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令嬢エリカはペンを執る

作者: 月花


「一年、一年だけだぞ」


 エリカにすがりつきながら、というよりも半分しがみつきながらそう言った男は、この国の栄えあるアルバート第二王子殿下であった。


 眉目秀麗、ペンを持たせれば美しい詩を書き、剣を握らせれば並みの兵士では敵にもならず、さらには語学や音楽にも精通し、その決断力には国王も目を見張るものがあり——王族として必要な素養をすべてぶち込んで、よく混ぜて煮込んだら出来上がりました、と言わんばかりの優秀さをもつ人だ。


 そんな男は今、エリカの両手を握りながら「一年経てば王都に戻ってくると誓ってくれ。今ここで」と必死の形相で求めていた。


 一方、地方のしがない男爵令嬢でしかないエリカは、ひざまずく彼を冷ややかな目で見下ろしていた。


「あの……」


 エリカは意を決したように口を開く。アルバートが大声をかぶせてきた。


「心変わりしたか⁉ やはりおまえだけでも王都に残りたいか⁉」

「人の話を遮らないでいただきたいですし、全然違います」


 エリカは虚無の顔をしていた。何がどうなってこうなっているのか、エリカが一番訊きたかった。


 事の始まりは——という枕詞でどこまで遡るべきかも定かではないけれど、少なくともアルバートがすがりついてくるきっかけになった出来事といえば、エリカの父であるハワード男爵が、新たな領地を視察するために一年だけ王都を離れると決まったことだ。


 娘であるエリカも父について行くのは当然だ。もともと王都の華やかな雰囲気が苦手で、社交界にもまるで興味がない。地方でのびのびと暮らしている方が性に合っている。だから父の赴任には内心小躍りしたものだ。これで邸宅に引きこもり、好きなだけ本が読めるぞ、と。


 だがエリカが王都を離れると知ったアルバートが、全力で引きとめにかかったのである。まるで意味のない押し問答の末、「一年経ったら必ず戻ってくる」という約束をするように強要されていた。そして現在にいたる。以上。


「……肝心なところの説明がされていない……」


 苦々しい顔で呟けば、アルバートが首を傾げた。こちらの話ですので、と告げる。


 なぜ第二王子であるアルバートが、地位もなければ美人でもないエリカに執心しているのか、本当にさっぱり分からない。気付いたときにはアルバートに追いかけ回される日々が始まっていて、本気で、一ミリも心当たりがないのである。


 まあ一年もあれば、他の令嬢に目移りして、エリカのことなどきれいさっぱり忘れてくれるだろう——。


 だがエリカの見立てがまったくの見当はずれであることに気が付いたのは、わずか五日後のことだった。






 馬車が小石を踏むたびにガタガタと大きく揺れる。王都に続く街道は整備されているとはいえ、地方までは手入れが追い付かないのか、ところどころ穴も開いていし、水も溜まっている。馬車の乗り心地はお世辞にも良いとはいえない。


 これほど振動をする馬車ではろくに本も読めない。開かれたきりページがめくられていない小説には、陽光が差しこんでいた。すでに日は傾いていて、橙色を帯びている。


 エリカは不意に正面を向いた。そして静かに口を開いた。


「……なぜ殿下が私の馬車に相乗りされているのですか……?」


 エリカは半分絶望したような顔で尋ねた。なぜか目の前に座っているアルバートは、「今さらすぎないか?」と正論を返してきた。


「もう四時間は過ぎているはずだが」

「どうか私の幻覚であってくれと祈っていました。ちょうど四時間ほど」


 なるほど、とアルバートは真面目に頷いた。


「おまえの忍耐強さには驚いたな」

「私も、あなた様の行動力には驚かされるばかりですね」


 オブラートに包んだけれど、それは行動力といよりも考えなしで、さらに言えば横暴である。いよいよ頭痛がしてきて、エリカは両手で頭を抱える。そして「お医者様はいらっしゃいませんか」と訴えた。


「急患です。深刻な病に侵されているようです。特に頭のあたりを重点的に」

「なんだと? それは大変だ、すぐに王都へ引き返さなければ」

「大変なのはあなた様ですよ」


 かなりストレートな嫌味だったが、アルバートは意味が分からなかったのか、にこりと笑ったまま小首を傾げていた。


 状況はともかく、第二王子殿下が地方へ向かう馬車に乗っているなどあっていいはずがない。エリカは声を潜めて「嫌ですよ、私。殿下を誘拐した大罪人に仕立て上げられるなんて」と言った。


