第一話 令和7年7月5日
スマホをいじる指先に、じんわりと汗がにじむ。
日付が変わったばかりの、2025年7月5日。
窓の外はしんと静まり返っていて、家族はすでに寝静まっている。
でも、この夜ばかりは、スマホの通知が止まらなかった。
前日から「7月5日、4時18分に大災難が来る」という噂がSNSで加熱し、
LINEのグループチャットも不安とネタで大盛り上がり。
それに乗じて、ライバーたちも“今夜が山場”みたいなノリでライブを始めていた。
「今夜は朝まで語ろう!」とか、「死ぬ前に告白しとく配信」とか、
カウントダウンのノリでどこもかしこも騒がしい。
そんな空気にやや置いてけぼりを感じつつ、黒瀬 尚は、
いつものオンラインRPG『終焉のヴェルト』にログインした。
血と闇に覆われたダークファンタジーの世界。
剣戟の音、魔法の爆発、ゾンビの呻き声。
現実では味わえないほど濃密で、グロテスクで、美しい世界が、目の前に広がる。
尚のキャラ名は、そのまま《ナオ》。
ゲーム内では、明るくてノリのいい陽キャ系の男キャラとして通っている。
でも、リアルの尚はというと、そこまで華やかでも器用でもない。
ただの男子高校生。
目立ちはしないけど、同じ趣味の友達と放課後ゲーセンに寄ったり、ラーメン食べて帰ったり、まあまあ楽しく過ごしている。
自分のことを“陰キャ”とまでは思っていないけど、クラスの人気者たちとは住む世界が違うと、どこかでわかっている。
けれど、このゲームの中では、そんな現実は一度脇に置いていい。
自分をちょっとだけ“盛った”キャラとして、誰かと気軽に笑い合える。
それが、尚にとっては救いだった。
* * * * * *
——そして夜になった。
あれだけ騒がれていた“大災難の予言”だったが、7月5日もまもなく終わろうとしている。
SNSはもう別の話題で埋まりはじめていて、あの盛り上がりが嘘みたいだった。
尚は、部屋の灯りを落としてパソコンを立ち上げる。
そして、いつものように『終焉のヴェルト』の世界へ。
ログインしてすぐ、ギルドチャットにメッセージが届く。
《ユウト》:2025.7.5、何も起きなかったね
尚はクスッと笑って、キーボードを叩いた。
《ナオ》:外れたっていうより、7月いっぱいは、まだ注意しろって話らしいよ
《ユウト》:え、マジ?てっきり終わったイベントかとw
《ナオ》:昨日のLINE通知の方が災難だったわ
《ユウト》:スマホ爆発するかと思った
《ユウト》:朝まで生配信してた人、テンションやばかったね
《ナオ》:深夜テンション通り越してて笑ったわ
ユウトとは、ゲーム内のギルド〈Tetrabloom〉で出会った。
初めてギルド名を見たとき、尚は少しだけ心臓が跳ねた。
Tetrabloom——中学の頃、たまたま見つけたインディーズバンドの曲名。
誰に話しても通じない、マイナーで、でも尚にとっては大事な一曲だった。
両親の不倫の末に離婚が決まり、どちらにもつきたくなかったあの頃。
家でも学校でもうまく笑えなくて、イヤホンを耳に押し込んで、ただ音に逃げていた。
とくに好きだったのは、二番のサビの一節。「どうか、もう一度 誰かを信じて 笑えますように」
願いごとみたいなその言葉が、なぜか心に残って、離れなかった。
それをギルド名にしている人がいるなんて、まさか偶然? と思ったけれど、
その“センス”に、妙に惹かれたのを覚えている。
《ナオ》:ギルド名って、もしかしてEveLinkのTetrabloomから?
《ユウト》:……お、気づいた? まさか知ってる人いるとは。
《ナオ》:めっちゃ聴いてた。特に、あの2番のサビが染みるんだよなあ。
《ユウト》:「どうか、もう一度 誰かを信じて 笑えますように」——でしょ?
《ナオ》:……うん、それ。
——Tetrabloom
解散したインディーズバンドEveLinkの、あの曲名から取られた名前。
まさかこんなところであの曲が好きな人に会えるとは……
なんだか、それだけで。
この人となら、もっと一緒に冒険してみたいと思った。
以来、尚とユウトは、自然とクエストで組むことが増えていった。
ボイスチャットはしないが、テキストのやり取りはどこまでも気楽で、温かい。
推しの話も、片想い中のあの子の話も。
ぜんぶ、《ユウト》には話せる。
気が合うだけ……のはずなんだけど。
……なんか、特別なんだよな。あいつ。
《ナオ》:そういや、もうすぐだな。令和7年7月7日。
《ユウト》:うん。30年ぶりの777の日だってね。
《ナオ》:なんか縁起いいよな。
《ユウト》:……あ、そうだ。
オカルト界隈で聞いた話なんだけどさ。
7が3つ並ぶ日は、「3つの奇跡が起こる」んだって。
《ナオ》:マジかよ。なんかワクワクするじゃん、それ。
《ユウト》:まあ、オカルトだけどね。信じるか信じないかは——ってやつ。
《ナオ》:七夕か——。願い事、書いた?
《ユウト》:迷い中。ゲーム内のイベントで短冊とか、リアルすぎて逆に恥ずい。
《ナオ》:たまには、そういうのもアリじゃない?
ユウトは、ヒール役が上手い。
戦闘では冷静で、判断が早く、無駄口は少ないけれど、チャットでは時々、冗談も言う。
《ナオ》:じゃ、今日も行くか。例の堕騎士連戦
《ユウト》:了解。ヒール遅れたらごめんね
《ナオ》:そこは信頼してるんで。パンツ事件さえなければ
《ユウト》:やめてw それ一生言うつもり!?
“パンツ事件”——それは、数ヶ月前にユウト本人から聞いた話だった。
以前ボイチャを使っていた頃、母親に乱入され「チェックのパンツ、穴あいてたから捨てといたよ〜! あれ、まだ履いてたの!?」と大声で叫ばれたらしい。
その音声がVC越しにギルド全体に筒抜けになり、以降、ユウトは一切ボイスチャットを使わなくなったそうだ。
尚は最初こそ驚いたけれど、今ではその過去ごと、“ユウトらしいな”と思っている。
今日も、どこかの国が滅び、堕騎士が血を吐き、モンスターが爆発四散するグロテスクな戦場で。
尚は画面の向こうにいる“親友”と、笑いながら剣を振るった。