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ヘタレ退魔師・玖堂冬夜のあやかし奇譚  作者: 市瀬瑛理
第六章 崩れる日常

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第42話 コハクに忍び寄る魔の手

 玖堂(くどう)家から帰ってきて、数日が経った。


 この数日の間はまるで手紙のことがなかったかのように、とても平和だった。

 そう、玖堂家での出来事を忘れてしまいそうになる程度には。


 むしろ忘れてしまいたかった冬夜は、あえていつも通りに過ごすようにしていた。そのせいもあったのだろう。


 窓につけられたシンプルなレースカーテンが、今日も爽やかな風に揺れている。


 穏やかな午前中の事務所では、冬夜とコハクがソファーで普段と同じようにくつろいでいた。

 志季は大学の講義があるので、午後から来る予定になっている。


「コハク、このぬいぐるみはどう? 可愛いよねぇ」


 テレビの通販番組で紹介されているウサギのぬいぐるみを指差しながら、冬夜が隣にいる猫姿のコハクに満面の笑みを向けた。


 ぬいぐるみは、冬夜がどうにか抱えられるくらいの大きなものである。


 丸くなってうとうとしていたコハクはゆっくり目を開けて、テレビを見やる。

 そのまま少しの間ぼんやり眺めていたコハクだったが、あまり興味を引かれなかったらしく、また丸くなろうとした。


「……これ通販すると、間違いなくまた志季さんに怒られますよ?」

「えー、そうかなぁ?」


 冬夜が不満そうな声を漏らすと、再度顔を上げたコハクは、真っ黒なもふもふの手でテレビを指す。


「そうですよ。冬夜さまが可愛いもの好きなのはわかりますけど、ここまで大きなぬいぐるみなんて買ったら、『こんなものどこに置くんだ』って絶対に怒りますね」


 前に小さなぬいぐるみ買った時も怒鳴られたじゃないですか、とコハクはきっぱりと言い切った。


 冬夜はなぜか、なくても困らないものを通販することが圧倒的に多い。

 逆に、必要なものを買ったことがほぼないと言った方が正しいくらいである。


 そのせいで毎回のように志季に怒られているが、冬夜は特に気にすることもなく、通販をやめなかった。


 通販で買い物をすること自体は悪いことではない。それは志季もよくわかっている。

 ただ、「本当に必要なものなのかをちゃんと吟味(ぎんみ)しろ」といつも注意しているのだが、冬夜はいまいち理解できていないらしく、それが志季の悩みの種になっていた。


「でもなぁ……」


 まだ諦めきれない様子の冬夜が、テレビに(かじ)りつくようにして画面をじっと見つめていると、画面が切り替わってCMが始まる。


「あ、これ美味しそうです!」


 途端に、これまで眠そうにしていたコハクの瞳が輝き出した。

 そのままソファーから飛び降りてテレビの前まで走っていったのを見て、冬夜が苦笑を漏らす。


「アイスクリーム?」

「はい! コンビニで期間限定のやつみたいですね」


 完全にノーマークでした、と振り返ったコハクは、まだ興奮しているようである。


 確かに、少しだけ見えたアイスクリームの映像はとても美味しそうだった。甘いもの好きのコハクが瞬時に食いつくのもよくわかる。


「へえ、この辺のコンビニにはないのかな?」

「いつも行ってるところには多分あると思います!」


 嬉しそうに話すコハクは、今にも事務所を飛び出していきたそうだ。大きな琥珀(こはく)色の瞳で「買いに行ってもいいですか?」と訴えているようにも見える。


 冬夜はその姿を眺めながら、微笑ましげに目を細めた。


「じゃあ、買っておいで。三人分ね」

「はい! あ、でも、こないだ冬夜さまのお父さんに『気をつけろ』って言われたじゃないですか」


 ホントに行ってきても大丈夫ですかね、とコハクが心配そうに首を傾げる。

 冬夜の許可をもらったことは嬉しいのだろうが、やはり不安はあるようだ。


 そんなコハクに、冬夜はさらに笑みを深める。


「すぐそこのコンビニでしょ? それくらいの距離なら大丈夫だと思うし、念のためにスマホを持っていけばいいよ」


 冬夜が言ったのは、徒歩で十分もかからない場所にあるコンビニだ。

 万が一、何かあってもすぐに駆けつけられるだろう。


「わかりました。できるだけ急いで帰ってきますね!」


 元気にそう答えたコハクは、すぐさま人間の姿になると、財布とスマホをしっかりと握り締めて事務所を後にしたのだった。



  ※※※



「無事に買えてよかったです!」


 コンビニから出てきたコハクが、ほくほく顔で事務所に向かって歩き出す。


 鼻歌を歌いながら軽い足取りで歩いていると、(そば)のコンクリート塀の上によく見知った猫を見つけた。


「あ、シロさん。こんにちは!」


 立ち止まって明るく挨拶をしたコハクに、真っ白な猫が「ニャアー」と何かを話し掛けてくる。

 それを聞いて、コハクは手に持ったコンビニの袋を持ち上げてみせた。


「今コンビニに行ってきたところなんです。これですか? 何と期間限定のアイスクリームですよ!」


 嬉しそうに答えると、猫は一つ頷いて、「ニャ、ニャー」と話す。


「シロさんは甘いものあまり好きじゃないですもんね。でもアイスクリームは冷たくて美味しいですよ?」


 きっと気に入りますから今度食べてみてください。そう言って、コハクがニコニコと人好きのする笑みを浮かべた。


 そこで猫が「ニャア、ニャ」とまた何かをコハクに言う。その言葉に、コハクははっとした。


「あ、ホントです! アイスクリームが溶けちゃいますね! 教えてくれてありがとうございます。じゃあボクはそろそろ帰りますね」


 どうやら猫は、「アイスクリームが溶けるんじゃないか」と心配してくれたらしい。


 コハクが猫に手を振って別れる。そのまま、背を向けてまた軽やかに歩き出した。


 ほんの少し離れてからである。

 後ろの方で、先ほどの白猫が大きな声で何度も鳴いた。


「シロさん? 『逃げろ』ってどうかしたんですか?」


 自分に何かを訴えようとする声に、コハクが不思議そうな表情で振り返ろうとする。

 しかし、それは叶わなかった。


 振り返るよりも早く、背後から口を布のようなもので覆われる。薬品のきつい匂いが鼻をついたと思った次の瞬間には、意識が朦朧(もうろう)とした。


 コハクの手から抜けた、アイスクリームの入った袋が地面へと落下する。


 急速に遠のいていく意識の中で、コハクは不意に冬夜のことを思い出した。現在(いま)ではなく、初めて出会った頃のことである。


「……とう、や、さま……」


 無意識にそれだけを紡いだコハクは、抵抗することもできずに静かに目を閉じると、とうとう膝から崩れ落ちたのだった。



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