「城に知れ渡ったら大変なことになるのでは……」

「何も問題ないぞ。許可は取ってあるからな」

「許可って——殿下が王都を離れていい理由なんてあります?」

「むろん」


 彼は堂々と言い切った。


「夏休みだ」


 窓の外で子どもが甲高い声をあげるのが響き渡った。エリカは呆気にとられた顔で「夏休み?」とオウム返しにする。その声は若干ひっくり返っていた。


「冗談ですよね?」

「たまには田舎で自然の豊かさを愛でるのも良いものだと思ってな。だとすれば、この悪路もなかなかどうして味があるではないか。そろそろ振動で腰が死にそうだが」

「それは同感ですが」

「とにかく許可は取ってある。だから俺のことを気にする必要はない。ド田舎でつかの間の休息を楽しもうではないか」

「私も楽しもうと思っていたんですけどね。昨日までは!」


 先が思いやられる——エリカは盛大なため息を吐いた。この男、やることなすこと無茶苦茶である。






 どこまでも続くような緑のなかに、石造りの家が点在している。その中でもひときわ大きな邸宅が、エリカたちに与えられた住処だった。赤茶色のレンガを積んで作られた壁は、王都のそれとは少し違っていて、田舎風だ。伸びた煙突からは薄黒い煙が細く伸びていた。


 エリカの指先が紙の端をつまんだ。ゆっくりとページをめくる。

 居間の窓を開けたまま、本を読んでいた。


 そよ風が入ってきて部屋の中を吹き抜けていく。髪の先が小さく揺れる。外は真夏の日差しが降り注いでいるが、邸宅のなかは昼間でもひんやりとしていて涼しかった。邸宅にいる使用人は最低限で、足音すらほとんど聞こえない。あたりはしんと静かだ。


 エリカは目で文字を追いながら、けれど頭では別のことを考えていた。


——とても面白いけれど、私なら北国を舞台にするだろうな。そう、雪と氷に閉ざされた永遠の冬の国がいい。主人公は何の力もない一人の村娘。だが彼女は奇跡を起こす。その真摯な祈りと願いによって——。


 ドアを軽やかにノックする音が響き渡った。瞬間、エリカの思考はぷつりと途切れた。反射で勢いよく顔をあげる。


「エリカ、暇か?」


 姿を見せたのはアルバートだった。飾り気のない、ゆったりとした服をまとっている彼は、一言断っただけでそのまま部屋に入りこんできた。


「もう一冊読んでしまったのか。早いな」

「時間ならいくらでもありますので。殿下こそ何をされていたのですか?」

「あたりの散策だ」


 彼は上着のボタンを外しながら答えた。


 この村に来てから十日ほど過ぎたが、アルバートは毎日のように外を出歩いていた。最初は何か重大な目的があるのかと思っていたが、どうやら本当に好奇心で見回っているだけらしい。本当に子どもみたいな人だ。


「今日は馬を走らせて湖のあたりまで行ってみたが、なかなか良いところだったぞ。湖畔は木陰も多くて涼しい。エリカもどうだ?」

「私は……家の中にいる方が好きなので」


 そうか、とアルバートは言いながらソファに腰を下ろした。こういうとき彼は思いのほかあっさりと引き下がる、ということに最近気が付いた。意外だと思う。わざわざ口にはしないけれど。


 彼はソファに座ると、数枚の書類に目を通していった。彼は王都からこの田舎にくるとき、書類の山を持ち込んでいた。どうしても置いていけない仕事だと苦々しい顔で言っていたのを覚えている。


 それも順調にさばいているようで、もう終盤に差し掛かっていた。

 今日の分を済ませてしまったのか、彼は大きく伸びをした。

 

 アルバートは本棚に並んだ背表紙を見回すと、ふと思いついたように言った。


「俺に合いそうなものを見繕ってくれないか」


 エリカは瞬きをした。


「私が、殿下にですか?」

「他に誰がいる?」

「……ネズミくらいですかね?」

「ではおまえで決まりだな」


 ごもっともである。


 愛想か世間話の延長かと思っていたけれど、彼がわくわくとした顔で見つめていたから、エリカは本を閉じてテーブルに置いた。


 ゆっくりと立ち上がって本棚の前まで進み出る。自分の背よりも高い棚が、壁に沿うようにずらりと並んでいた。エリカは背表紙を眺めながら少し考えて、「そうですね」とひとり言を呟いた。


