【0―3】幕間その2 御母様の昔語り(2)
後に銀の賢者と呼ばれる少年にとって人生は退屈なだけのものであった。
願ったこともあった。
――温かな母の腕に抱かれてみたい。
だが、彼女は少年に触れようともしない。顔を見ることすら稀であった。
祈ったこともあった。
――明日こそ、兄弟達と遊べますように。
だが、彼らは少年に近づきもしない。怯えた表情で遠巻きに彼を見てくるだけだ。
父王の命により、幽閉された塔の中、本に埋もれた少年は今日も思う。
(今日の晩餐は何にしてもらおう)
「ご飯さえ美味しければ、後はどうでもいい」と齢十にして諦観を蒼の瞳に浮かべた幼子は、扉を叩く音に魔術の教本から顔を上げた。これが、彼の人生を変える出会いの知らせであるとは知らずに。
***
銀の魔王が銀の女と契約を結んでから、数百年の時が流れた。その間ずっと、銀の魔王は、魔の森と人の地の間に障壁を張り巡らせ続け、魔獣と人の均衡を保たせてきた。魔の森では、枯れかけていた木々が息を吹き返し、再び濃密な魔力を魔獣達に与えるようになり、人の地もまた、赤く染まった大地が再び緑を取り戻し、人の活気で満ちあふれていた。
その日、木漏れ日に銀の毛皮を淡く光らせて、大樹の天蓋の下、銀の魔王は微睡んでいた。ふと、彼女の耳が人の地がある方角に向く。伏せていた瞼の下から蒼の瞳が現れ、何かを探るように王都の方を見やった。
(何だ、私にも匹敵する、この魔力は)
銀の魔王は、ありえぬほど強大な魔力が人の地に突如として生まれたのを感じた。魔獣において最強を誇る天狼が最後の一頭、銀の魔王。彼女に比類するほどの魔力を持つ何者かが人の地に現れ、その濃密な魔力の波動が、遥か遠くにある、ここ魔の森まで届いたのだ。
(ありえぬ。人が、このような魔力を持つなど)
人間は本来的に魔力量の器が小さい一族である。太古の時代、魔の森に生きていた彼らは、強大な魔獣が跋扈する魔の森を逃れ、不毛の地である平原に移り住んだ。幾千もの時が流れ、平原は王都をはじめとする人の巣に埋め尽くされた。安定した暮らしを得た人の一族は、その高い技術力により、魔獣には行使できない複雑な術式を生みだし、魔獣に対抗するようになった。
だが、人の一族の、生物としての根本的な限界は変わっていない。例え、魔術具の助けを借りて強大な魔力を行使しようと、彼らの生来の魔力の器は小さいままだ。魔獣の王と同等の強大な魔力を持つ人間が生まれるなど前代未聞だった。
そこまで考えて、銀の魔王は一人の女を思い出す。銀の髪に蒼の瞳、銀の魔王と同じ色彩を持つ異世界の女は、王族の子を孕んでいた。銀の女の血は今でも王族に受け継がれている。
(あの異世界の女は高位の魔獣に匹敵するほど魔力が高かった。……先祖返りしたものが生まれたか。祖先である異世界の女を超える魔力をも持って。さて、どうしたものか)
尻尾を揺らしながら銀の魔王は思案に暮れていたが、日の光に温められた穏やかな風に、くぁっと最奥の牙まで覗かせて欠伸をし、「まぁ、少し様子を見るか」と再び昼寝に戻ったのだった。
***
魔獣にとっての『少しの時間』は、人間にとって途方もなく長い時間になる。それは、彼らの寿命の長さの違いからくるものであった。
強大な魔力を持った人間が生まれてから、人の暦で十年ほどが経ったある日、何時も感じる強大な魔力の波動が弱まった。魔力自体が小さくなったというよりも、何かに遮られて感知できないようだ。
(人の子に何かあったのだろうか)
草むらに伏せた体勢のまま銀の魔王は暫し考えていたが、目の前を駆け抜けようとした一角獣に反射的に飛びつき、骨も残さず平らげようと食らいついた時に、良案を思いついた。
「久々に、王都へ行くか」
自分の不在中も障壁が維持されるように魔力を注ぎこみながら、銀の魔王は蒼の瞳を細める。思い出すのは、愛しげに己の腹を撫でる銀の女だ。あの女が、己の命をなげうってまで救おうとした子の子孫は、どのような人間であろうか。あの女のように、無謀で、無邪気で、変わった人間なのだろうか。銀の女と同じ、銀の髪に蒼の瞳を持つ人間を脳裏に描きながら、銀の魔王は牙を剥き出し微笑んだ。
***
二、三百年放置しても大丈夫なほど障壁に魔力が溜まったのを確認して、銀の魔王は人の地に降り立った。魔獣の王ともなれば、魔力を保持したまま人の地を訪れることも可能であり、彼女は天狼の姿のまま王宮を目指すつもりであった。
だが、障壁を通り抜けた瞬間、彼女は眩暈を覚えた。思わず四足を折り、そのまま平原に崩れ落ちる。
(なんという魔力の薄さだ……!)
