吾輩たちの見方
吾輩らは、つくづく勝手に見られるものである。
海を泳げば恐怖と呼ばれ、
草原に立てば王者と呼ばれ、
春に咲けば美の代表と呼ばれる。
まことに忙しい話だ。
まずはサメ殿である。
いかにも不機嫌そうに尾を揺らし、ひとつ鼻で笑った。
「こちらの顔を見るなり、勝手に怯える。失礼な話だ。たしかに歯はあるし、泳ぎもする。だがそれだけで、恐怖そのもののように扱われてはたまらぬ」
海の底のように低い声で、サメ殿は続ける。
「人間どもは、こちらをまとめて見すぎる。大きいのも小さいのも、おとなしいのもそうでないのも、ひと口にサメと言えばそれで終わりだ。あれでは、生き物を見ているのではない。己の怯えを見ておるだけであろう」
サメは人を襲う存在として怖がられがちだが、実際には穏やかな種も多いと紹介されている。恐怖の像ばかりが先に歩くという不満には、たしかに道理がある。
次はライオン殿である。
こちらは怯えられるどころか、持ち上げられる側だ。
「それもまた迷惑なのだ」
ライオン殿は、いかにも面倒そうに欠伸をした。
「王者だの百獣の王だのと、勝手に冠を載せたがる。威厳がどうの、風格がどうのと、こちらが何をしておっても立派な意味をつけたがる。腹が減って寝そべっているだけでも、哲学者のごとく語られるのだからたまらぬ」
まことにもっともである。
ライオンは力や王権の象徴として文化の中で扱われてきたが、それは人間側が積み上げた像にすぎぬ。
最後にサクラ殿である。
「お二方はまだ、怖いとか強いとか、実体のあるものを言われるだけましでございましょう」
声はやわらかい。
だが、そのやわらかさがかえって刺さる。
「わたくしなど、咲けば春だの門出だの希望だの、散れば儚いだの別れだの、好きなだけ意味を載せられております。ただ咲いて、ただ散る。それだけのことですのに」
桜は日本ではとくに象徴性の強い花で、季節感や感傷、美の表象として受け取られやすい。美の代表に仕立て上げられる側の疲れも、なくはないだろう。
こうして聞くと、人間どもは吾輩らを見ているようで、見たいものだけを見ているらしい。
サメを見れば恐怖を欲し、
ライオンを見れば王を欲し、
サクラを見れば美を欲する。
まるでこちらが、生き物や草木ではなく、感情の置き場ででもあるかのようだ。
「だが」
と、サクラ殿が言った。
「それを申すなら、わたくしたちもまた、ずいぶん勝手に人間を見ておりますね」
サメ殿が尾を止めた。
ライオン殿が片目を開けた。
「意味を載せたがる生き物。
騒がしく、忙しく、勝手で、感傷深い生き物。
そう決めて見ているのは、わたくしたちも同じことでしょう」
しばし沈黙があった。
否定できぬ。
まことに否定できぬ。
人間は吾輩らに、恐怖や威厳や美を見いだす。
吾輩らは人間に、身勝手さや騒がしさや感傷を見いだす。
どちらが正しいというより、互いに相手の全部を見る気がないのかもしれぬ。
見たいものを見る。
見やすいものだけを見る。
そうして相手の像を勝手に作り、それを相手そのものだと思い込む。
まったく、面倒な話である。
だが、面倒なのは人間だけではないらしい。
しばらくして、風が吹いた。
サクラ殿の花びらがひとひら、ふわりと舞った。
人間ならきっと、あれを見てまた何か言うのであろう。
儚いだの、美しいだの、春だの、別れだの。
そして吾輩らもまた、そんな人間を見て、勝手なものだと思うのだ。
どうやら互いに、相手そのものより、相手に映る己の都合のほうを、よほど熱心に見ているらしい。




