宅飲みの夜
「お邪魔しまぁす!」
ガサガサと袋を鳴らしながら、そいつはやってきた。やってきたというか、和沙が道中で拾ってきたというべきか。なんにせよ普段はふたりだけの家に客人がやってきたことに変わりはない。仕事の帰りに拾えるルートだから拾ってくるね、なんて朝早く書置きで残していった和沙とともに、そいつはやってきた。
「手洗ってー」
「あーい」
ガタゴトと荷物を降ろす音を聞きながら、光一郎はローテーブルを付近で拭いていた。先に手を洗い終えたらしい和沙が、膨らんだエコバッグを片手にひょいとリビングへ入ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま、いろいろ買ってきたよ。久しぶりにお酒のコーナー見た」
次々取り出される食材たちを眺めつつ、光一郎はこれからやってくるであろう男に思いを馳せる。
「チーズすごかったよ、まだちゃんと見てないけど」
「うわぁ……」
見なくたってわかる。どうせ「消費できなくってさ」なんて言いつつも光一郎と和沙を巻き込む前提の買い物であるのだ。
パタパタとスリッパがフローリングを叩く音がして、客人である男がひょいとリビングに顔を出した。何が面白いのか、機嫌よさそうにニマニマと笑みを浮かべている。
「お邪魔しまーす。カズさんも光一郎もおひさー」
「上着そこに掛けちゃって」
「うわぁ荷物がでかい……」
上着を脱ぐ男のすぐ足元にずっしりと鎮座する荷物に、光一郎は隠しもせずにため息をはきだした。
高橋優仁。三十六歳。男。職業、フリーの麻酔科医。身長一六七ほどといったか。ザ・中肉中背の朗らかな印象を受けるふたりの友人だ。趣味は映画鑑賞、読書、カフェ巡り、料理など非常に多岐にわたるが、そのうちのひとつである料理に巻き込まれようとしている。
「で?何がどうしてそんなデカい荷物持ってくることになるんだ?」
光一郎の問いに、優仁は待ってましたとばかりに足元の荷物をバサバサと漁った。
「じゃーん!」
「あぁ……」
「想像以上だ……」
蜂蜜色の艶やかな表面。どっしりと重量を感じさせる半円状のそれ。事前に宣言を受けていたラクレットチーズの塊である。
どうやら光一郎も和沙も、見通しが甘かったらしい。ひとり暮らし、あるいは光一郎たちを巻き込んだとしても三人力。その頭数でどうにかなる規模だと思っていたのだ。
しかし現実はどうだ。どう考えたって三人でどうにかなる大きさではない。少なくとも両手で掲げる大きさのチーズを喰らいつくせる程の胃袋を、三人は持ち合わせていない。
「でっか……どうやって食べるのこんなの……」
「ちゃんとフォンデュメーカー持ってきた」
「店でやる表面炙るやつ?」
おっかなびっくりチーズをつつく光一郎の問いに、優仁はきょとんと目を瞬かせた。
「いや? 切って小さい卵焼き用のフライパンみたいなのに入れて溶かしたり、チーズフォンデュにしたり」
「ハァ?」
「じゃあこの大きさである必要なくない……?」
「ふたりともロマンって知ってる?」
事も無げに言い放つ優仁だが、そのロマンとやらに巻き込まれる光一郎たちの胃袋に配慮はない。これ以上何を主張しても結局は流されるのはわかりきっている。苦笑いを含ませた表情の和沙が、諦めろと言わんばかりに光一郎の肩を叩く。なにかにおいて切り替えが早いと言うか、流されやすいのは圧倒的に和沙の方だ。
いそいそとラクレットグリルを設置しだした優仁を横目に、和沙が食材の準備をしようと立ち上がる。
「バゲットと、ジャガイモと……クラッカーと、あとは?」
「チンしたニンジンとかブロッコリーとかもいけますよ。塩っけあるから割と何でもアリ」
「グラス……。コウ、氷って」
「できてますよ。一応スーパーで買ったやつもあるんで足りると思いますよ」
手伝おうと立ち上がった光一郎の背に、優仁が声を掛けた。
「前置いてった生ハム用のナイフ使いたいんだけど、どこにある?」
「そこの棚ン中!」
