第43話 コハクの昔語り・1
ボクの名前はコハク。元幻妖です。
そう、いつもは黒猫の見た目をしていて人間の姿にもなれますが、ボクは元幻妖なんです。
でも、幻妖だった時の記憶はありません。
気づいた時にはもうこの姿でしたし、何もわからないまま車に乗せられていましたから。
ある冬の日のことです。
「君はこれからうちで暮らすんだよ」
初めて乗る車の中で、知らない男の人が猫姿のボクを抱っこしながらそう言いました。
知らないおじさんでしたが、不思議とあまり怖くはなかったことを覚えています。
そのまま、ボクはおじさんの家に連れていかれました。
後から知りましたが、それはボクがまた『悪いこと』をしないように監視するためでもあったそうです。
幻妖だった時の記憶がないのに、その時と同じような『悪いこと』なんてできないですよね。おかしなおじさんです。今でも時々思い出しては笑っちゃいます。
そうして、ボクはおじさんの家に迎えられることになったんです。
※※※
「さあ、今日からここが君の家だ」
車から降りたおじさんは、ボクを抱っこしたまま家の中へと入っていきます。
その時、表札がちらりと視界に入りましたが、一瞬のことだったので何て書いてあるのかまではわかりませんでした。
家の中はとても広く見えました。
今見てもやっぱり広いと思いますし、実際に他の家よりも大きくて広いそうです。
ボクがあまりの広さに目を回しそうになっていると、おじさんは優しく言いました。
「敷地内であれば好きなように遊んで構わないよ」
広い廊下に下ろしてもらったボクは、一度おじさんを見上げてから、勢いよく走り出しました。
逃げようとかそういうのじゃなくて、ただ単純にこの家がどれくらい広いのか、わくわくして探検してみたくなったんです。
今になって思えば、猫特有の好奇心みたいなものだったんでしょうね。
しばらく走っていくと、今度はふと外が気になりました。
(家も広いし、外ももっと広いんですかね……?)
そこで、さっきおじさんが言った言葉を思い出しました。
(敷地内にいればいいんですから、外に出てもいいということですよね? 庭も敷地ですよね?)
冬だったので窓は開いていませんでした。
でも誰かが閉め忘れたんでしょうか、ちょうどドアに少しだけ隙間があったのを見つけたので、そこを前足でどうにか開けて、ボクは外に出ました。
(わあ、外も広いです!)
庭は一面が真っ白な雪で覆われていて、ボクはさらにわくわくしました。
猫って寒いところが苦手なんですが、その時のボクはまだ猫になりたてだったせいか、そんなことはまったく気になりませんでした。
今だったら絶対に嫌ですけどね。暖房の効いた部屋で、ゆっくり牛乳を飲んでいたいです。
(どこまで広いか行ってみよう!)
何だか嬉しくなったその時のボクは、また勢いよく駆け出しました。
でも、庭はどこまでも広く、ボクの小さな身体ではすぐに疲れてしまいました。
途中で立ち止まると、近くに池が見えました。
(池もあります!)
ボクはすぐに疲れも忘れて、今度は池へと向かいました。
これが大きなミスでした。今となってはいい思い出だと言えなくもないですが……。
(魚さんはこの中にいるんですかね?)
薄く氷の張った水面を覗き込もうとした時でした。
(あ……っ!)
ちょうど前足が滑ってしまったんです。
しまった、と思った時にはもう遅くて、ボクは氷を割って池に落ちていました。
(だれか、だれかたすけて……っ!)
ボクは必死に両手両足を動かしました。
でも、とても冷たい水の中では上手く動きません。その間にも、ボクの身体はだんだんと沈んでいきます。
このままボクは誰にも気づかれずに、池の底に沈んでしまうのだと思いました。
(つめたい、くるしい、つめたい、くるしい……)
静かに意識が遠のいていくのを感じました。
その時でした。
急にふっと身体が軽くなったんです。
水を飲んでしまっていたのか、少し苦しくはありましたが、全身を突き刺すような冷たさからは解放されていました。
ゆっくり目を開けると、間近にかっこいい男の人の顔があります。
「君、大丈夫!?」
そこでボクはこの人に助けられたことを知りました。
ボクのことをとても心配そうな顔で見ていたので、
(……もう大丈夫です。ありがとうございます)
そう気持ちを込めながら、男の人の頬についた水滴をそっとなめました。
すると、途端に男の人は泣きそうな顔で笑います。
ボクはそれが不思議で、ただ黙って見上げることしかできませんでした。
「本当に無事でよかった……っ!」
男の人は呟いて、ボクを強く抱き締めました。
両腕でしっかり抱き締められていたのでちょっと苦しかったですが、ボクは我慢していました。何より、助けてくれたことが、心配してくれたことが嬉しかったんです。
少しして、男の人が思い出したように顔を上げました。
「あ、こんなところにずっといちゃダメだよね!」
今度は慌てたように駆け出します。
そのまま男の人は、ボクを暖かい部屋に連れていってくれました。
「今タオル持ってくるから、ちょっと待ってて」
言いながら、ボクをストーブの前に下ろします。
ぽつんと床に置かれたボクは、男の人を見上げました。
初めてしっかり見た男の人は、真っ黒な学ランを着ています。その腕と下半身はずぶ濡れでした。
男の人は自分が濡れるのも構わず、冷たい水の中からボクのことを一生懸命に助けてくれたんです。
人間だから腕と下半身くらいで済んでいますが、きっとボクと同じようにすごく冷たい思いをしたのだと、その姿からわかります。
ボクは申し訳ないと思いましたが、それと同時にとてもとても嬉しかったんです。
あの時の気持ちは、今もずっと忘れていません。
「あ、ちゃんといてくれた。賢い子だなぁ」
黙ってストーブにあたっていると、男の人がタオルをたくさん抱えて戻ってきました。
目の前に座った男の人はタオルを手にすると、ボクの身体をいっぱい優しく拭いてくれました。
「ところで、君の名前は?」
聞かれて、ボクは自分の名前を知らないことに気づきました。
(ボクの、名前……?)
思わず首を傾げてしまったボクの顔を、男の人が覗き込みます。
「そっか、まだ小さいから名前ついてないのかな。じゃあ目の色が琥珀色だから、君の名前はコハク!」
可愛い名前でしょ、そう言って男の人は嬉しそうに笑いました。
(今日からボクはコハクっていう名前なんですね。わかりました! あ、でもボクはあなたの名前を知りません……)
けれど、すぐにボクがしょんぼりしてしまったことに気づいたのか、男の人は少し考えるような素振りをみせます。
「あれ、名前気に入らなかった? ああ、俺の名前まだ言ってなかったからかなぁ。知らない人にいきなり名前をつけられても嫌だよね」
男の人はふかふかになったボクを抱き上げて、今度は苦笑しました。ボクの思っていることが、不思議とすべて伝わっているかのようでした。
それから、ボクの目をまっすぐに見つめて、こう言ったんです。
「俺は冬夜。玖堂冬夜っていうんだ。これからよろしくね、コハク」