「殿下は日ごろ、どのようなものをお読みになるのですか」


 彼は首をひねった。


「……報告書……?」

「物語は?」

「子どものころ読んだきりだな」

「特に好きだったものを覚えていらっしゃいますか」

「そうだなあ——冒険譚か。国一番の勇者が竜を倒しに行くのだ。思えばありきたりな話だが、あれだけは今でもよく覚えている」

「他には?」

「講義で読んだ歴史書も悪くなかったな。特に東方のものが面白い」

「逆に苦手なものはありますか」

「哲学書はあまり好まない。あとはそうだな、話の筋がはっきりしているものの方が好みだ」


 なるほど、と言いながら本棚を見渡した。近くにあった本の背表紙に指を引っかけて取り出す。左腕で抱えながら、今度は少し離れたところにあるものを手に取り、それも腕で支えながら、さらにもう一冊。迷うことなく順番に選んでいく。


 結局五冊を引っ張り出してきたエリカは、すべてを彼の目の前に並べた。


「お好きなものをどうぞ。どれも殿下の好みからそう遠くはないかと」


 彼は「ふむ」と呟くと、しばらく黙りこんでいた。それから端から端まで指さした。


「ではすべて借り受けよう。一日一冊読むとして、五日あればいけるな」


 彼は視線を向けて、無言のまま問題がないか尋ねてきた。予想していない返事だったから、エリカは少しの間固まってしまっていた。


「……殿下も読書を好まれるのですか?」

「強いて好むわけではないが」

「ではまた、どうして」

「おまえが好きだというものを、俺もこの目で見てみたい」


 エリカは「そうですか」とだけ言って目を逸らした。彼の言葉はいつだって真摯で裏表がない。それをこそばゆいと思うし、眩しいとも思う。


 エリカは椅子に座りなおして、アルバートもソファに腰を下ろした。どちらからともなく本に手を伸ばして、それぞれ読み始める。同じ部屋にいるのに言葉はなくて、視線も交わらない。


 ページをめくる音と、振り子時計の音だけが響いている。それはとても心地のよい時間だった。


 床に反射する光の線が長くなる。ふいにアルバートが口を開いた。


「そういえば、おまえはもう物語を書かないのか?」


 彼は視線を落としたままでそう言った。思い出したから訊いてみた、ただそれだけのように。だがエリカの声はひっくり返っていた。


「え、あの――えっ?」


 口をついてでたのは言葉にもなっていない声だった。動揺のあまり目が泳ぐ。明らかに平常心を失っているエリカを、アルバートは不思議そうに見つめてきた。


「何をそんなに驚く?」

「どうして知って。だって私、一言も」

「いや、俺が知ったのは偶然だが」


 おまえが書いたものを読んだことがあるのだ、と彼は言った。


「男爵に連れられて王城にやって来たおまえが、庭園で一心不乱で書き物をしているのを見かけてな。気になって戻ってみたら紙の束を忘れていて、それを読ませてもらった。もう十年も前になるか」

「……っ!」

「あれは面白かったなあ——。勇者が野を越え、山を越え、仲間を増やしながら邪竜に立ち向かう。途中までしか書かれていないのがひどく残念だった」

「な、な、な——」


 口をぱくぱくと動かした。顔中に熱が集まってきて、カッと赤くなる。両手はスカートの生地を強く握りしめていた。


 それは確かに自分が書いたものだ。


 彼の言う通り十年前のことだけれど、今でもはっきりと覚えている。時間も忘れて、思いつくまま夢中で書きなぐっていたことも、人から褒めてもらっては照れ笑いをしていたことも。


 あのときのことをすべて思い出して、エリカは唇を強く結んだ。そして「なんのことでしょうか」としらばっくれた。


「どなたかと勘違いされているのでは?」

「何を急に」

「私にはそのような趣味はありませんし、身に覚えもありません。きっと殿下の記憶違いでしょう」

「だがあの紙束には、おまえの名前が書かれていたぞ?」

「——っ、っ!」


 エリカは両手をテーブルについた。バンバンと強く叩く。なぜ名前など書いておいたのだろう。自分の几帳面さを今ほど恨んだことはない。


 しばらく感情を乱していたエリカは、やがて大きく息を吐き、顔をあげた。力なく瞬きをする。アルバートはにこにこと笑みを浮かべていた。


「あれの続きがあれば、ぜひ読ませてほしいのだが」

「……私はもう書きませんので」


 つまらないものですから。そう呟いて視線を逸らした。






 物語が好きだった。


 物心ついたころから、新しい本が欲しいと両親にねだる日々を送っていた。新しいものを手に入れては読みふけり、心躍らせ、結末の続きを想像しては、それが永遠に読めないことに少しの寂しさを覚えた。


