【14】一人と一匹の夜
部屋の扉はかすかに開き、明りが暗い廊下に洩れていた。
ちょうど、仔犬一匹が通るのにちょうどいい隙間を、モニカは尻尾を振りながら通り抜ける。室内を見渡せば、予想通り、執務机でヴォルデはまだ書類仕事をしている。モニカは板張りの床を蹴り、そのままの勢いで机に飛び乗った。
執務用の机の上には書類がうずたかく積まれていた。通常の書類に加えて、銀の女王の御子関連の書類が毎日大量に発生しており、それは、さしもの銀狼騎士団団長でも処理能力を超える量であった。それでも、彼は全ての隊員の報告書に毎晩目を通し、翌日の捜索計画を練っていた。
夜目のきく仔犬の瞳は、ヴォルデの目の下に隈ができているのを見逃さなかった。モニカは申し訳なさそうに耳を伏せ、尻尾を垂らす。彼らが必死で探している自分は、ここにいる。だが、それを伝える手段が彼女にはなかった。
(私の意志を伝える方法……。一つだけ、まだ試していないものがあるけど……)
だた、それは、本当に最後の手段だ。
モニカは首を振ると、きっと顔を上げ、トテトテと卓上をヴォルデの方へ歩いてゆく。
月は既に地に近づき、朝の日が昇る時が刻々と近づいてきていた。もう少しすれば、空が白み始めてしまうだろう。
(その前に、少しでも寝かせないと)
モニカは知っている。ヴォルデが、この半月ろくに睡眠を取っていないことを。銀の御子捜索で忙しいのは分かるが、このままでは彼が倒れてしまう。
よってモニカは最終兵器を発動させることにした。
銀狼騎士団ランキング 無差別格闘級部門 第一位の名は伊達ではない。
異世界の日本においてモニカは可愛いものが大好きな女子高生だった。
そんな彼女だからこそ、知っていることがある。
例えば……純真無垢な仔犬の、つぶらな瞳の、凶悪なほどの可愛さ、とか。
山積みの書類を上手いこと避けながら、書類の一枚の上に、ちょこんとお座りをする。そして、団長を見つめる。ひたすら、みつめる。コツは、首を横に傾げ、かすかに尻尾を振ることだ。
「……モニカ」
書類から目を離さずにヴォルデが窘めるような声でモニカを呼ぶ。
当然、無視する。そして、そのまま、キラキラと輝く瞳でモニカはヴォルデを見つめ続けた。名前を呼ばれて嬉しい! というように尻尾を大きく振り、耳をピンと立てる。
「……」
沈黙が落ちる。団長が書類をめくる音と、モニカが尻尾を振る音のみが室内に響く。
「モニカ、その書類の上から降りろ」
沈黙を破ったのは団長だった。眉間に皺をよせ、睡眠不足から目を血走しらせている。だが、モニカは動じない。この程度、竜にかぶりついた御母様の迫力と比べたら、何でもない。
なぁに? という風に、モニカはヴォルデを見つめる。自分の四足が踏んでいる書類が、ヴォルデが次に読むべきものだと、気づいていないかのように。
溜息をついたヴォルデが、モニカに向かって手を伸ばしてくる。それをヒラリとかわすと、彼女は書類をくわえて机から飛び降りた。
「こらっ! モニカ!」
モニカを捕まえようとする手を躱して、彼女はそのまま、部屋の隅にある簡易ベッドに飛び乗った。タシタシとベッドを叩くモニカとヴォルデがしばし睨みあう。
「……はぁ」
溜息をつきながら、険しい表情のヴォルデがこちらに来る。モニカは書類の上に伏せて、上目遣いに彼を見上げた。
「モーニーカー」
「おんっ!」
睨むヴォルデにキラキラ瞳のモニカ。そぉっとモニカに両手を伸ばしたヴォルデは、そのまま彼女を抱きしめて、ベッドに横になる。書類が一人と一匹の下敷きになりぐしゃぐしゃになってしまったが、彼らはまるで気にしなかった。
「モ、ニカ。明けの刻になったら起こしてく、れ……」
そう呟くと、ヴォルデは仔犬を抱きしめたまま、寝息を立て始めた。
(お疲れ様、ヴォルデ)
ヴォルデの腕の中、モニカは彼の顔を見上げる。眉間に皺をよせ、目の下には隈を作り、髭は伸びて、肌も心なしか荒れている。
(限界、かなぁ)
想像以上に大事になってしまった。このまま飼い犬ライフを楽しんでいたい気もするが――きっと、弟妹達は泣いている。御母様は激怒しながら心配している。
(帰らないと)
そう、帰るのだ。己の巣へと。
モニカは前世、女子高生だった。
だが、今の彼女は魔獣だ。
彼女の家族も、魔獣だ。
人の地に来て、懐かしくなかったといえば、嘘になる。
二本足で歩き、笑い、戯れる人間達。
かつて自分も、世界こそ違うが、あの輪の中にいた。
だが。
(今、私が帰るべき輪は、魔の森にある私の巣、私の群れ、だ。)
眼を閉じれば、銀の毛玉達が、優しい蒼の瞳が、モニカを『くろいの』と呼ぶ声が聞こえる。夢の中、弟妹達とモニカは御母様に見守られて、狩りをする。寝ぼけて噛みついたヴォルデの悲鳴で目が覚めるまで。