濃密な魔力に包まれた魔の森に慣らされた彼女にとって、人の地の魔力は呼吸さえもままならぬほど薄く感じられた。立てぬほどの脱力感に、彼女は仕方が無く魔獣の形態を解き、魔力を持たぬ獣の姿を取る。
(獣の姿になったはよいが、目線が妙に低い)
銀の魔王は困ったというふうに短い尾を垂らし、耳を伏せる。数百年分の魔力を障壁に注ぎ込む作業は、本人が自覚する以上に彼女の魔力を削ったようだ。その影響で彼女は成獣の姿がとれず、仔犬になってしまっていた。
(……一度、魔の森に戻り、少し魔力を回復させるか)
溜息をついた銀の魔王が立ちあがろうとした時だ。
「あー! 仔犬がいるー!」
突然、上から降ってきた幼い子供の声に慌てて顔を上げれば、少女が目を輝かせて彼女を見下ろしており、小さな紅葉の手が彼女の体を持ち上げた。固まった銀の魔王を抱きしめて、少女は歓声を上げる。
「ちっちゃーい。わぁ、銀色だ。まるで、お伽噺の銀の女王様みたいだね!」
「おとーさーん」と叫ぶ少女に銀の魔王が目をやれば、馬に乗り弓矢を持った男が、こちらに駆けてくる。
「リズ! この馬鹿! 危ないから一人でいくなっていっただろうがっ」
馬から飛びおり、娘に怪我が無いか確認しながら、父親は彼女を厳しく叱る。ごめんなさいと謝り、腕の中の仔犬を強く抱きしめた少女に、苦しいと銀の魔王が四足をばたつかせた。仔犬の存在に気付いた父親の目が見開かれる。
「銀の毛並みに、蒼の瞳……?」
暫く仔犬を凝視していた男は、唐突に笑いだすと、仔犬ごと娘を抱きしめる。
「よくやった! リズ! この犬は金になるぞ!」
売るの? と不満げな娘を片手に抱え上げ、父親は馬に乗る。
「銀の毛並みに蒼の瞳と言えば、銀の魔王陛下と同じだ。滅多にある色合いじゃないからな。この仔犬は、珍しいものが大好きな御貴族様御用達の商人に高く売れるぞ!」
自分の頭の上で親子が交わす会話を聞きながら、銀の魔王は、ふぅむと丸い瞳を天に向ける。
(このまま売られるのも一興か。貴族が使う商人ともなれば、私を王都まで連れて行くかもしれぬ。商品を傷つけることはなかろうし、愛玩動物として扱われるのであれば、貴族も悪い扱いはしまい。上手くいけば、楽に王都まで行くことができるな)
いざとなれば、魔獣の姿に戻り、周囲を火の海に沈めた隙に逃げればよい、と銀の魔王は頷く。
「私が見つけたんだから、私の仔犬なのー!」と泣き出した娘を慌てて宥める父親は、気づいていなかった。自分の娘が抱きしめている仔犬は、娘を泣かせたことでお叱りを受けることになる、愛する妻よりも、よほど恐ろしく、かなり物騒な伝説の生き物であることに。