観察
カタタ、カタタタタ。
キーボードを叩く音だけがする部屋に、和沙はそっと足を踏み入れた。手にはぬるめのハーブティーが入ったマグカップ。和沙の侵入に気が付いていないらしい光一郎は、相変わらずノートパソコンの画面とにらめっこしたままだ。
床に散った────否、光一郎はとしては定位置なのかもしれないが。本や資料の位置を変えないように注意しつつ、作業机に近づく。予想通り底がカピカピに乾いたマグカップが放置されていたので、ほうじ茶を満たしたマグカップと交換。すぐ近くで行われた和沙によるマグカップの交換にも、光一郎は気が付く様子もなくキーボードの上を忙しなく指先が踊っていた。和沙も仕事に傾倒するきらいがある自覚があるので、気がつけない気持ちはよくわかる。
ブルーライトカットメガネに青白い光が四角く反射している。ソースコードを読み込んでいるのか真剣な黒い瞳が小さく左右に動いていた。真剣な横顔をぼんやりと眺める。なかなかお目にかかれない表情だけに、じわりと面映ゆい感情が湧き上がってくるのを気づかないふりをした。
────いっそこのまま頬に思い切りキスでもしてやろうか。
目を見開いて、和沙を見て、耳を赤くしてくれるだろうか。それともうろうろと目を泳がせて撫でてくれるだろうか。和沙と比べて光一郎の表情の変化は控えめだ。しかし、無表情なわけではない。照れるときは耳が熱を持つし、瞳は潤む。不機嫌なときは眉間にしわがギュッと寄る。わかってしまえば何も難しいことはない。
短く整えられた爪先がピクリと動く。和沙の男性的な、ゴツゴツとして長い指先が光一郎の頬へ伸びる。触れる直前にそれはひっこめられた。
邪魔をしたいわけではないのだ。光一郎が仕事をしている姿が好きなように、和沙もまた光一郎が仕事をしている姿が好きだ。ひっくり返してもしずくの一滴も落ちやしない空っぽのマグカップを指にぶら下げて、一歩、二歩と下がる。そのまま扉の近くに転がっていたビーズクッションに体を預けた。資料や本を蹴散らかさないように注意しつつ足を伸ばす。光一郎の仕事姿を眺める和沙の特等席だ。いつだったか和沙と光一郎の共通の友人から押し付けられたものだが、意外と活用の機会を与えられている。
一般人の身長から大きく外れた和沙からすればやや寸足らずなビーズクッションにだらりと体重を掛けたまま、キーボードを叩き続ける光一郎の背をじっと眺める。カタカタ、パチパチの文字列を打ち込む音に時折紙をめくる音とうぅん、と光一郎の考え込むような唸り声が混じった。
腹ばいになり、胸の下にクッションを敷いて目を閉じる。光一郎から発される音だけが和沙を包む。
ああ、好きだなあ。なんて。
四十も近いいい大人が噛み締めるには青すぎる感情だろうか。少しずつ溶けていく意識に逆らうことなく、体の力を抜く。光一郎がひと段落つくころには、夕飯の準備をするのにちょうどいい時間帯だろうか。確か昨日の買い出しで炊き込みご飯の素と具材になる野菜を買ったはず。あとは冷凍庫にサバが残っているから味噌煮にするのもいいかもしれない。
あとは、たしか────。
何かに優しく体を揺すられる感覚がして、カズサの意識はゆっくりと引き上げられる。
「……。……、」
「……?」
「カズ、起きて。ほら!」
「! オァ……ッ」
優しく起こしてもらえる時間は過ぎたらしい。光一郎は和沙の横っ腹に両手を引っ掻け、わっさわっさと大きく揺さぶってきたので。これはもう起きる以外の選択肢を取らせてもらえないやつだ。
「カズ、カズ!またこんなところで寝て!体痛くしたらどうするんです!商売道具でしょう!」
「おきた……、起きた。起きました……!」
情けない声で起床を宣言したところで、ようやく熱烈なモーニングコールが止まった。寝起きでぼやける視界のまま、うつ伏せだった体を仰向けに。鮮明じゃなくたってわかる光一郎の輪郭に手を伸ばして抱き寄せる。
「寝ぼけてます?」
「寝起きはいいと自負してるよ」
大人しく抱き寄せられ、和沙の腹の上に体を預けた光一郎が笑う。仕事はひと段落したらしい。機嫌よく腹の上で和沙の頬をつついたり、揉んだり。和沙はたまらなくなって、光一郎の頬を両手で挟み込んだ。
「ンぁ、かず……?」
「んー? ふふ、」
むにゅ。頬に唇を押し付ける。制止されないのをいいことに、目尻、鼻先と続けてキスをする。