 最後の一文字の先は、どれだけ探しても見つからない。

 だから自分で物語るようになったのは、自然な流れだったと思う。


 最初の読者は両親だった。次にメイド。家庭教師。たまに飼っていた犬。思いつくまま次々に書いた。書いて書いて書いて、ずっと夢中だった。幸せだった。


 次第に友人たちにも読ませるようになった。何枚もの紙にまとめて回し読みをしてもらう。みんなが面白いと褒めてくれた。続きが気になるとか、主人公が好きだとか、いろいろな感想が返ってきて、エリカは感激した。


 エリカが書くと、みんな喜んでくれる。楽しんでくれる。ますます夢中になって、エリカは物語を綴り続けた。書いている時間が何よりも好きだった。


「何が面白いの、それ」


 そんなエリカの筆を止めたのは、たった一人の言葉だった。


「あたし嫌い」


 今になって思えば、彼女はエリカを傷つけるためだけに言ったのだろう。彼女はいつもエリカを邪険にしていて、輪の中心にいることが許せない人だったから。


 本当は面白いかつまらないかなんて、どうでもよくて——ただエリカが傷つけばいいと思っていただけだ。


 エリカは泣かなかった。

 泣かなかったけれど、胸の奥がズキンと痛んだ。


 分かっていてなお、受け止めきれなかった。その悪意はガラスの切っ先みたいに鋭くて、いとも簡単にエリカの心を切り裂いていった。それがどうしようもないほど痛くて、痛くて。とても耐えられないと思った。


 大人になった今でも、生傷はじくじくと膿んでいる。






 ずっと向こうまで続くような道を歩いていく。日傘からは柔らかい光が差しこんでいた。持ち手をくるりと回せば、光は水面みたいに波打った。


「着いてこられなくてもよかったのに」

「そう冷たいことを言ってくれるな」


 少し前を歩いているアルバートは、顔だけ振り返って「今日はいっそう暑いな」と笑った。白い肌はうっすらと赤みを帯びている。エリカは無言のまま頷いて、額ににじんでくる汗をぬぐった。


 別邸に所用があって、最初はエリカだけで出かけるつもりだった。けれどアルバートもついていくと言い出したので、一緒に歩いている。断る理由は特になかったし、彼が一度言い出したら聞かないことは身に染みて理解していた。


「そういえば三冊目を読み終わったぞ」

「ずいぶんと早いですね。まだ二日しか経っていないのに」

「お前の言う通り、どれも好みだった。上手く選んだものだな」

「喜んでいただけたようで何よりです」


 笑みを浮かべる。エリカが楽しんできた物語を褒められて悪い気はしない。「どれが良かったですか」と尋ねれば、彼は悩ましげに腕を組んでいた。とても真剣な顔で悩んでいたので、思わず笑ってしまった。


