【15】咆哮する闇色の獣
軽くですが、流血描写があります。苦手な方はお気をつけください。
目の前が怒りで真っ赤に染まる。
抗えぬ獣の衝動がこの身を焦がす。
目前の敵に向かい、モニカは本能の赴くままに咆哮した。
***
その日、闇色の仔犬は中庭で休憩中の団長と遊んでいた。モニカは、目前で揺れる麻の紐に、飛びつき、噛みつき、引っ張る。ヴォルデは、紐と戯れる仔犬を見て頬を緩めながら、絶妙なタイミングで紐を引っ張り、モニカの牙から奪還し、彼女が捕まえられそうで捕まえられない位置で再び振り始める。そんな一人と一匹に、溜息をついたエレナが、団長に仕事に戻るように説教を始めようとした時、急に表が騒がしくなった。
何事かと顔を上げたモニカとヴォルデの視界に移ったのは、揺れる腹を抱えて、ペンギンのようにえっちらおっちらと巨漢を揺らしながら中庭に入ってくる、派手な身なりの中年神官であった。一瞬眉を顰めたヴォルデは、すぐに愛想笑いを浮かべると、柔らかな声で男に挨拶をした。
「これはギルバート殿。このようなあばら屋までお越しいただくとは。さて、本日はどのような御用件でいらっしゃったのか」
ヴォルデは、片手は背に、もう片手を腹にやると、そのままゆっくりと腰を折り深く礼をした。
優雅に貴族式の礼をとったヴォルデに、神官は横柄に頷き返した。
「ふん。まったくだな。こんな魔の森近くの何の面白みもない辺境まで、わざわざ、この儂が来てやったのだ。せいぜい感謝するがいい」
ひどく偉そうな台詞に、モニカは耳を立て、尾を膨らませる。だが、男に唸ろうか迷いながら団長と副団長を伺えば、二人は慣れた表情で男のものいいを受け流していたため、彼女は三人の様子をしばらく観察することにした。
「御子探しが難航しているようだな。喜べ。パレヴィダ神殿の副神官長たるこの儂が直々に女神ローネルシアに御子の行方に関して御伺いを立ててやろう」
だが、とギルバートは下卑た笑みを浮かべてモニカを見やる。
「儀式には供物が必要だ。幸いなことにお前達にはちょうどいいものがある。なに、供物と言っても殺しはしまいよ。儀式が終わった後は、珍重な黒の獣として我が神殿で大切に世話をしよう」
三人の視線がモニカに集中した。
ギルバートの目的が、モニカであることはもはや明白であった。黒色の獣は貴重だ。闇色の仔犬を所有することで神殿に箔をつけるつもりなのだ。
モニカは不安げにヴォルデ達を見上げた。今、銀狼獅子団の地位は危うくなっている。銀の女王直属であるにも関わらず、御子を探し出せずにいるためだ。ギルバートは、その弱みに付け込むつもりのようであった。
ヴォルデはモニカを背後に庇い、ギルバートの値踏みするような視線から彼女を隠しながら、慎重に口を開いた。
「大変ありがたいお申し出ですが、銀の女王陛下は神に属さぬ身。教徒でない御方の御子の行方を尋ねれば、女神の機嫌を損ねることになりかねないのでは?」
この国の国教は多神教であり、女神ローネルシアはそこで崇められる神の一柱に過ぎない。まして、魔獣の女王たる御母様が人が崇める神如きに膝を屈するわけがない。教徒ではないことを口実に、やんわりとギルバートの申し出をヴォルデは断った。
「ふむ。確かに、銀の女王が、我らが崇高な女神の真価を理解していないのは確かだ。しょせんアレは獣だからな。だが、我らが女神ローネルシアは慈悲深き御方。あの銀色の罪深き獣にも情けをかけて下されようぞ」
自分達が仕える銀の女王に対するあまりの言いように、たまらず、といったふうにエレナがギルバートにむかって、異議を申し立てる。
「失礼ながら、ギルバート殿。少々お言葉が過ぎるのではありませんか?」
反論されたことに気分を害したのか、ギルバートは顔を赤に染めてエレナを睨みつける。彼女睨みつけると、ギルバートはヴォルデを語気荒く怒鳴りつけた。
