【9】謹んでお断りいたします。(流血描写あり)
この話には多少の流血表現と残酷描写が入ります。苦手な方は、お気をつけ下さい。
眠りについていた意識が浮上する。
まだ重い瞼を開こうとして、『くろいの』は違和感を覚える。
(……あれ、変だな。体が重くない。何時もだったら、とっくに誰かの枕になっているはずなのに)
弟妹達は非常に寝相が悪い。
母を囲んで半円状に並んで寝たはずが、翌朝になると、
一匹は酔っ払いのごとく仰向けになって大の字で鼾をかき、
一匹は玩具である竜の頭骨を齧りながら、『御母様最強』と寝鳴きを洩らし、
一匹は歯ぎしりをしつつ、狩りの夢でも見ているのか、鋭い爪で地面を引っ掻き、
一匹は姉を枕に満足げに眠りにつき、
『くろいの』は鼾・寝鳴き・歯ぎしり・重みの四重奏によって素晴らしい悪夢に魘される。
……というのが幼獣達の日常であった。
だが、
(鼾も、寝鳴きも、歯ぎしりも、重みもない。それに御母様の気配も……っ!)
――漆黒の魔法陣による召喚魔法。
意識を失った理由を思い出し、『くろいの』は慌てて飛び起きる。だが、四本足で立ちあがったはずなのに、何故か視線が低いままだ。疑問に思って下を向いた『くろいの』は息を呑む。
視線の先にあるのは、細く頼りない前足だった。
まるで、生まれたばかりの幼獣のような小ささだ。
震える前足を持ちあげて裏を覗きこむ。
まだ大地を踏みしめ慣れぬ幼い肉球が、そこにはあった。
いつも以上にプニプニしていた。
(なんで……! 年齢が逆行した!? いや、でも、なんか変だ)
そこで、『くろいの』は気がついた。
(魔力が使えない!)
己の魔力が無くなっていることに。
周囲を見回すと、己は見知らぬ部屋の檻に入れられているようだ。
魔法陣も部屋も檻も人が作り使うものだ。
つまり、『くろいの』を浚ったのは人だ。
(では、ここは人の地!?)
人が魔法陣で魔獣を人の地に飛ばす。
それは魔獣に対する敵対行為だ。
下手をしなくとも魔獣と人の友好関係を崩壊させることになる。
まともな人間のやることではない。
従って、この召喚がろくな目的であるはずがない。
違法な犯罪に使われる己を想像して、『くろいの』は身を震わせた。
(逃げないと……)
何とか冷静さを取り戻した『くろいの』だったが、状況は良くなかった。
彼女は鉄の檻に入れられていた。
魔獣であった頃ならばともかく、仔犬となった今は無理だ。
途方にくれる『くろいの』の目の前で部屋の扉が光り、一人の女が扉をすり抜けて中に入ってきた。
「あら、可愛い仔犬さん」
赤い髪の女が、自分を覗き込んでいる。
女は、真っ赤な唇をニィと歪めて仔犬に囁いた。
「良い魔獣が手に入ったわ」
獣の本能で後退さった『くろいの』に、女はクスクスと笑う。
「そんなに怖がらなくともいいのに。さて、あなたは何の魔獣だったのかしら」
毛を逆立て威嚇する『くろいの』を観察して女は首を傾げる。
「犬、ねぇ。魔力が無くなったら犬になる魔獣って多いのよね。」
ああ、そういえば、と女は呟く。
「銀の女王も、犬の系統だったわよね」
『銀の女王』。
心当たりがある『くろいの』は動揺を押し隠そうと必死に女を睨みつける。
「まぁ、それはないか」
女がふっと嗤う。
「天狼は蒼の瞳に銀の毛並み。こんな真っ黒な仔犬になるはずがないもの」
勝手にそう結論付けた女は、歌うように言った。
「さて、じゃあ、始めましょうか」
そう言って、女が何事かを呟き、手を無造作に振った瞬間、
赤が散った。
『くろいの』の右前脚から。
「……っ!」
激痛に『くろいの』は奥歯を噛みしめ、攻撃魔法を放ってきた女を睨みつけた。深く傷つけられた右前脚を庇いながら、唸り声を上げる。
そんな『くろいの』を見ながら女は口を歪める。
――嬉しくてたまらないというように。
「ごめんなさい。後で治してあげるからね」
自分で傷つけておきながら何を言うのかと『くろいの』は憤る。
「貴女の血が欲しかったの」
(血……まさかっ)
『くろいの』の脳内に、最悪の可能性が浮かぶ。
「さあ、こちらに来て。血を交換しましょう。最後に、私が貴女に名前を付ければ、契約は完成するわ」
(やっぱり。この人の狙いは、人と魔獣の契約だ)
破棄不可能な永遠の鎖。
それが魔獣と人の契約だ。
互いの血を飲み、魔獣に人が名を与えることにより成立する契約は、一度結ぶと破棄できない。永遠に魔獣と人を縛ることになる。
「ほら……早くこっちに来なさいっ! この馬鹿魔獣!」
(絶対に、いや)
後退り、女に近寄ろうとしない『くろいの』に、女が先に痺れを切らした。
再び、女が攻撃魔法を放とうとした瞬間だった。
部屋を閃光が満たした。
目を焼かれ、何が起きているのか全く見えない状態で『くろいの』の耳に、
爆発音、
大人数が駆け込む足音、
女の呪詛、
何かが吹き飛ばされる音、
何かが引きずって行かれる音が聞こえた。
何が起こっているか分からず、固まっている『くろいの』の頭上から低い男性の声が降ってきた。
「おい、仔犬がいるぞ」
すると、誰かが近寄ってきて、若い女性の声がした。
「団長。この犬、怪我をしていますよ」
金属が歪む破壊音がして、『くろいの』は誰かに抱きあげられた。その声の調子と野生の勘で、どうやら、この人間達は敵ではないと分かってはいた。それでも、思わず身を固くした『くろいの』を宥めるように、ごつごつした手が『くろいの』の頭を撫でる。
「ブルク。治してやれ」
「はい」
優しげな男性の声が詠唱を唱え、『くろいの』の額に触った。
すると、前足の痛みが消え、目の裏のチカチカが治まった。
そっと目を開けると、目の前に柔和そうな顔立ちの若い男性がいた。
この人間がブルクらしい。
「ありがとう」と一声鳴いた『くろいの』だったが、その声は可憐な仔犬のものだった。魔力を使って思念を込めたわけではない台詞が、人間達に届くわけもなく、『くろいの』を無視して彼女の頭上で彼らの会話は続く。
「団長」
長い金髪を後ろで束ねた女性が、『くろいの』を抱き上げたまま指揮を取る男に呼び掛ける。
見上げると、『団長』は黒眼黒髪の強面の男性だった。
「なんだ」
「他にも実験動物がいる可能性があります」
もっともだ、と男は頷き、他の人間達に、爆破の前に中に生き物がいないか確認しろ、と指示を出している。
そんな団長を見上げながら、『くろいの』は溜息をつく。
色々と疑問は多い。
あの女は何者だったのか。
この人間達は何者なのか。
ここはどこなのか。
もしかして自分はただの仔犬だと思われいるのか。
だが、一番の問題は……自分が一角獣を食べのがしたことだ。
「お腹が空いた……」
腹の音と共に哀しげな仔犬の声が響いた。