 彼は小石を蹴りながら歩く。角ばった石が不規則に転がっていく。


「やはり俺は、今でも冒険譚が好きらしい」


 彼がぽつりと呟いた。


「子どもだと笑うか?」

「……いいえ」


 私も好きですから、と返した。風になびいた髪を耳にかけながら、小さく笑う。


 鮮やかで心躍るような冒険譚が好きだった。


 ここではないどこかを旅をする人たち。勇敢に戦い、時には涙し、友情をはぐくんでいく。自分にはできない彼らの歩みに憧れた。他の何よりも眩しく見えた。


 アルバートはふいに立ち止まった。何もない、道の真ん中で。エリカも思わず足を止めて、覗きこむように彼を見ようとする。彼はこちらを振り返っていた。


「本当におまえは書かないのか?」


 日傘の向こうから声が降ってくる。エリカは薄く唇を開いた。何かを言いかけて、やめる。そして「しつこいですね」と言った。


「書きません」

「なぜ?」

「飽きてしまったので。それに、つまらないものですから」

「とてもそうは見えないが」

「では眼医者をお呼びしましょう」

「俺の視力はいいぞ? あの壁に詰まれたレンガも数えられる」

「本当にいいんですね……」


 いつまでたっても食い下がらないから、エリカは深いため息をついた。顔も態度もあからさまなのに、どうして伝わらないのだろう。日傘を握る手に力が入る。爪が白くなった。


「人に読まれて、批評されて、好き勝手に言われて——もう、うんざりです」


 静かに笑う。

 けれど本当は違う、と自嘲した。否定されるのが怖いだけだ。もう誰にも否定されたくない。自分が紡いで愛してきた物語を、これ以上。


「だから書きません」


 エリカはそれだけ言って歩き出した。ゆったりとした足取りで彼の隣を通り過ぎて、追い抜いていく。


 真夏の日差しは燦燦と降り注いでいた。服の下はじっとりと汗ばんでいる。彼は立ち止まったままで、エリカの名前を呼んだ。


「なぜ人に読ませる必要がある?」


 彼は不思議そうに——本当に不思議そうな声でそう問いかけた。


「おまえが書くことと、人の読ませることは、まったく別の話ではないのか?」


 目を見開いたまま硬直する。アルバートは続ける。


「おまえの物語は、おまえだけのものだ。好きなように書いて、好きなように読んで、もし望むのなら他人に分け与えればいいし、そうでないなら独り占めすればいい。どうするかは自分で選んでいい。違うか?」


 短い影が近づいてくる。彼は日傘の端をつまむと、わずかに持ち上げた。傘が後ろに傾いて彼と目が合った。嘘もごまかしも知らない、純粋な目だ。


「だがそうだな、あえて否定するとすれば——つまらない、は間違いだ」


 傘に隔てられていたはずの二人は見つめあう。まるで子どものいたずらだ。呆然としているエリカを見て、彼はにこりと笑った。


 そして彼は再び歩き始める。軽い足取りで遠ざかっていく背中を、エリカは立ち止まったまま見ていた。


「……そんなこと、なぜ殿下に分かるのですか」

「俺はおまえの読者だぞ? 今でも結末を待ちわびている」

「そこまで言っていただける価値があるとは、到底思えません。ありきたりで、面白みにかけた、子どもの妄想です」

「それがどうした?」


 上等ではないか。彼はそう言う。


「ありきたりで、面白みに欠けた、子どもの妄想で何が悪い? あんなに楽しそうな顔で書いていたのだから、それだけで充分だろう」


 目の前で光が瞬いた。チカチカ、明滅するみたいに。


 ああ、そうか、と呟いた。自分のために書いてもいいんだ。誰のためでなく、自分のためだけに。どうしてそんな簡単なことにすら、気が付かなかったのだろう。


「エリカ」


 道の向こうで彼が待っている。

 エリカはふらりと歩き出す。


 頭の中では今、止まっていた物語が動き始めていた。


 自分のためでいいと言われたけれど、もし今でも彼が望んでくれているのだとしたら、彼のために書きたいと思った。途切れてしまったあの冒険譚の続きを。






「そうは言ったもの――」


 エリカはこめかみを押さえながら、深いため息をついた。目の前には真っ白な紙が置かれている。だがペン先のインクは乾いてしまっていた。こんな調子で、かれこれ一時間が過ぎていた。


「面白いって何⁉」


 エリカは机の下で足をばたつかせる。まるで幼児だ。


「ぬるっとしている。なぜか、ぬるっと話が終わる……!」


 記憶を辿りに、昔書いていたストーリーを書き起こし、それに続くような物語を作ってみた。


 自分で物語を書いたのなんて何年ぶりだろう。最初はひどく不安だったけれど、ペンを片手におっかなびっくり書き始めてみれば、あっという間に文字で埋め尽くされてしまった。今日この瞬間をずっと待ち望んでいたかのように。


 三日かけて書き上げたそれを、エリカは満面の笑みで読み返した。ようやく形になった自分だけの物語。最初から最後まで読み返し、味わい、噛みしめ――そしてゆっくりと首を傾げていった。


 ――傷を負った一行は湖に辿りつく。湖に宿るという癒しの力を求めて。聖なる水を口にしたことで、深い傷もまたたくうちに癒えて、再び敵に挑む力を得た――。


 辻褄は合っているし、ストーリーラインは滞りなく進んでいる。登場人物たちが出会って、会話して、目的地にたどり着いて、敵を打ち倒す。そして迎えるハッピーエンド。


 一つの物語として、間違いなく成立しているはずだ。

 だというのに何だろう、この違和感は。


「……納得がいかない……」


 そういうわけで、いったん白紙に戻してみたはいいものの、次はペンがぴたりと止まってしまった。一文字も書けなくて、紙はいつまでも白いままだ。我ながら極端すぎる、と背中を丸める。