じわ、と油の滲む乳白色のチーズが特売で買って茹でただけのジャガイモに絡む。溶けたチーズと芋。溶けたチーズとバゲット。たったそれだけの組み合わせがやたらと美味く感じるのはやはりお高いチーズを使っているからだろうか。光一郎は氷をぶち込んだ白ワインで口内の油っぽさを押し流してほうと息を吐いた。ワインの飲み方としては邪道であろうが、宅飲みである以上誰に咎められることはない。
「あー……うまぁ……」
「だろ?! そうだろ!」
悔しいことに、優仁の勧めてきた食べ物がはずれだった試しはない。現に彼の手で持ち込まれたラクレットチーズは、風味がギュッと詰まった濃くまろやかな味わいだ。ややばらつきのある角切りにされたバゲットで、とろけたチーズを贅沢に拭い取る。
文句のつけようもなく美味い。もう塩分過多やら油云々はどうでもいい。明日の浮腫みと胃もたれは明日の自分に丸投げすることにする。
「美味いよな! カズさん!」
優仁は黙々とブロッコリーにチーズを絡ませていた和沙に話題を振る。突然自分に意識を向けられた和沙は、咀嚼していたブロッコリーを飲み下してから口を開いた。
「ン? ンン、美味しいよ」
「ですよね!」
「でも俺スーパーの特売のチーズ同じような状態で出されたら多分わかんないな……」
「なぁんで!」
けらけらと笑いながら優仁が和沙の背を叩く。そこには不満の色はない。当然だ。優仁は和沙と長い付き合いなのだ。それこそ光一郎よりも長く。
「まあいっぱい食べて飲んでよ。ひとりじゃ食べきれないからさ」
頼まれてもいないのに空になった和沙のグラスに注がれた白ワインがココココ、と涼し気な音を立てた。
ラグから体半分を盛大にはみ出させた和沙が、健やかな寝息を立てていた。アルコールが回っている白い肌は桃色に染まっている。特別和沙が酒に弱いということではない。どちらかと言えば強い部類に入るだろう。しかし三人の誰よりも早く脱落してしまっているのが現実だ。理由は簡単である。
「飲ませすぎだ」
「いや思ってたよりも早く落ちたなぁ。今日早かった?」
「割と。んで勧められるままに食べて飲んでしたらそりゃこうなる」
自宅で、気心の知れた人とだけ。それも和沙の気が緩んだ一因でもあるだろう。小休憩にと用意したスーパーで買った冷凍マンゴーを口内で転がしながら、光一郎は転がっている和沙を眺める。
「相変わらずキレイな顔しちゃってェ……」
戯れに優仁が眠りこける和沙に手を伸ばす。そのまま犬の喉元を撫でてやるように、指先は喉仏のくっきりと浮き出たそこを撫で上げた。
「ふ、ぅ……あぅ……?」
「あ、」
ひどく甘えるような、媚びるような声だった。ひゅっと息を呑む音が優仁の隣から聞こえてきた。次いでアルコールが回っているとは思えない速さで、いたずらを仕掛けた優仁の手首を光一郎の手が引っ掴む。キリキリと絞められる手首に光一郎の顔を見れば、数分前までのほてりが消え失せていた。
「オイ、やりすぎだ」
「わかってる。ごめん」
「…………。悪い、カッとなった」
「や、これは俺が悪い。マジでごめん」
解放された手の行き先を求めるように、優仁はソファにあったブランケットを和沙に適当に掛けた。
わずかな沈黙。気まずさはすぐに消え失せた。今更この程度のことを引きずるほど浅い付き合いをしていない。
「……まだ泣く?」
「たまに。本当にたまに、夢見が悪いと。意識はっきりするとすぐ落ち着く」
「そっかあ」
「まあでもさ、」
ゆっくりと光一郎が立ち上がる。ふらつかないようにか、普段よりも幾分か遅い足取りで和沙の元へ。そのまま背もたれ代わりにした光一郎は、穏やかに笑って見せた。
「随分落ち着いてイイ男になったろ」
「そーね。随分幸せそうだよ。カズさんも、お前も」
無意識に光一郎の手が和沙の頬に伸びる。普段からよくそうしているからか、和沙は眠ったまま光一郎の手のひらに顔を寄せた。そこには媚びではなく、安堵の色が濃く出ている。
ふ、と光一郎は知らずに詰めていた息を吐き出した。
健康的な血色の肌。柔らかく蕩けるヘーゼルの瞳。光一郎を呼ぶ低く穏やかな声。光一郎は和沙のことを愛している。そして和沙も、光一郎に対し同じだけの感情を注いでいる。
嗚呼、かつてこのひとは。
かつてこのひとは、装飾品としてとてもお誂え向きのトロフィーだった。




