生徒に告白の練習を頼まれてOKしたけど、私の心は練習じゃ済まない
日曜日の午後。
私は職員室で、黙々とパソコンに向かっていた。
国語科担当・高梨紬、二十八歳。今は大学入試向けの小論文対策プリントを作成しているところだ。四月から担当してきた三年生も、いよいよ卒業が近づいている。
自分のクラスの生徒たちを思い浮かべながら、設問の内容を詰めていく。小さく息をつき、ファイルを上書き保存すると、カーテンの隙間から射し込む日の光が少し眩しかった。
休日の学校は、平日の喧騒が嘘のように静かだ。廊下に誰もいないし、職員室にも私を含めて数人ほど。みんな黙々と自分の作業に没頭していて、人の声はほとんど聞こえてこない。
そんな空気の中、私はふとスマートフォンに目をやった。メッセージの通知が一件。画面を開くと、差出人は私の担任クラスの男子生徒だった。
『先生、ちょっと相談したいことがあるんですが……今、お時間ありますか?』
一ノ瀬陽翔、十七歳。私が担任をしている3年A組の男子生徒だ。
夏までは“みんなを引っ張る明るいリーダータイプ”という印象だったが、秋以降、進路をしっかり考え始めたあたりから、彼はさらに大人びた雰囲気を漂わせるようになっていた。成績もよく、部活でも中心的存在。女子生徒からの人気も高い。
高校生にしてはかなりしっかりしている子だけれど、そんな彼が何を相談したいんだろう。もしかして進路のこと? それとも――ちょっと思い当たる節がなかった。
私は机上のプリントをざっとまとめ、スマホを手に取る。
「今、職員室にいるけどどうしたの?」
そう短く返信すると、すぐに既読がついてメッセージが返ってきた。
『できたら直接お話したいです。放課後にまた声かけてもいいですか?』
「直接……」と、少し考える。
卒業前の三年生は学校に来る日も限られている。進路が一段落ついた子は登校日が減っているし、部活動も引退済みだ。
けれど、一ノ瀬の場合はまだ受験が残っていたはず。明日以降も学校には来るだろう。なら、明日の放課後に話を聞けばいい。
そう思いながら、「わかった。明日の放課後に声をかけてね」と送り返す。
カタカタ……と静かな職員室にキーボードの音が響く。ふと窓の外を見れば、冬の空がどこまでも澄んでいて、校庭の木々が弱々しく揺れていた。
――何を相談するんだろう? ただの進路相談なら、わざわざこんな連絡をしてこない気もする。
少し気になりながらも、私はまたパソコンの画面に意識を戻した。
作業を終え、帰宅の途についたのは夕方近く。冬特有の冷たい風が頬をかすめる。
スーツのジャケット越しにも寒さを感じながら、自宅のマンションの鍵を開けた。
玄関を開けると、暗い部屋にわずかな外の光が射し込むだけ。灯りをつけても、人気のない空間に変わりはない。
都市部から少し離れた住宅街にある一DKのアパートで、一人暮らしを始めて数年が経つ。最初のころは“自由だ”と思って楽しく過ごしていたが、今は慣れすぎて、むしろこの静けさが当たり前になってしまった。
私は部屋着に着替え、慣れた手つきで電気ケトルのスイッチを入れる。だんだんと湯が沸騰する音が大きくなる中、テレビをつけても、なんとなくつまらないバラエティ番組が流れているだけ。
カップに紅茶のティーバッグを入れ、お湯を注ぐ。しんとした夜の部屋に、自分の吐く息だけがこもっている感じがした。
生徒たちの前ではいつも笑顔でいられるのに、こうして家に帰ると、私の周りにあるのは“静けさ”だけ――。
もともと賑やかな性格でもないし、だからといって特別寂しがり屋というわけでもないけれど……ときどき、この静寂がやけに重く感じられる瞬間がある。
明日は一ノ瀬からどんな話を聞くことになるのだろう。受験の話なら、きっと悩みの種はいくつもあるだろう。それとももっと違う種類の悩みかもしれない。
紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私は窓の向こうに広がる夜空を見つめ、少しだけ期待にも似た気持ちを抱いていた。
⸻
翌日は月曜日。
午前中から受験組向けの補習をこなし、昼休みには職員室に戻って簡単な打ち合わせを終える。
ホームルームが終了し、生徒たちが下校しはじめる頃。私はふと思い出して、教室を見渡した。
「あれ……一ノ瀬、先に帰っちゃったかな」
彼の席はすでにカバンもなく、姿もない。まあ、昨日のメッセージ通りなら、こちらへ声をかけに来るはずだが……。
少し肩をすくめて職員室に戻ろうとしたとき、私のスマホが小さく震えた。
画面を見ると、やはり一ノ瀬からだ。
『先生、今どちらですか? 屋上のところにいるんですけど、少しお時間いいですか』
屋上? 私は思わず首をかしげる。
本校の屋上は、実は生徒たちにも人気のスポットだ。私たち教師もときどき息抜きに使っている。
ただ、受験期も終盤のこの時期に、わざわざ屋上にいるなんて……。気分転換だろうか。
私は職員室に戻るのをやめ、そのまま階段を上がることにした。
屋上への扉を開けると、冷たい風が一気に吹き抜ける。冬の終わりとはいえ、まだまだ空気は冷たい。コンクリートの床を踏みしめる足音が、自分でもはっきり聞こえるくらい静かだ。
一ノ瀬は、フェンスのそばに立って空を見上げていた。なぜか背筋がピンとしていて、少し緊張しているようにも見える。
「待たせたかな? どうしたの?」
私が声をかけると、一ノ瀬は振り返って微笑んだ。
「いえ、今来たところです。ありがとうございます、時間作ってくださって」
「ううん、いいのよ。……で、何か相談って?」
一ノ瀬は一瞬だけ視線を彷徨わせ、そして静かに口を開く。
「実は……好きな人ができたんです」
「へぇ……そうなんだ」
私は生徒に恋愛相談をされるのは初めてではない。特に受験シーズンが近いと「告白はいつにしよう」「勉強と恋愛の両立が難しい」など、いろんな声を聞くものだ。
だが一ノ瀬は、学内でもかなりモテるタイプ。ついに自分から動きだしたか、と少し微笑ましく感じる。
「同じクラス?」
「同じクラス……では、ないかもしれません」
「へぇ。後輩? それとも……別のクラスの子?」
私は新たな恋バナを想像して、ほほえましい気分になった。
けれど、一ノ瀬はなんとも言えない表情のまま、曖昧に首を振るだけ。
「そっか。まあ、あんまり詳しいことは聞かないけどね。学校の子なら相談に乗りやすいかもしれないし……どうしたいの?」
「……相手に、自分の気持ちを知ってほしいです。でも、すごく迷ってて……」
一ノ瀬の声は真剣で、その瞳はなんだか揺れているように見えた。
「迷ってる? なんで?」
私が問い返すと、一ノ瀬は息をついて、苦笑いのように口元をゆるめる。
「……言ったら、嫌われるかもしれない。それどころか、相手を困らせるかもしれないんです」
「困らせる?」
一ノ瀬が好きになった相手とは、いったいどんな子なのだろう。恋人がいるとか、あるいは教師から見ても厳しい家庭の子なのか。想像が膨らむ。
私は、できるだけ柔らかい声を出すように気をつけた。
「……でも、誰かを好きになるって、悪いことじゃないでしょ? 悩む気持ちはわかるけど、後悔しないためにも、ちゃんと気持ちは伝えたほうがいいんじゃないかな」
一ノ瀬は、私の顔をじっと見つめてきた。真っ直ぐな視線が突き刺さるようで、なぜか胸がドキリとする。
「伝えて……いいんでしょうか」
「……もちろん。伝えたい相手がいるなら、ね」
私がそう言うと、一ノ瀬は安心したように表情を和らげた。
「……ありがとうございます、先生。やっぱり先生に相談してよかった」
その笑顔は、とても素直なものに見えて、私もつられるように微笑んだ。
――だけど。
なぜだろう、胸のどこかが少しザワついている。
⸻