唇にしようとしたところで、光一郎の手のひらが和沙の口元を覆ってキスを阻止した。
「んむ、むぅ……」
「だめです。唇にしたら舌入れるでしょう」
「むー……」
不満ですよという抗議を込めて唸り声をあげるも、残念ながら許してはもらえないらしい。光一郎の意志を無視してまで欲を押し付けるほど若くもなければ、それをして光一郎を傷つける勇気も和沙にはない。戯れに留める意思を伝えたくて、和沙は自分に乗る光一郎の腰のあたりをぽんぽんと軽く叩いてやる。
それなりの時間を共にしていれば、この程度の意思疎通は容易だ。和沙の口元を解放した光一郎はゆっくりと体を起こしながらあくびを噛み殺している。
「仕事は終わったの?」
「ええ、大方。カズはまた覗き見ですか。あなたの仕事と違って面白くもないでしょう」
「これが意外と面白いもんだよ」
腕を引かれたのに従って和沙も体を起こす。サイズの合わないビーズクッションで寝落ちてしまっていたからか、関節がパキパキと嫌な音を立てた。ぐうっと伸びをしたときに、ひときわ大きなボリ、だかゴキ、だか形容し難い音が体内から響いた。
「また寝落ちてたかあ……。今回は最後まで見てられると思ったんだけど」
「芝居と違って動きがないから退屈にもなりますよ」
大きなぬいぐるみを抱き寄せる感覚で光一郎の腰に腕を回す。光一郎が慣れた様子で和沙に体を預ける。
「あっっっっったかいですねあなた……」
「寝起きだからね」
どちらからともなく体を離し、部屋を出る。日本人成人男性の平均からは大きくはみ出たふたりには少しばかり手狭な階段を降りながら他愛もない言葉を交わす。夕飯はサバを使おうだとか、次のオフはいつだとか。この時間が和沙も光一郎もたまらなく好きだ。
「そう言えばユージンから連絡来てたね」
「えっ気づかなかった。なんだろう……。グループ?」
「そう、グループチャットの方」
夕飯の準備を終え、炊飯器が炊き込みご飯を完成させるのを待つ間。和沙は友人から連絡がきていたことを思い出した。光一郎がスマホになにやらメモを書きこんでいる。
「またなんかふざけたもの持ってくるつもりじゃないだろうな……」
「なんかラクレットチーズ買ったから宅飲みしようって」
「アイツこの間生ハムの原木ようやく消費しきったの忘れてません?」
「覚えててもやるだろうなあ……」
光一郎の顔が渋くなった。ふたりの脳裏にはへらへらと悪びれる様子もなく笑う友人の顔が映し出される。先ほど光一郎が話題に上げた生ハムの原木だって、以前その友人が専用の固定台とナイフまでつけてこの家に置いていったのだ。
それなりの値段がしたであろう生ハムは確かに美味かった。美味かったけれどもだ。完全に消費しきるまでにバゲットサンドやらサラダやら、大して豊富でもないレシピを搾りだす日々であった。二度とやるなと釘を刺したのに、生ハムじゃないからチーズはオーケーだとでも思ったのだろうか。
「……一応聞いておきますけど、スライスとか細かくなった状態のやつですよね?」
「半円のやつだって。温める機械も買ったってニコニコの絵文字ついてた」
「バカがよ……」
光一郎は額に青筋が浮いた気さえした。愉快に生きてこちらを巻き込んでくるくせに、踏み越えてはならないラインはしっかりと守ってくるせいで絶妙に怒るに至れない。その辺のヘイト管理があまりにも上手すぎる。似たようなことは過去に何度もあったし、そのたびにぶつくさ文句を垂れつつもなんやかんやと許して流して、悔しいことに最終的には楽しんでしまった。
どうせ今回も同じ轍を踏むに決まっているのだ。
「チーズかぁ……胸やけ大丈夫かな……」
「その辺の耐性そろそろ厳しいですよ俺たち」
「野菜多めに用意しておこうか。レタスとか。あとさっぱりする飲み物」
「どうせ残り置いてきますよ。どうやって保存するんだ……」
刺すべきものを失って空っぽになった生ハムの固定台がリビングの棚からふたりを眺めている。
「生ハムの台に刺しておくとか?」
「調べさせてからうちに上がらせましょう」
「アイツちょっと俺の胃袋を過信しすぎてるよね?」
「体デカいから……」
「俺一番年上なんだよなぁ……」
ピロリロと炊飯器が炊き上がりを知らせるアラームを鳴らす。漂ってくるのは醤油と出汁の香りなのに、どうにもチーズの乳臭さが鼻奥にこびり付くようだった。




