【16】モニカとヴォルデの朝
モニカの朝は早い。日が昇る前に朝の匂いを嗅ぎつけ、彼女はゆるりと漆黒の目を開いた。隣で眠る男を起こさぬよう、そっと、質素な寝台から板張りの床へと足音を立てることなく飛び降りれば、朝の冷気が肌に突き刺ささる。彼女はぶるりと身を震わせ、毛を膨らませた。寝癖がついた毛並みを毛繕い、窓の外を見やれば、夜の闇が徐々に朝の色に染められていくのが見える。
(うん。そろそろかな)
モニカは寝台から少し離れて助走距離を取った。彼女は寝台目指して走る。その駆けた勢いのまま強く床を蹴ると、彼女は――ヴォルデの腹めがけて飛んだ。
「ぐえっ」
肉球の下で、潰れた蛙のような鳴き声を出したヴォルデに、モニカは牙を剥きだして微笑む。最近、御母様にますます良く似てきたとパレヴィダ教皇に言われた笑い方だ。ちなみに、性格は御父様似だと言われた。
「おはよう。ヴォルデ。もう朝だよ」
「モ、モニカ。お前、その起こし方はやめろと何度言ったら分かるんだ。もう仔犬じゃないのだから、いい加減、自分の」
モニカは、力強く肉球を足元の柔らかな肉に押し付けた。
「……まさか、ヴォルデ。レディに向かって、『重い』とか『凶暴』とか『腹黒』とか、言わないよね?」
「も、もちろんだ。お前は可愛い仔犬だよ。モニカ……」
引き攣った笑いをヴォルデは浮かべる。昨日、パレヴィダ神殿がもはや恒例になりつつある銀の女王の御子襲撃を受けた。だが、今回はどう考えても神殿側の自業自得であった。
***
きっかけはパレヴィダ教皇の失言にあった。彼は朝の礼拝における説教の中でこう言ったらしい。
「最近、銀の女王に似てお子様方が、ますます凶暴になってきた」
「あの笑いを見ろ。まさに魔王に瓜二つだ」
「このままでは、一角獣様は毛一本も残さず食われてしまうだろう」
「特に長女には要注意だ。あの銀の女王の番に似たずる賢さはどうだ」
「凶暴で狡猾な次代の魔王はもはや我々の手には負えぬ。なんとかせねば」
説教中に愚痴を零す教皇もどうかと思うが、身内(神官)だけの集まりだから気を抜いてしまったのだろうと、ヴォルデは同情した。彼らの運の悪さに。
パレヴィダ教皇が銀の魔王とその番及びお子様方について延々と愚痴をこぼすのを、礼拝堂の窓の下で当の魔獣一家が聞いていたのだ。何故そのような場所に、とは聞いてはいけない。愚問というものだ。そこに獲物がいれば、虎視眈々と狙うのが肉食獣という生物だ。
結果として、怒り狂った魔王一家の咆哮が白亜の礼拝堂に響き渡ることになった。脱兎の如く逃走する一角獣、それを死守せんとする神官達、ギラギラとした目で彼らを睨み唸る天狼。
銀の女王の咆哮に駆け付けた銀狼騎士団員達は気が遠くなった。ヴォルデとモニカが契約を結んで五年になるが、あのように怒り狂った彼女を見るのは久しぶりであったと、後に彼は語る。
(アレの間に入れと?)
(……無理です)
(俺達まで食われる方に、100ダラ賭けますよ)
頼みの綱のモニカとクロードまでもが怒り狂っていたのだ。本能のまま暴走する魔獣一家のストッパーが役目を放棄した今、彼らを止められるものはいなかった。
***
どうにか魔獣一家を説得すると、銀狼騎士団員達はパレヴェダ神殿に復旧の手伝いを申し出た。大理石に刻まれた生々しい爪痕、散乱した椅子、割れたガラスに、ヴォルデ達は溜息をついた。結局、彼らはその日を後片付けに費やすことになった。
「おお。女神よ」
復旧後、一心不乱に女神ローネルシアに祈る教皇と神官達に、ヴォルデ達銀狼騎士団員は同情のまなざしを向けた。
パレヴィダ教皇と神官達は知らない。彼らが王宮側から『銀の魔王の玩具』と認識されていることを。
獣は時として本能のままに暴走する。
それは、魔獣の頂点に立つ天狼の一族も変わらない。
だが、普通の獣と違うのはその被害が甚大であることだ。
だから、王宮は玩具を用意した。魔獣一家のガス抜きにすべく。そして、その憐れな生け贄の子羊が、パレヴィダ神殿であった。薄くなった教皇の後頭部を思い出して、ヴォルデは苦笑を浮かべた。
「ヴォルデ……?」
黙り込んだ自分を、不安げに見降ろす闇色の獣。横になったヴォルデをほぼ覆い尽くすほど大きく成長した彼女は、もはや庇護の対象である仔犬ではない。
やり過ぎたかと己を伺うように見る獣は、大切な自分の相棒だ。
ヴォルデはモニカの頭を優しく撫でる。
「おはよう、モニカ」
ほっとしたように、モニカは尻尾を振る。
「おはよう、ヴォルデ」
彼らの一日が始まった。