その翌日から、一ノ瀬は放課後になると“恋愛相談”をしにやってきた。
進路相談かと思いきや、彼の意識はまるでそこには向いていないようで、むしろ「どんなシチュエーションで告白すればいいか」「相手が自分をどう思っているか」といった話ばかり。
教師という立場ながら、私は正直、「えっ、そんなに真剣に聞いていいのか?」という気持ちを抱きつつも、担当教科は国語。言葉の使い方には多少アドバイスができる。
「告白するとき、どんな言葉が響くかな……“ずっと好きでした”とか“あなたのすべてが好き”とか、ありがちな感じは避けたいんですよね」
「そんなに、こだわるんだ」
屋上のベンチに腰掛け、一ノ瀬がメモ帳らしきものを開いているのを横目に、私は少し笑ってしまう。
「だって、真剣なんです。今まであんまり本気で人を好きになるってことがなかったので……初めてなんですよ、こんなに人のことを大事に思うの」
「そ、そっか……」
無邪気な笑顔に、少し動揺する。いつも見慣れた生徒の顔なのに、改めてこうして二人きりで会話していると、彼の内面に触れてしまうようで、くすぐったい気持ちになる。
私はできるだけ、教師としての距離感を保とうと努力する。
「じゃあ、例えば……『あなたがいるだけで、毎日が楽しい』とか。ストレートだけど、気持ちはしっかり伝わるんじゃないかしら」
「『あなたがいるだけで、毎日が楽しい』……ふむふむ」
一ノ瀬はメモ帳にさらさらと書き込んでいる。
……彼は本当に本気だ。改めてそう思うと、胸が少しぎゅっとなる。
「先生、ありがとうございました。今日はこれくらいで……あ、もう一つだけ、アドバイスいいですか?」
「何?」
「“告白のときの場所”って、どこが一番いいと思いますか? やっぱり静かなところがいいでしょうか? それとも人通りのあるところ?」
「うーん、私は静かなところが好きかな……」
そう言った瞬間、ふと視線がフェンス越しの空に行く。この屋上も“静かなところ”の代表格だ。
一ノ瀬は私の動きを見逃さずに、「屋上……ですか」と呟いた。
まさか、ここで告白するつもり? いや、相手の子が誰かは私は知らないけれど……ああ、でも本当にその子がうらやましい。こんなにもまっすぐに想われて。
そう思うと、胸が少し痛んだ。
「でも、本当に大事に想っている子なら、その子にとって安心できる場所がいいんじゃないかな。人前だと困っちゃうかもしれないし、逆に思い出のある場所なら喜ばれるかもしれないし。相手の性格や好みによるんじゃない?」
「……そうですね」
一ノ瀬は私の言葉を大切そうに受け止めている様子だった。
その日の夜。家に帰っても、ふと一ノ瀬の表情を思い出してしまう。
進路のことや受験のことよりも“告白”を重視するなんて、やっぱり若いわ……なんて笑いながら、私自身の胸が苦しくなる。
教師としての立場を考えるなら、余計な干渉は避けるべきなのかもしれない。でも彼が私を信頼して、わざわざ心情を打ち明けてくれるのが嬉しくて、つい本気になって相談に乗ってしまう。
――誰かにこんなふうに想われたら、どんなに幸せだろう。
そんな他愛ない妄想が頭をよぎるたび、自分を戒めるように強く目をつむるのだった。
⸻
ある放課後、いつものように屋上で二人きり。
一ノ瀬は最近、告白の“リハーサル”を私に頼むようになった。正直、教師としては困るのだが、断りきれない自分もいる。
「先生、ちょっとだけいいですか? 告白の練習をしたいんです」
「また? ……まあ、いいけど」
本当は「ダメ」と言うべきなのかもしれない。でも、彼の真剣な瞳を見ると、どうしても拒めなくて。
私はベンチに座り、一ノ瀬は目の前に立つ。まるで演劇の練習みたいだ。
「それじゃあ、ちょっと恥ずかしいんで目を閉じてください」
「目を……閉じる?」
「はい。お願いします」
私は戸惑いながらも、ぎこちなく目を閉じた。顔が熱くなる。今の私の顔、どうなってるんだろう?