「部下の躾がなっておらぬな。先王の落胤だからといって思いあがるなよ。貴様が団長などという地位につけたのは、双黒の髪と瞳を国王陛下が珍しがっただけであろう。お前の無能さ加減は、幼獣一匹見つけられぬ今回の件で、皆よく分かっておる。……ああ、無能なのは、貴様一人ではなかったな。貴様を含めた団員全員が役立たずの穀潰しよ。銀狼騎士団などという大層な名前はお前達には不相応だな」
正直に言おう。
モニカはそろそろ我慢の限界だった。
前世、女子高生であった頃の知識があるとはいえ、こちらで魔獣として生まれてまだ一年もたたない彼女の思考は、年若い体に引きずられて思慮深さを欠く傾向にあった。
つまり――気が短かった。
そんな彼女にとって、御母様を馬鹿にし、ヴォルデ達を嘲るこの男の発言は許しがたいものであった。今すぐ、噛みついてやりたいと思う程度には。
魔獣にとって人に血を流させる攻撃は、契約を強制させられる可能性を含むため、本来最後の手段とされるものである。だが、その危険性を無視してでも、噛みつきたくなるほどに、この男に対してモニカは腹を立てていた。
それでも、モニカが大人しくギルバートの暴言を聞き流していたのは、ヴォルデ達の体面を慮ってのことであった。ここで、騒ぎを起こせば、ますます彼らの立場は悪くなる。そもそも、彼らの地位を危うくした原因は、モニカ自身の失踪にあったのだ。これ以上彼らに迷惑をかけるわけにはいかないと彼女は考えていた。
だが、そんなモニカの堪忍袋の緒を切る声が、次の瞬間彼女の耳に届いた。
「闇色の仔犬と一時的に離れることになろうとも、寂しがることはないぞ、ヴォルデ。優しき教皇様は、貴様に今回の一件の責任を取らせるために、我らが神殿に身柄を預けるよう、国王陛下にお願いしているそうだ」
それは、幽閉の宣告だった。
御子を失ったのは、人間側が原因だ。
御子が見つからないのは、人間側の不手際だ。
では、誰が責任を取る?
人間達が責任のなすりつけ合いを始めていることは知っていた。だが、まさか、その白羽の矢が、ヴォルデに立つとはモニカは思ってもいなかった。
「黒などという汚らわしい色を持つ気味の悪化け物どもめ。我らが純白の一角獣様と真反対の色を待つ貴様達は、前世でどのような悪行を犯したのであろうな?」
目の前が怒りで真っ赤に染まる。
抗えぬ獣の衝動がこの身を焦がす。
目前の敵に向かい、モニカは本能の赴くままに咆哮した。
(今、今、この目の前のニンゲンという獣は、何といったか?)
『黒などという汚らわしい』
(黒が汚らわしい? 罪深い? この、私が、瞳に、毛皮に、宿すこの闇色が? 御母様に弟妹達に『くろいの』と呼んでもらえる、この私の誇りである、黒色が?)
己が誇りに思う黒色を貶されたモニカは怒りに打ち震えた。
突然、咆哮した仔犬に、ヴォルデは驚き振り返る。ギルバートは、そんな一人と一匹に嘲笑を浴びせる。
「まったく。本当に躾がなっておらぬな。黒色は、世間では、珍しい色合いだからと珍重されているようだが、我らが神殿は、お前達を甘やかしはしまいよ。愚かなお前達が己の罪深さを知ることができるように、仔犬共々しっかりと躾直してやろう」
そのまま、下卑た笑みを浮かべて、ギルバートは、言葉を連ねる。御子探しで国が混乱している今、国側に神殿の圧力をはねのける余力はない。ヴォルデの神殿への幽閉は既に決まったも同然だ。役立たずな銀狼獅子団は、解散ということになる。
そして、彼の話が、銀の女王の討伐隊の編成についての話になり始めた時に、それまで俯いていたモニカが、いきなり顔を上げた。彼女は、険しい顔をしてギルバートを睨みつけていたヴォルデに後ろから体当たりする。
ヴォルデは、背後からの突然の衝撃に、バランスを崩して片膝をついた。何事かと、足元に顔を向けた彼の視界一杯に黒が広がる。直後、唇に温かな感触が当たった。驚いた彼が口を開ければ、生ぬるい何かが入ってきた。それが仔犬の舌だと分かると同時に、彼は鉄の味が口の中に広がるのを感じた。