 エリカがうなり声を上げていると、ドアをノックする音が聞こえた。


「調子はどうだ?」


 開いたままになっていた扉を叩いたアルバートは、顔をのぞかせた。エリカは力なく顔をあげた。


「どう見えます?」

「うーん、最悪だな!」


 笑い飛ばした彼は「空気が悪い」と扉を開け放った。


 部屋の中を突っ切っていき、カーテンも全開にしてしまう。薄暗かった部屋に強烈な光が差しこんできて、エリカは両目を覆った。


「目……目がっ……!」

「これで健康が保たれるな」

「前が見えないのですが⁉」


 目元を押さえながらもだえ苦しむ。ややあって視力を取り戻したエリカは、「次から予告してください。永遠に視力を失いたくありませんので」と嘆願した。彼の親切心で失明するのはごめんだ。


 ペン先にこびりついているインクを布で拭いとった。


 アルバートは本棚の前に立っていた。本を五冊抱えている。背表紙だけが見えているが、どれもエリカが貸し出したものだ。


「すべて読まれたのですか? しばらく持っていてもよろしかったのに」

「そういうわけにもいかなくてな」


 彼は背を向けたまま、ぼんやりとした声で返事をした。本棚の空いたところに本を戻していく。そっと差しこんで、彼はぽつりと呟いた。


「俺の夏休みはあと三日で終わりらしい」


 エリカは手を止めた。視線を上げていく。


「え?」

「今朝、早馬が来た。同盟国から使者がやってくるらしく、宴席に顔を出すように言われてな。その後もしばらく公務が立て続けになるから、王都に戻らねばならん。というわけで俺の休みはここまでだ」

「そんな」


 思わず腰を浮かせていた。


「あと二十日は休みがあったはずなのに。急に話が変わるなんて」

「仕方がない。これも王の子の務めだ」


 彼は片手をひらりと振った。いつもと変わらない調子で笑っていた。最後の本を差しこんで、手についた埃を払う。


 エリカは半端に立ち上がったまま黙っていた。彼にとってこの休みがどれだけ貴重なものであるか、エリカにも薄々分かっていた。それをあっけなく取り上げられて、彼がどれほど残念に思ったかは想像に難くない。


 エリカが目を伏せたのを見て、アルバートは肩をすくめた。


「清々するとは言ってくれるなよ。傷つくからな」

「……まだ言っていません」

「それは言う予定のある人間の台詞だ」


 彼はまだやることが残っているのか、「また後で顔を見にくる」とだけ言って部屋を出て行ってしまった。いつもならソファでだらだらと書類仕事をしているのに、今日はやけにあっさりと。


 むしろエリカの方が釈然としなくて、むっとした顔で考え込んでいるくらいだった。


 立場がある、ということは分かる。彼がいなければ回らない仕事もあるだろう。彼は第二王子殿下で、エリカとは背負っているものがあまりにも違う。けれど一度与えられたものを取り上げられることほど、酷い仕打ちはない。


 あんまりだ。彼が責務を忘れて、自由でいられる時間があと三日しか残されていないなんて――あと三日?


「……だったらこれ、あと三日で書き終わらなくちゃいけないってこと……?」


 エリカは呆然とした顔で呟いた。どうやら気付いてはいけないことに気付いてしまったらしい。


 全身から血の気が引いていった。虚空を見つめながら沈黙する。そうだよ、とでも言うように柱時計からポーンと音が鳴り響いた。


 その日、エリカは締切という世にも恐ろしい概念を知った。






 紙をくしゃくしゃと丸めて投げ捨てる。二文字書いては三文字消す。いや、それでは後ろに下がっているだけでは、と真面目につっこむ自分がいたけれど、それどころではない。心の中で叫び声をあげながら威嚇し、理性を蹴散らす。


 冷静になったら負けだ。

 ここは戦場、エリカはペンという剣を握りしめる兵士の気分だった。


 確認してみたところ、エリカはこの物語を書き上げるまでに六日を費やした。対してアルバートが帰ってしまうまで、残り二日。つまるところ、すべて書きなおすなら、今までの三倍の速さで手と頭を動かさなければならない。


