【0→15のその後】御父様の昔語り(2)
「国王陛下がクロード様を謁見の間にお呼びです」
少年――クロード・グランフォードは、溜息をつきそうになるのをぐっと堪えた。
(どうせ、ろくでもないことだろう。ああ、晩餐を食べ損ねたな。……夜食は豪華にして貰おう。何を頼もうかな)
現実逃避しながらも、クロードは王に謁見するにふさわしい格好に機械的に着替えていた。何を言われ、何を命じられても、決して己が傷つくことが無いように、心に鎧を何枚も着せながら。
***
中央に王家の紋を配し、その周囲に繊細な金細工が施された重厚な扉に近づけば、左右にいる近衛兵が機敏な動作で敬礼し、謁見の間への扉を開いた。まず、目の前に広がるのは深紅の大河だ。王座に向かい広げられた、毛足の長い天鵞絨の絨毯。その心地良い踏み心地を堪能する余裕もなく、クロードは足を進める。
等間隔に吊るされたクリスタルシャンデリアには、夕刻であることもあり、既に灯りがともされ、澄んだ輝きを放っていた。天井に描かれた絵物語を縁取る彫刻にはめ込まれた宝石もまた、灯りに照らされ、色取り取りに輝いている。今のクロードの心境とは間逆に。
左右に続く白壁には、十二流の旗が掲げられている。まだ人の世が一つの国にまとまっていなかった古にあったという、十二の国それぞれの国旗だ。書物によれば、銀の魔王に対抗するために十二の国は一つになったらしい。馬鹿馬鹿しい、とクロードは内心嗤った。少なくとも、ここ数百年誰も見たことがない銀の魔王なぞ、いるかどうかも分からないお伽噺の存在だ。十二国が一つになったのは、長く続いた人と魔獣の争乱の結果、国を一つにしなければ生き残れないほど、国々が疲弊したためだろうと、クロードは睨んでいた。
(都合の悪いことは、全て銀の魔王のせいにする。まったく、何時の世も人は変わらない)
王座に座るのは初老に差し掛かった男性だ。その隣に王妃が座り、王子王女が左右に並んでいた。自分を含め王族全員が揃うなど、滅多にあることではない。てっきり、自分一人が王に呼び出されたのだと思っていたのだが。
(一体、どうしたというのだろうか)
怪訝そうな表情を一瞬で消し、クロードは薄く微笑み、一段高いところにいる『家族』に礼を取った。
「クロード・グランフォード、参上いたしました」
長ったらしい口上も知っているが、少しでも早く塔に帰りたい、とクロードは簡潔な挨拶のみを述べる。
「うむ。お前を呼んだのは他でもない……我が子供全員に機会を与えてやろうと思ってな」
何の機会だと、怪訝に思いクロードが王を見やれば、その隣にいる王太子が「まあ、貴様が選ばれることはないだろうがな」と嘲笑を浮かべた。
「あれを、ここへ」
王の命令と共に、横の扉から銀の檻を抱えた近衛兵が入ってきた。その中にいたのは、一匹の仔犬であった。
「銀の毛並みに、蒼の瞳……!?」
クロードは驚きの声を上げた。仔犬は、伝説の銀の魔王と同じ色彩を持っていた。王が、普段冷静沈着な彼を驚かせることができことに満足げな声で言う。
「お前が驚くのも無理はない。これは、ある貴族が、我ら王族こそが銀の魔王を従えるにふさわしいと献上してきたものでな。お前達の誰かにやろうと思っているのだ」
末姫が、欲しい! と王を見上げる。それを見て、他の兄弟達も是非自分にと王にねだりはじめた。それを手で制して、王は告げる。
「まあ、待て。全員が欲しがることは分かっていた。そこで、だ」
王は人の悪い笑みを浮かべた。
「仔犬に己の主人を選んでもらうことにする」
***
王座の前に一列に子供達は並ばされた。
彼らの前には、檻から出された仔犬がいる。
(くだらない)
クロードは、特に何をするでもなく、他の兄弟達から少し離れて立っていた。他の兄弟達は必死に仔犬の気を引こうとしている。己の所に来れば、銀の女王と同じ色彩を持つ、貴重な犬が手に入るのだから、自ずと熱が入ろう、とクロードはそれを冷めた目で見ていた。
彼は動物に好かれた試しが無かった。クロードの持つ膨大な魔力に動物が本能的に怯えてしまうからだ。それは、人も例外ではない。己が腹にいた時から「腹にいるのは化け物ではないか」と言っていたらしい母も、「人ではないのでは」と己に近づかない兄弟も、「お前のためだ」といって五年かけて作り上げた魔力を遮断する塔にクロードを閉じ込めた王も、皆、この魔力ゆえに自分を嫌う。
――だからきっと、今回も自分は選ばれない。
クロードは退屈しのぎに天井に描かれた絵物語を一つ一つ見ていった。白塗りの天井には、神話から歴代王家の英雄伝まで、多種多様な古から伝わる物語の絵が描かれている。それら全てが意味する話を、既にクロードは本から学んでいた。愚かにも、何時か兄弟に教えてやるのだと必死に覚えていた過去の自分を思い出し、クロードは小さく笑いを零した。
「おんっ!」
物語を辿っていたクロードの視線が止まる。
今、己の足元で、何かが幼い声で鳴かなったか?
