第二話 令和7年7月6日
7月6日、日曜日。
夕方の七夕祭りの会場は、提灯の灯りがゆらめき、幻想的な空気に包まれていた。
市民公園一帯が歩行者天国になり、通り沿いには色とりどりの屋台がずらりと並んでいる。
焼きそばの匂い、射的の歓声、遠くから聞こえるアナウンス。
浴衣姿の家族連れやカップルが行き交い、にぎやかな喧騒の中にも、どこか懐かしさが漂っていた。
尚は、祖母に頼まれた買い物袋を手に、そんな人混みの端を歩いていた。
人の波に押されるように、何となく、通りの奥へと足が向かっていく。
(……まあまあ混んでるな。……もう帰るか)
そう思った矢先。
人混みの中、すれ違った誰かの姿に、ふと視線が引き寄せられた。
(……あれ、今のって)
藍色の浴衣に、金魚の柄。
まとめた髪に、さりげなく揺れる小さな髪飾り。
そして、その横顔。
(白川……さん?)
制服かジャージ姿しか見たことのないクラスメイト——白川 沙良。
けれど今の彼女は、まるで別人のように見えた。
小さな光が、喧騒の中に淡く浮かび上がるような、綺麗な存在感だった。
尚は思わず足を止め、その背を目で追ってしまう。
彼女の隣には、同じく浴衣を着た友人・安西と小田がいた。
「ねえねえ、17時からのステージ、シークレットゲストが来るんだって!」
「えー誰!? めっちゃ気になるんだけど!」
「ね、聞くつもりなかったけど……ちょっと見ていこ!」
軽やかな声と笑い声を残しながら、3人で人波を縫うように足早に駆けていく。
浴衣の裾がふわりと揺れ、尚の視界から遠ざかっていった。
(……足、速いな)
白川 沙良。
俺の片思いの相手。
なんで好きになったのかって、たぶん——あの掃除当番のとき。
誰かがくしゃみして、教室の空気が一瞬だけ緩んだあの時。
沙良は、迷いもせずポケットからハンカチを差し出した。
笑わなかった。驚きもせず、ただ、必要だからって感じで。
それだけのことで、俺の中にあの子が残った。
優しくて、でもそれを表に出すわけじゃない。
気づかれないくらいさりげなく、人のことを見ている。
……そういうところが、ずっと好きだった。
この胸の内を、誰かに話したのは一度だけ。
ユウトとの深夜のチャット。
俺は照れ隠しに「咲って子がいてさ」なんて名前をぼかして話した。
本当は“沙良”なのに。
『お前、まじでその子のこと好きなんだな……』
そう返されたとき、何か見透かされた気がして、思わずモニターの電源を落としてしまった。
——あれは、半年前の冬の夜。
唯一、ユウトにだけは打ち明けた、密かな片想いの話だった。
その時だった。
ふいに、遠くから聞き覚えのあるメロディが届いてくる。
(……えっ)
微かに聴こえてくる、優しくて、少し切ないイントロ。
まるで時間が止まったように、尚の耳がその音を拾っていた。
(……Tetrabloom……?)