突然のモニカの奇行に空気が凍りついた中庭に、次の瞬間、猛烈な風が吹き荒ぶ。
目を開けていることができないほどの暴風に、
木々は枝という枝を鳴らし、葉を散らし、
花弁は空に舞い上がる。
ようやく風がおさまったのを感じ、恐る恐る目を開けた人間達が見たのは、一匹の魔獣であった。
夜の闇を思わせる黒の瞳、
艶やかに輝く漆黒の毛並み、
人一人を容易く飲み込む巨体、
中庭に満ちる濃密な魔力の気配。
彼らは、その魔獣が属する一族を知っていた。
忘れるはずがない。
人は彼らを恐れ、敬い、長き時を共に歩んできた。
色こそ銀と黒と異なっているが、この獣はまごうことなく――
「天狼……」
無意識のうちにエレナが呟く。
彼女をチラリと見やった魔獣は、すぐに視線を天にやり、はるか魔の森に届かんばかりの大音上で咆哮した。鳴き声に含まれる魔力が、そこに含まれる思念を、声を聞く生き物全てに伝える。
「御母様ー! パレヴィダ神殿のバカ副神官長にいじめられましたー。助けてー。御母様ー!」
その雄々しい姿とは裏腹に、内容は、いじめられたと親に言いつける子供そのものだった。冗談ではなく、文字通り、モンスターペアレント来襲の予感に、ギルバート副神官長は固まった。
目を丸くしていたヴォルデとエレナは、その思念を聞くやいなや、モニカの目前で、片膝を地面につき、騎士の礼を取る。
「黒き、気高き、天狼の御方よ。貴女様は銀の女王が御仔であらせられましょうか」
モニカは尻尾を一振りして、それに答える。
「いかにも。我は天狼が一族、銀の女王が第一子『モニカ』」
その名乗りに、やはり、と複雑な顔をするヴォルデにモニカは耳を垂らす。
「……ヴォルデは、私と契約を結ぶの、嫌だった……?」
尻尾を垂らし、しょぼんと肩を下げる姿は、見る者の罪悪感をこれでもかと刺激するものであった。慌てたのはヴォルデだ。
「いえ、私などが、銀の女王が御子様と契約を結ぶなどとは、恐れ多く……」
未だ幼さを残す丸い瞳がヴォルデを見つめる。
「ヴォルデは私のことが嫌い?」
へ? と目を丸くするヴォルデに、畳みかけるようにモニカは鳴く。
「私はヴォルデのことが好きだよ。だから、契約を結んだ。本来、契約にふさわしいもふさわしくないもない。大事なのは本人達の意志。最上の友とする相手と結ぶのが契約なのだから。」
だから、と未だ耳を垂れたまま、モニカは言う。
「ヴォルデが私のことが嫌なのであれば、私は魔の森から人の地に出ないよ。二度と、貴方の目に触れないように」
哀しげな瞳のモニカに、ヴォルデは仕方のない方だ、と笑う。
「嫌いなどということがありましょうか。我らが騎士団が、難航する御子探しに追いつめられる中、貴方様の存在にどれだけ救われたことか。結果として、その御子は、貴方様だったわけですが……」
じゃあ、とモニカは、伏せていた耳を立て、尻尾を振りながら、期待に満ちた目でヴォルデを見つめた。
「私の盟友となってくれる? 何者もその絆を分てない永遠の相棒に」
ヴォルデは満面の笑みで、それに答える。
「喜んで」
さて、無事契約を結んだ彼らはまだ知らなかった。
西の空からぐんぐん近づいてくる銀色の光の存在も、彼らの背後で冷や汗を流している副神官長が後に銀の女王から受けるお仕置きの数々も、モニカが魔の森に帰ってから心配をかけた弟妹達の突撃を受けて押しつぶされることも。
***
そして、その次の春、銀の女王は四匹の御子を連れて魔の森から王都に帰還した。母親に生き写しの銀の毛並みに蒼の瞳を持つ御子達は、銀の女王とその番、国王夫妻や貴族達が見守る中、無事に各々が盟友とした王族と契約を結んだ。
王都では盛大な祝典が開かれ、その警備に奔走する銀狼騎士団団長の隣には、常に闇色の仔犬が付き従っていたという。