 エリカはそこまで計算して、深く考えることをやめた。


 今はただ己を信じ、奇跡を祈っていようと思った。ちなみにただの現実逃避である。


「エリカ、この後時間があれば――」


 いつものように顔を見せにきたアルバートは、若干引きつった笑みを浮かべながら、足を後ろに戻した。


「なさそうだな。邪魔をして悪かった。俺は失礼する」

「なぜ引いていらっしゃるのですか。私ならともかく、殿下に逃げられるのは心外です」

「悪魔召喚の儀式でもしているのかと……」

「なるほど、その手がありましたか」

「正気を失っていることは理解したぞ」


 なるほどじゃない、とたしなめられた。彼は床に落ちていた紙を拾い上げる。「目を通しても?」と訊ねられたので、エリカは頷いた。正直、細かいことはどうだってよかった。


 殴り書きの文字を見て、視線を右から左へと動かしていく。


「良いと思うがなあ、俺は」

「自分が納得できないのです」

「どのあたりが」

「……最初と、中盤と、最後……?」

「それはまた面倒な」


 彼は言いかけて、咳ばらいをした。


「困ったことだな、うん」

「誤魔化そうという気概を感じられて良いですね。加点させていただきます。あともう少しでランクアップですよ」

「ポイント制だったのか⁉」

「好感度など、得てしてそのようなものでは?」


 エリカは盛大なため息をつき、机に突っ伏した。本日何度目かも分からない唸り声をあげながら、髪をかき乱す。もはや男爵令嬢としての体裁を保つことを放棄した姿を見て、アルバートはそっと扉を閉めてくれた。


 彼はソファに深く腰を下ろすと、小脇に抱えていた書類をローテーブルに置いた。


 ちょっとした山を形成しているそれは、目を通してサインをするだけでも相当な労力がかかるだろう。どうやら仕事の追加があったようだ。


 ペンをくるくると回しているアルバートは、苦々しい顔でぼやいた。


「いつでもいいような書類ばかり、よくもまあこんなに届けてくれたものだな」


 最初の数枚は真面目な顔をして読んでいたけれど、だんだん紙をめくる手は止まり始めて、やがてペンを持ったまま背もたれに倒れこんだ。


 やってもやっても終わらない仕事に、うんざりしたらしい。


 部屋の中は静かだった。

 外で、夏の虫が鳴いていた。


 天井を見上げたまま、彼はぼんやりとしている。黒々としたインクが一滴ぽたりと落ちる。紙の端を汚したけれど、彼は一瞬見やっただけだ。


「殿下、ペン先が」


 思わず声をかけてしまった。だが彼は「ああ、そうだな」と呟いたきり、起き上がろうともしなかった。だからエリカはそれ以上何も言わなかった。今の彼もまた、第二王子としての体裁を保っていない。


 薄暗い部屋のなかで、窓の外から差しこむ光だけが眩しくて、熱を持っている。アルバートは誘われるみたいに右手を伸ばした。


「じきに夏が終わるな」

「……ええ」


 短く答えた。アルバートは顔を背ける。


「夏の終わりとは、こうも寂しいものだったか」


 自由は終わる。日常が戻ってくる。課せられた責務を果たさなければならない。それがこの世の摂理なのだろう。だがそれを粛々と受け入れられるほど、エリカは従順ではいられなかった。