一ノ瀬が小さく息を吸う気配がした。風が微かに髪を揺らす。
そして――
「……好きです」
短い言葉。それだけなのに、やけに心臓が高鳴る。
目を閉じていると、余計に聴覚が敏感になる。低めで柔らかな声が耳から直接胸に届くようで、思わず息が詰まった。
「ずっとあなたのことが気になって、いつの間にか……。あなたがそばにいるだけで、毎日が楽しくなるんです。どうか、僕の気持ちを受け取ってください」
――私に言っているわけじゃない。あくまで“告白の練習”のはずなのに。
それでも、自分に向けられた言葉のように感じてしまう。頭がクラクラする。
私は勢いで目を開いてしまった。そこには、真剣な表情の一ノ瀬がいて、私を見つめている。
「ごめんなさい、すぐ目を開けて……」
「いえ、いいんです。ありがとうございます、協力してもらって」
一ノ瀬は少し照れくさそうに微笑む。もう、私の胸はバクバクだ。
「こんな感じで伝えたいんです。どう思いますか?」
「ど、どう……すごく、素直でいいと思う……」
精一杯、落ち着いた声を出そうとするが、上ずっていないか心配だ。
「じゃあ、明日またひとつ演出を考えてみようかな。先生、いろいろありがとう」
今度はさわやかな笑顔でお礼を言われ、私の視線は宙を彷徨う。
――こんな告白を、今まで私はされただろうか。
学生時代にお付き合いした人はいたけれど、“ずっと好きでした”なんて真っ直ぐに言われた記憶はあまりない。どこか曖昧に始まって、曖昧に終わった恋が多かった気がする。
それを思い出すと、なんとも言えない切なさに胸が痛む。
家に帰り、相変わらず静かな部屋でシャワーを浴びたあと、私は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出して口をつける。
冷たい液体が喉を通っていく。しかし頭の中は、まだ彼の言葉の熱でぼんやりしていた。
――どうして私、こんなにドキドキしてるんだろう。先生なのに。
しかも、彼の好きな相手は“別の女の子”なのだ。
分かっているのに、まるで自分に向けられた言葉のように感じてしまう。ほんの少しの優しさで、私はこんなにも動揺してしまうんだ。
自嘲の笑みがこぼれる。けれど、止められない。誰かに強く想われる感覚が、こんなにも心を揺さぶるなんて――。
⸻
幾度かの“練習告白”を経て、一ノ瀬は告白の日取りを決めたらしい。
私には「明日、ちゃんと伝えようと思います」とだけ伝えてきた。相手が誰なのか、まだ聞けていない。それは聞いちゃいけない気がした。
放課後、彼は「先生、今日はありがとうございました」とだけ言い残し、足早に屋上から教室へ戻っていく。
私はベンチに一人残されたまま、冷たい風を受けていた。
「本番、か……」
胸が締めつけられるように痛い。私が彼を応援してしまっているのは事実だ。でも、それが本当の気持ちかと問われれば、分からない。
一ノ瀬が誰かを好きになる。その応援をする立場。確かにそれが“教師”として正しいはずだ。
だけど、もしも私が“ただの女性”だったら、なんて思ってしまう。
家に帰り、静かな部屋で夕飯も食べずにベッドに倒れ込む。頭が痛い。
スマホを置いて、天井を見つめる。もし一ノ瀬が告白して、相手がOKして、明日から両想いになるのだとしたら……。それはそれで喜ばしいことのはずなのに、なぜか呼吸が苦しくなる。
「……最低だな、私」
生徒の幸せを心から喜べない自分が情けない。
枕に顔をうずめて、声を押し殺すように泣いた。
私はこれまで、恋愛にそこまで大きな期待をしてこなかった。だけど、一ノ瀬を見ていると、まるで自分の青春を横から眺めているようで、取り残された気分になる。
結局、簡単なインスタント食品で夜食を済ませ、シャワーを浴びた後も眠れないまま夜が更けていった。時計の針が午前一時を回る頃、ようやく意識が遠のいていく……。
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告白当日――と一ノ瀬は言っていたが、特別に校内でそのようなイベントがあるわけでもない。いつものように一日が過ぎていくように見えた。
ホームルームが終わり、私は教室で生徒たちを見送る。いくつかの班は卒業式の準備や大学進学の手続きなどで慌ただしくしているけれど、一ノ瀬の姿は見当たらない。
「……先に屋上に行ってるのかしら」
なんとなく気になって、私は一人で階段を上がる。