恐る恐る目線を下げれば、そこには――
銀の綿毛のような、ふわふわの毛並みに、将来有望な太くて丸い手足を持つ仔犬が、短い尻尾はパタパタと振りながら、蒼色のつぶらな瞳で、彼を見上げていた。
「勝負あったな」
王の厳かな声が謁見の間に響く。
他の兄弟が抗議するのを無視して、王はクロードに微笑みかけた。
「その仔犬は、お前のものだ」
クロードは生まれて初めて仔犬を抱き上げた。
震える腕で抱きしめた命は、泣きたくなるほど暖かな存在だった。
***
後に銀の賢者と呼ばれた少年にとって人生は退屈なだけのものであった。
その仔犬に出会うまでは。
願ったこともあった。
――温かな母の腕に抱かれてみたい。
今、彼の隣には常に温かな仔犬がいる。
祈ったこともあった。
――明日こそ、兄弟達と遊べますように。
今、本を読むに夢中な振りをしている彼には、彼の服の裾を引っ張り、かまえーと訴える仔犬がいる。
何とか少年の気を引こうと必死な仔犬を可笑しそうに見ていた少年は、本を放り出し、仔犬を抱きしめる。彼の周囲にうず高く積まれていた書物が雪崩を起こしたが、一人と一匹は気にしなかった。
父王の命により幽閉された塔の中、本に埋もれ、仔犬を抱きしめたまま彼は悩む。
「晩餐は兎のパイにしてもらおうかな、それとも、クリスティーナが好きな兎の蒸し焼きにしてもらおうかな」
「うん。やっぱりクリスが好きな蒸し焼きにして貰おう」と少年は微笑み、腕の中の仔犬の頭を撫でる。仔犬は、おんっ、と嬉しげに一声鳴くと、自分を撫でる少年の手を舐めた。一人と一匹は、塔の番人が本に埋まった彼らに気づき、慌てて助け出すまで、ずっと寄り添っていた。
***
これが、彼女と彼の始まりの物語。
後に、銀の女王とその番と呼ばれる、人と魔獣の関係に新たな形をもたらした魔獣夫妻の昔々の物語。
少年が魔獣となり、銀の女王の番となってから、人の世では長き時が流れた。今では、その正しい馴れ初めを知っているのは当人達のみとなってしまった。人の世に残ったのは、多大な誇張と誤解を伴いながら語り継がれている『銀の魔王と勇者様』の物語だけだ。
さて、数々の偉業を称えられている『勇者様』は、今、人生最大の敵に挑もうとしていた。それは、人であることを捨て魔獣になってまで番となることを望んだ彼の最愛の妻だ。なんとか幼獣達と和解することができたクロードに、残された最後にして最難関の使命は『拗ねた妻の御機嫌取り』であった。
「ク、クリス。私が悪かった」
伏せたまま彼をちらりとも見ない銀の女王――クリスに、クロードの背から腹を嫌な汗が流れた。どうすれば……と彼の尾は落ち着きなく左右に振られる。クリスもクリスで、拗ねたいいが、仲直りするきっかけをつかめず、内心焦っていることを彼は知らない。
固まったままの両獣の沈黙を破ったのは、銀と黒の毛玉による突撃だった。未だ王族と契約を結んでいない弟妹達と、魔力をあえて封印している長女は、いずれも仔犬姿であり、衝撃はまるでなかった。しかし、彼らの両親にとってありがたいことに、止まった時間を再び動かすには十分であった。
「おかーさま! おとーさま!」
「料理長が、兎の蒸し焼きを作ってくれましたっ」
「御母様の好物なんだろ?」
「皆で食べましょう!」
「中庭に用意しました。早くしないと冷めてしまいますよ?」
はやくーと、自分の毛を口で軽くくわえて引っ張る幼獣達に、銀の女王は苦笑を洩らした。
「そうだな。食事は、家族皆で食べるのが一番美味しい」
御父様も、それに深く頷く。
「ああ。私が今まで食べた中で一番美味しかった食事は、君と一緒に初めて食べた兎の蒸し焼きだ。だが、」
自分達を先導しながら、じゃれあっている幼獣達に目を細めながら、御父様は続ける。
「きっと、今から君と我が愛し子達と一緒に食べる兎の蒸し焼きが、私にとって一番美味しい食事になる」
晴れ渡った青空の下、王宮の中庭で彼らは昼食を楽しんだ。食べ終わり、余韻を楽しみながら、口の周りを舐める幼獣達に、兎の取り合いで乱れた彼らの毛並みを舐めて直してやる魔獣夫妻。中庭にある大樹の下、仲良く寄り添う両親を枕に幼獣達は満足げに眠りに落ちた。
(上手くいったねっ)
(ちょろいな)
(うふふ。良かったわ)
(御父様はへたれだからね)
(へたれって何?)
この後、御父様は時々、幼獣達に『へたれ御父様』と呼ばれることになる。彼が『へたれ』の意味を知って、耳をへたらせたというのは、また別の話だ。