光一郎大学一年生2
動きづらそうなスーツを身に纏っているのに。生身の光一郎よりもずっと自由に、身軽に、その人は広いステージを支配していた。
怒り、嗤い、悪を謳い、最後は子供たちの声援を受けて立ち上がった正義のヒーローに討たれた顔もわからないその人に、光一郎は多分恋をしたのだ。かつて青かった学生の自分にあの日生まれた感情が恋であると欠片の疑いもなく断じた認識したその理由を、二十年近く経った今でも光一郎は説明できないままでいる。
美人局か。はたまた危ないバイトを抜けるための身代わりか。うっすらとその可能性を感じつつも、結果として光一郎は優仁から紹介されたバイトへと向かったのだ。
初対面の人間に与えられた情報をうのみにするなど、今思えば怖いもの知らずにもほどがあるが、ともかく当時の光一郎は多少なりとも金が欲しかった。もう少しばかり踏み込んだことを言えば、このときの光一郎は既に成長期を終え一九〇近い身長になっていたので、下手にターゲットにはなるまいとも思ったのだ。全く以って慢心極まりないことではあるが、二十歳にもならぬ若造の思考などこの程度の浅さであろう。
幸運なことに、光一郎の警戒は杞憂に終わった。子供向けのヒーローショーの設営準備と他こまごまとした雑用。優仁からの情報に何ひとつとして真実であった。この幸運は優仁の善性で成り立っていたのだと気が付いたのは、随分後になったことである。
「あれ?! 来てたのか!」
善性で成り立った正真正銘文字通り「イベントの設営バイト」の会場で、光一郎は優仁との再会を果たした。お互いジャージ姿の、感動もクソもない再会である。軍手を片手にニコニコと手を振っていた。
「このバイトさぁ、俺好きなんだよな」
「はぁ、」
現場リーダーの指示に従って物を運んだり設置したりしながら、光一郎と優仁は世間話に興じていた。自分よりも下にある優仁のつむじを眺めながら、なんとも言えない相槌を打つ光一郎に笑いが返される。
「マ、すぐわかるよ」
首を傾げた光一郎だったが、その理由はすぐに判明した。
わぁっ! と幼い歓声が沸き上がる。ヒーローの一挙手一投足が子供たちの琴線に触れるらしい。子供の傍らでは、その保護者であろう大人たちも小さく感嘆の声を上げている。悪役の登場には本気の悲鳴や泣き声が上がり、傷を受け膝をついたヒーローには割れんばかりの声援が注がれた。子供たちの反応すら織り込み済みなのだろう。声援を受けて立ち上がったヒーローに、歓喜と喝采が送られている。
観客席の後方。人の往来や、観客の視界の邪魔にならない場所で。子供たちと同じように、終わるまで待機を命じられた光一郎もステージ上で展開される物語を食い入るように見つめていた。
「な? 結構いいだろ?」
「ぉわ」
集中して見ていたのだろう。光一郎の方がピクリと跳ねる。
「そう、ですね……」
一拍反応が遅れた光一郎を気にすることなく、優仁は続けた。
「どうしてもちょっと見づらい位置ではあるんだけどさ。金貰ってこんなすごいの見れんなら随分割のいいバイトだと思わない?」
「思います」
優仁の方を見ずに答える光一郎。その態度に優仁が気分を害した様子がないのは、過去に同じような経験をしたからに他ならない。
キャアッ! と一際大きな悲鳴が上がる。手下を軒並み倒された悪の親玉が直々にヒーローを屠らんと姿を現したのだ。重みを感じさせるゆったりとした足取りに、大げさなほどに優雅な振る舞い。声を出さずとも動作だけで、ここまでキャラクター性を伝えることができるのかと感心した。
中に人が入っていることはわかっているのに、少し遠いステージの上で鋭く、踊るように武器を交えるその悪党は紛れもなくその悪党としてこの現実に生きている。そう思えてしまったことに驚いたし、慄いた。
「光一郎! 終わった! 片付け指示来たら行くぞ!」
「!」
次にはっと意識を引き戻されたのは、悪が打ち倒された時だ。ステージに転がった巨悪はピクリとも動くことはない。当たり前だ。トドメはさされているのだから。否、当たり前ではない、死んでるはずはない。あくまでそういう演技だ。子供向けのショーで人死にがあってはたまったものではない。それでもぞっとするほどの現実味が、フィクション上に成り立っていた。
観客たちが全て退場し、スタッフだけになってようやく。死んだ悪はのそりとその身を起き上がらせた。
はじめは指先がピク、と動き。そこから続くように腕、足と力がこもってゆっくりと頭が持ち上がる。まるで巨悪が生き返ったかのような感覚に、光一郎は腹の底かヒヤリとする感覚を覚えた。起き上がったそれがぐるりとあたりを見回した。文字通りの復活である。
ここにもう、ヒーローはいないのに?
