな彼らに「分かった。分かったから」とギブアップ宣言するしかなかったモニカだった。
***
光輝が魔獣と人間、両者の王族の客人待遇となった所までを説明したモニカは、ずずい、と鼻先を弟に近付けた。食後のオレンジを剥いていたコーキが思わず持っていた一房をモニカの口元に放ったのを飲み込み、彼女は言う。
「とりあえず、私のことはモニカって呼んで、コーキ」
光輝はモニカにオレンジを更に一房食べさせながら首を傾げた。
「モニカって、こっちでのアキラ姉の名前だよね」
うん、と彼女は頷いてオレンジの爽やかな酸味に黒の瞳を細めた。
魔獣の身であるモニカは、柑橘類を一々魔力で剥くのが面倒だと、どうしても皮ごと食べがちであった。
だが、そうするとどうしても苦味で甘味や酸味が殺されがちとなる。
やっぱり、ちゃんと皮を剥いてもらったオレンジが一番美味しい、とおかわりを尻尾でぺしぺしと地面を叩いて要求しながら、モニカは黒の瞳を細めて懐かしそうに光輝に告げる。
「ヴォルデに名付けてもらったんだよ」
「却下」
モニカの発言を聞くや否やの即答だった。
追加のオレンジも光輝の口に入れられてしまった。
何が光輝の気に食わなかったかは、明白だ。
モニカは耳をへたらせて弟を見下ろした。
「……だからヴォルデとは恋人とかそういうんじゃなくて、相棒なんだよ。光輝が心配するような関係じゃないんだって」
それでも気に食わない、と弟は眉間に皺を寄せて姉の首に抱きつく。サラサラとした艶やかな毛を指で梳きながら光輝は低く唸る。
「うー。だってさー、あの人、ずるい。俺だってモニカの相棒になって、ずっと……ずっと一緒にいたいのに」
光輝の腕に力が込められたのを感じながら、モニカはその背を尾で慰めるように叩く。なんで私の弟妹達ってこんなに可愛いんだろ、などと考えながら。
彼女は気付いていなかった。
最愛の娘が元婚約者候補と王宮の外にデートに行ったと聞かされた御父様が、さんざん悩んで唸った末に、こっそりと王都内でのみ使える魔鏡でその様子を見ていることに。さすがに盗み聞きは自粛したものの、親密そうに己の娘に抱きつく勇者(光輝)に、御父様は尻尾を震わせて低く唸った。
「今だったら、王都を燃やしつくせるかもしれない……」
ちょっと暴走しかけた御父様を止めた銀狼騎士団長ヴォルデは、その晩、珍しく副団長エレナに愚痴を零した。
「何故、勇者が召喚されてからの方が王都が滅亡しかける回数が増えているんだ」
苦笑しながらエレナは首を振った。
「パレヴィダ神殿のすることがまともなはずがないじゃないですか。私の母もパレヴィダ教徒なのですが、母曰く『あの清々しいまでの駄目っぷりが堪らなく放っておけない』のだそうですよ」
頭を抱えたヴォルデは知らない。
厄介事が次々に舞い込んでくる中、その原因の一つである勇者が、魔王よりも姉についた悪い虫を退治したいなどと考えているとは。
2/13に更新予定だったものを前倒し更新してみました。