 エリカは勢いよく立ち上がった。そして両手を力強くテーブルについた。バンッと音が響いて、アルバートは視線を向けてくる。


「まだ、夏は終わっていません」


 エリカは彼の前まで進みでた。そして真剣な顔で言った。


「遊びに行きましょう」


 冒険ならこの世界でもできる。いくらでも。

 長い沈黙が続き、ややあって、間抜けな返事があった。






 森を貫くような道を馬が疾走する。馬の手綱を握っているアルバートは「手を離すなよ!」と声を張り上げた。エリカはか細い悲鳴をあげながら、彼の背にしがみついていた。


「これ、振り落とされたら死にます……⁉」

「十中八九!」

「法律か何かで取り締まるべきでは」

「だったら何で移動しろというのだ、おまえは」


 馬は風を切りながらどんどん加速していく。足元に砂埃が舞う。景色が色だけ残して流れていく。


 アルバートは「安心しろ、落としたりしない」と言って、馬の腹を軽く蹴った。


「今、加速させましたよね⁉」

「…………さあ」

「嘘つくの下手ですか⁉」


 エリカは回している両腕を力ませた。王城では彼がエリカにしがみついていたのに、今では逆になっている。だが致し方がない。彼に命を握られている身である。


 びゅうびゅうと風が吹きつけて、前髪がめくれあがる。たっぷりと布が使われたスカートもひるがえる。靴がすっぽ抜けそうだ。


 エリカはうっすらと目を開けた。

 今まで感じたことのない疾走感に、変な笑いがこみあげてきた。


「……馬で駆けるとは、こういうことなのですね……」


 彼の背に額をくっつけて、ひとり言を呟く。彼は前を向いたままで訊きかえしてきた。


「何か言ったか⁉」

「いいえ、何も!」


 その声に負けないくらい、大きな声で返事をした。






 目の前に広がっている湖は、日の光を反射してキラキラと輝いた。いくつもの白い粒が揺れているように見えて、それがとても眩くて、エリカは目を細めた。


「綺麗なところですね、本当に」

「おまえにも見せたいと思っていた」


 アルバートは両手を広げて、振り返る。


「冒険というにふさわしい場所だろう」


 彼は子どもみたいに笑って、木陰に腰を下ろした。太い幹にもたれかかって目を閉じる。湖を吹き抜けるそよ風に、細い髪が揺れていた。


 森を抜けた先に広がっている湖に人の気配はない。水面が揺れる水の音と、と鳥のさえずりだけがしていた。穏やかな昼下がり。この世界に二人きりで取り残されてしまったみたいだ。


 鮮やかな色の蝶がひらめいて、エリカは手を伸ばしていた。


 蝶は誘われるように指先に止まる。かぎづめが引っかかると、ざらりとした感触がした。少し痛い。羽をよく見ようと覗きこめば、蝶は逃げだしてしまった。軽やかに飛び去って行く。


 エリカは湖畔に立ったまま、湖を眺めていた。


 降り注ぐ日の光の熱さも、目が眩むような明るさも、じわりと滲んでいく汗も、何も気にならなかった。これが夏だ。だから構わないのだ。


 鳥がはばたいて、湖に浮かぶ流木に止まった。

 黒真珠のような目が、じっとエリカを見つめていた。


「――あっ」


 エリカは小さく声をあげた。


 そうだ、敵に破れ、傷を負った一行は湖に辿りつく。湖に宿るという癒しの力を求めて。けれどそこにいたのは美しい姿をした精霊。傷ついた一行に、彼女はさらなる試練を与えた。聖剣を譲り渡せ、さすれば聖なる水を分け与える――。


 目を見開いて、右手でペンを紙を手繰り寄せようとした。けれどここにはない。あたりを見回すと、細い木の枝が落ちていた。エリカは拾い上げると、土に文字を刻んでいった。


 一心不乱に、思い浮かんだ端からすべて書きとめる。ひらめきは逃がさない。すべて捕まえてみせる。


 ドレスの裾が土で汚れていくのにも構わず、エリカは懸命に手を動かしていた。もう他の何も目に入らなかった。口角が上がっていた。


 ガリガリと土を削る音に、うたたねをしていたアルバートが薄く目を開く。声をかけようと口を開いたが、けれど閉じて、代わりに微笑みを浮かべた。


「――――」


 小さく呟いた言葉は、水の音にかき消される。片膝を立て、頬杖をつきながら眺める。


 エリカ・ハワードの目は宝石のようにきらきらと輝いていた。






 豪華絢爛な執務室にノックの音が響きわたった。


 侍従が恭しく頭を下げて、紅茶を運んでくる。薄いティーカップからは湯気が立ちのぼっていて、茶葉の芳醇な香りがただよってきた。いつの間にかずいぶん時間が過ぎていたようだ。


 アルバートは「そこに」とだけ言って、手元の紙束に視線を戻した。


 紐を通しただけの簡素なそれを、本と呼ぶことはできないだろう。たまに書き損じがあるし、謎の注釈と謝罪が書き込まれているし、興奮したのか途中から走り書きになっているし――けれどそれは確かに物語だった。


「やはり冒険譚とは素晴らしいものだな」


 子どものころから待ちわびていた結末は今、ここにある。アルバートは目を細めた。


 庭園の花々に囲まれ、茂みにうずくまるようにしてペンを走らせていた少女を思い出していた。彼女は瞬きも忘れて、ただひたすら、綴られていく文字だけを見つめていた。真剣で、夢中で、楽しそうで。


 彼女の描きだす物語と同じくらい、その姿に恋をしていた。

 



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