【8】漆黒の魔方陣
その日、草原には霧雨が降り注いでいた。
幼獣達は、魔の森と草原の狭間で身を潜ませ、じっと草原の獲物の動きを窺う。
彼らの視線の先で草を食むのは――一角獣だ。
***
ことの発端は、御母様が遂に幼獣達に父親について話した時のことだった。
幼獣達の体格は、今や母親の半分ほどになっている。
そろそろ、王都に知らせをやる日も近いと思った御母様は、渋々と御父様について語り出したのだった。
その晩のことは、『くろいの』にとって、思い出したくない出来事No.1となった。
最初の頃こそ、未知なる「父親」について瞳を好奇心で輝かしていた幼獣達だったが、次第にその耳は伏せられ、尻尾は丸められ、最後には全員がお互いを守る様に一か所に固まって丸くなることになった。
御母様は非常に御父様に対して御立腹らしかった。
話し始めのうちは、いつも通り優しく幼獣達に語りかけていた。
だが、話が浮気話に移る頃には、怒りを隠しきれず、眥を決し、牙を剥き出しにして、尻尾を膨らませ、無意識のうちに臨戦態勢となっていたのだった。
さながら竜を食らわんというが如く。
哀れな幼獣達は、話の間中「御母様こわい」と全員で固まり尻尾をぶるぶると震わせていた。
『くろいの』は、その時の光景を思い出して背筋の毛を逆立てる。
(確かに、浮気話というのは幼獣の教育に悪い。しかし、話の内容自体よりも、般若のような御母様の顔の方が、幼獣達に深刻なトラウマを残した気がする)
さて、人間とは、嫌な記憶はすぐに忘れてしまう生き物であると、『くろいの』は知っている。そして、それは魔獣にも当て嵌まることらしい。
翌日、弟妹達が覚えていたのは「一角獣は美味い」という部分のみだった。
どうやら、昨夜の恐怖体験は、彼らの記憶の奥底にパンドラの箱として封印されたらしい。そして、当たり障りのない、自分達にとって興味深い事柄だけが記憶の表層に取り残された結果、第一回『珍味を探せ! 一角獣狩り』が開催されることになったのだった。
茂みに潜みながら『くろいの』は、ふっと遠い眼をした。
結局、弟妹達の脳内辞書における「父親」の項目は「じょうそーきょういくに悪い」のままとなった。知ってか知らずか、御母様は、それを放置している。今のままの状態で王都に行けばどうなるだろうか。……泣き崩れる御父様の姿が見える気がする。無邪気な青の瞳でそれに追い打ちをかける弟妹達の姿も。高らかに勝利の雄叫びをあげる御母様の雄姿も。
この家庭問題を収拾できるのは自分しかいない、と『くろいの』は憂鬱な溜息をひっそりとついた。夫婦喧嘩は犬も食わない。父親に似て美食家な彼女にとっては、つらい仕事になりそうだ。
『くろいの』が母親をどう説得すべきかと目を伏せた瞬間、獲物に動きがあった。一角獣が突如として走り始めたのだ。魔の森とは反対方向に草原を一直線に駆けていく獲物を弟妹達が追いかける。一瞬遅れて、『くろいの』も走り出し、一角獣に苦い思い出のある母親は少し離れて幼獣達を追う。
この弟妹達との僅かな距離が、後に彼らの命運を分けることになる。
***
次第に雨脚が強まり、魔獣たちの視界を悪くする。
一角獣は思いのほか逃げ足が速かった。
それでも、かなり森から離れてしまったが、弟妹達がようやく一角獣を囲むことに成功する。それを見て、四匹いれば十分だろうと一歩引いて彼らの狩りを見守ろうとした『くろいの』は、ふと違和感を覚える。
弟妹達は、獲物しか見ていなかった。
だから、彼らは気がつかなかった。
だが、彼らから一歩引いていた『くろいの』は気がついた。
己の足元の泥濘で鈍く光る――漆黒の魔法陣に。
「逃げろ!」
叫ぶと同時に、魔力で風を呼び、獲物もろとも弟妹達を陣の外へと吹き飛ばす。
そして、『くろいの』自身も飛び退ろうとした瞬間、魔法陣は閃光を放った。
「しまっ――」
閃光に目を焼かれた母親と幼獣達の視力が回復した後、彼らが目にしたのは、何事もなかったかのように雨が降りしきる草原だった。そこには一角獣の姿はなく、そして……『くろいの』の姿もなかった。
その日、雨の降りしきる草原に銀の獣達の慟哭が響き渡った。