尚の胸がざわめいた。
——それは、尚だけがずっと好きだった、インディーズバンドの曲。
数年前に解散したはずの、小さなバンドの、とても大切な音楽。
人々のざわめきの奥、ステージの方向から確かにそれは流れていた。
体が、自然と動いていた。
(……まさか……)
買い物袋を握りしめたまま、人混みのなかを急ぎ足で進む。
旋律が、鼓膜の奥に直接触れてくる。
聞き間違いじゃない。違う誰かのカバーでもない。
あれは——彼の声だ。
そして見つけた。
簡易ステージの上、ひとりマイクを握る男の姿。
Tetrabloomの元ボーカルだった青年が、真っすぐに歌っていた。
(本物だ……歌い続けてたんだ……)
尚の目の端に映ったそこには、浴衣姿の白川さんたちの後ろ姿があった。
彼女たちも、そこに立ち止まり、ステージに見入っている。
祭りの喧騒の中で、その瞬間だけが、ゆっくりと、鮮やかに切り取られたようだった。
そして、二番のサビ。
「どうか、もう一度 誰かを信じて 笑えますように」
心に刻み込まれていた一節が、生の声で、まっすぐに届いた。
気づけば、尚の目から涙がすっとこぼれていた。あたたかくて、でもどうしようもなく切なくて。
やがて歌い終わったステージの上で、ボーカルがゆっくりと口を開いた。
深く一礼してマイクを握り直す。
「改めまして。……元、”EveLink”、ボーカルの一ノ瀬 奏です」
「……この曲は、大切な人を信じられなかった自分への、祈りみたいなものでした。
それでも、もう一度だけ——信じて、笑ってほしくて。そんな気持ちで、今も歌い続けています」
尚の胸に何かが深く刺さった。
この想いを、誰かと分かち合いたい。……いや、ユウトに伝えたい。
言葉にしなくても、きっとわかってもらえる気がした。
買い物袋を手に、走った。人混みを抜け、急いで帰路をたどる。
家に着くなりPCの電源を入れ、ゲームを起動する。ログイン画面が表示されるまでの数秒がもどかしい。
そして、ようやく画面に映ったフレンドリストの名前。
まだ、ユウトは来ていない。
——ぴろん。
通知が鳴った瞬間、尚の心臓が跳ねた。
《ユウト:オンライン》
(……来た!)
すぐさまメッセージを打つ。
《ナオ》:ちょっと聞いてくれよ!!
今日、地元の七夕祭り行ってきたんだけど、やばかった!
《ユウト》:お、おう。どうした?
《ナオ》:元EveLinkのボーカル、一ノ瀬 奏が出てたんだよ!
ステージで生歌、マジで聞けたんだよ!
《ユウト》:…… ちょっと待って。
それ、北斗町の七夕祭り?
《ナオ》:そうだけど……なんで知って……
《ユウト》:嘘だろ!? 俺も行ってた! 友達と一緒に!
《ナオ》:えええ!?
え、じゃあ、あのステージ、見てたの!?
《ユウト》:うん。「どうか、もう一度 誰かを信じて 笑えますように」って——
サビ、泣きそうになった。
《ユウト》:ナオにも聴かせたかったんだ。
あの瞬間、すぐに話したくなって……
だから、急いで帰ってきた。
《ナオ》:……お前も、あの場にいたのか……
《ユウト》:……てか、おれら、地元同じだったのかよ!?
《ナオ》:マジで?
え、これ……偶然っていうか、奇跡じゃね?
《ユウト》:だよな……!
もう二度と聴けないと思ってたバンドの生歌が聴けて、
しかもそれをナオも聴いてたとか——
すでに2つ奇跡起きてないか?
《ナオ》:やば、ほんとそれ。
7月7日、侮れんわ……!
チャットの画面には、次々と文字が流れていった。
EveLinkの話、あのライブの熱量、駅前の古びた看板や、こどもの頃、夏になると現れた風鈴売りの屋台の話。
昔から知っていた風景が、急にあたたかく思えた。不思議な夜だった。
《ユウト》:……まさか……ナオが、こんな近くにいたなんて。
《ナオ》:それこそ奇跡じゃん。3つのうち、もう2つ使っちゃったかもな。
話しても話しても尽きなくて、気づけば時計は0時を過ぎていた。
令和7年7月7日。
7が3つ並ぶ、特別な七夕の夜が始まっていた。
そのとき——画面に、ふいに新しいチャットが表示された。
《ユウト》:ナオ……。
ずっと、お前に伝えたいことがあって。
今日の放課後、会えないかな?
ドキリとした。
思いがけない言葉に、心が跳ねた。
《ナオ》:……うん。俺も、ユウトに会いたいよ。
《ユウト》:……ありがとう。
——ずっと隠してたことがあるんだ。
でも、もうちゃんと伝えたい。
ユウトの言葉が、胸に静かに響いた。
それがなんなのかは、まだわからない。
だけど、どこか覚悟のようなものを感じて——
尚はそっと、ディスプレイを見つめた。
(……待ってる。放課後、ちゃんと行くから)