普段ならば絶対に考えないことが脳裏に浮かんだ時だ。
「お疲れ様でーす! 撤収入ります」
「あ」
スタッフがゆるい声を上げた。そのたった一言で、巨悪が作り物に成り下がったのだ。生気が抜けたというべきか、巨悪の人格が居なくなったというべきか。ともかくその一言で「実在するキャラクター」が「キャラクターのガワを被った人間」に変わったと感じたのだ。
現場リーダーの集合の声に、光一郎は優仁に背を押されながら足を動かす。そんでもないものを見たのではとやや呆けた様子の光一郎に、優仁はまるで想定済みだったかのように満足げな表情を浮かべていた。
「すごかったっしょ?」
優仁の問いに光一郎は頷くことで是をお返した。
黙々と撤去作業をこなし、全てが片付いたとき。既に日は傾いてあたりはオレンジ色に変わっていた。
今日のバイト代は交通費と一緒に後日口座へ振り込んでくれるらしい。若さでゴリ押したとはいえ、慣れない力作業にすっかりくたびれた光一郎にとってはありがたい話であった。現金手渡しで、疲労で気が回らず帰路で落としましたなんてことになったら悔やんでも悔やみきれない。
「どお? 気に入った?」
「それは、ええ、まあ」
「そりゃよかった!」
美人局とかじゃあなかったんですね、という言葉を呑み込んで、光一郎が素直にまたやりたい意志を示せば、優仁はぱっと笑顔になった。
「でも、ちょっと間を空けてだなあ」
「一日がかりだからそらそうよ」
己の体力のなさにほんのりと嘆きつつ、ぽつぽつとショーの感想を言い合う。この時間は光一郎にとってとても楽しい時間となった。
行きよりもずっしりと重たい足取りで帰ろうと、のそのそと歩みを進める。
「あっ!」
「……?」
「おーい!」
並んで歩いていた優仁が突然声を上げた。疲労で反応が遅れた光一郎を気にすることなく、手を上げて大きく左右に振る。知り合いでも見つけたのだろうか。
「おーい! お疲れーす!」
ブンブンと手を振りながら声を張る優仁の視線の先に、人影をみつける。少し距離があるせいで、顔はわからないが向こうもこちらに気が付いたようだ。手を上げ、ゆっくりと手を振り返してきた。
「先輩で、友達なんだ。紹介しても?」
「勿論」
「よかった」
先輩ということは、同じ大学。つまり光一郎の先輩でもある。先輩の知り合いは少ない、ここで知り合っておけば共通科目の過去問とかもらえないかな、と少しばかりの下心を持って光一郎たちはその人影に近づいていった。
「いやでッ……、あ、すみません……」
光一郎の口から心からの言葉が漏れ出した。咄嗟に言葉を切るも、ほとんど言ったようなものである。
仕方がないだろう。すっかり成長期を終えた光一郎の身長は実に一九〇近い。その身長をもってしても、その人と目を合わせるためには上を向く必要があったのだから。
そう、「上を向く」必要が。
久しくなかった、もっと言えば今後ないと思っていた経験に、光一郎は狼狽える。
「はは、よく言われる」
無礼にも取られかねない光一郎の態度に気分を害した様子もなく、その大男は穏やかに肯定を返した。
金髪と言うには暗い、かといって黒髪と言うには薄いアッシュブラウンの髪に、ヘーゼルの瞳。日本人離れしているものの、欧米人の顔のつくりにしては輪郭にやや丸みがあるというか、慣れ親しんだ雰囲気の残る整った顔立ち。もしかしたら両親のどちらかが日本人なのかもしれないな、とぼんやり思った。
「はじめまして、本城和沙です」
予想外に日本人らしい、どこかで聞いた名を告げながら、大きな手のひらが差し出される。
「あ、ああ……。朝倉光一郎です」
握り返した手が自分よりも一回り大きいことに驚いた。
「今日のショーのラスボス、この人」
「エッ?!」
思わず大きな声が出た。さきほどから驚いてばかりだ。光一郎に強烈な現実味を帯びた死を見せつけた張本人が目の前に立っている。見た目が違うのは当たり前だが、あの巨悪が目の前の男だったとはとても信じられなかった。雰囲気も、何もかもが違いすぎる。
「カズさん、相変わらずやべえね」
「そう? よかった」
「すごかったです……」
「嬉しいなあ、ありがとう」
なんとか搾りだしたのは月並みな感想であったが、大男────基、和沙は嬉しそうにはにかんだ。とろりと蕩けたまなじりに、存外穏やかで柔らかい人なのだと察した。威圧感があるのは体格だけらしい。今だって背を丸め、光一郎たちと目線を合わせようとしてくれている。綺麗な人だなあ、と素直な感想が脳内に転がった。
何となく見つめ続けるのも悪い気がして、光一郎はうろりと視線を彷徨わせる。恵まれた容姿に、こちらを喰うような演技に。魅せられた、と自覚があったので。
「それで……、光一郎、くん」
「はい……?」
上にあった和沙の頭が、屈んだことで光一郎と同じ位置まで下がる。大きな熱い手のひらに右手を取られて包まれたのを、光一郎はどうすべきなのかわからずに和沙の顔を見つめ返した。振り払おうと思えばできてしまうほどの力。和沙の力を考えればあえて弱い力で握っていることは明白だ。それでも何となく、光一郎はその手を振り払おうとは思えなかった。
じわ、と伝わる高い体温に、柔らかく蕩けたヘーゼルの瞳。あ、と思う時にはもう和沙の口は開かれていた。
「君と付き合うには、どう口説き落とせばいいかな。好きなものはある?」
「は、」
瞠目。次いで頬が熱くなったのを感じた。あまりにもストレートな好意。
初対面ですよ、とか。あなたのこと何も知りません、とか。色々言葉は浮かんできてもいいはずなのに。口から発されたのはあ、だとかう、だとか言葉にならない音ばかり。
和沙がそうであったように、光一郎もまた、きっと、たぶん、おそらく。顔を合わせたその時に、和沙を好きになってしまったのだろうと。熱い顔をよそにやけに冷静な脳がそう判断を下したのだ。