屋上の扉を開けると、そこに一ノ瀬がいた。フェンスのところで校庭を眺めている。
昨日もここで彼は言っていた。「明日が本番です」と。
私は少し緊張しながら声をかける。
「……一ノ瀬? どうしたの? もう告白、終わった?」
一ノ瀬は振り返り、静かに微笑んだ。
「先生。……来てくれたんですね」
「え、ええ……まあ、気になって。どう? うまくいった?」
私がそう尋ねると、一ノ瀬は小さく首を振り、「まだ、なんです」と言う。
「実は……もう一度だけ、話がしたくて、呼び出しました。いいですか?」
「うん……話、聞くよ」
私は屋上のベンチに向かい、一ノ瀬も少し離れたところに立つ。夕方の空は少し赤みがかっていて、風が強くなってきた。
「先生、今まで相談に乗ってくれて、ありがとうございました。おかげで告白の言葉も、だいぶまとまった気がします」
「そっか、よかった。じゃあ……最後に背中を押そうか? 告白、がんばってね」
そう言いながらも、自分の声が少し震えているのを感じる。
一ノ瀬は深呼吸をしてから、ゆっくりとした調子で口を開いた。
「先生。――相談してた“好きな人”って、先生だったんです」
瞬間、全身の血が逆流したような感覚に襲われる。
「……えっ」
思わず言葉が出ない。
一ノ瀬は、私の表情を伺うようにして静かに続ける。
「最初は、ただ『優しい先生だな』と思ってただけでした。でも、毎日話すうちに、気づいたら先生のことばっかり考えてて……。胸が苦しくなるくらい好きになってしまいました」
まさか。いや、まさか。私は呆然とする。
ずっと別の女子生徒と勝手に思い込んでいた。けれど、そういえば彼はその“相手”の名前を一度も口にしていなかった。私が勝手に勘違いしていただけ。
「……ごめんなさい、一ノ瀬。それは……」
私は言葉を探す。どうやって返事をすればいいのだろう?
教師と生徒……その一線は明らかに越えてはいけないものだ。まして、担任と教え子。それを彼も分かっているはず。
思考が止まりそうになる中、一ノ瀬は穏やかな表情で微笑む。
「先生がいつも僕の話を真剣に聞いてくれて、そういうときの優しい笑顔が好きなんです。おうちでは寂しそうな顔をしてるんじゃないかなって、勝手に想像して……守ってあげたいと思うほど、大切なんです」
「……そんな、私のこと、なんで……」
「先生って、意外と自分の気持ちを隠しちゃうでしょう? でも、たまに見えるんです、寂しそうにしているところが。……放っておけなくなりました」
自分の胸の奥にしまっていた“孤独”を、こんなにも的確に見抜かれていたなんて。私は恥ずかしくて、でも嬉しいような、苦しいような、複雑な感情で息が詰まる。
「一ノ瀬……あなた、卒業はもうすぐじゃない……」
私はどうにか言葉を絞り出した。
「あと少しで、あなたは卒業して、私の生徒じゃなくなる。それでも、未成年には変わりないわよね」
言葉が少しきつくなったかもしれない。でも、これだけはハッキリしなきゃいけない。
一ノ瀬は少しだけ笑顔を曇らせた。しかし、すぐにまたまっすぐな瞳を向けてくる。
「そう、ですね。……でも、僕は諦められません。先生が教師を辞める必要なんてない。ただ、僕が“先生じゃなく”なるだけでいいんです。そうしたら、ちゃんと恋人同士になれるでしょう?」
「……え?」
「僕がもう少し大人になって、先生にふさわしい存在になったら、迎えに来ます。だから――そのときまで、待っててくださいとは言いません。先生の人生は先生のものだから」
彼が微笑む。
「でも……もし、僕がもう一度出会いに来たとき、先生の隣がまだ空いてたら……そのときは、僕と一緒に歩いてもらえませんか?」
なんてまっすぐで、なんて無茶なお願いだろう。
私はどう返事をしたらいいのか分からない。いや、答えはもう分かっている。ここで「いいわ」と言えるわけがない。
教師と生徒という立場を考えれば、今は絶対に受け入れてはいけない。
だから、私は涙をこらえながらも、きっぱりと言った。
「……応えられない。ごめんなさい、一ノ瀬。あなたの気持ちは嬉しいけど、今は受け止めることはできないの」
一ノ瀬は小さく頷き、「そうですよね」と呟く。その瞳には、一瞬だけ悔しそうな光が宿っていた。
「……卒業までもう少しですが、最後まで担任の先生としてよろしくお願いします」
そう言ったあと、彼は少し照れたように微笑んだ。
「じゃあ――僕が生徒じゃなくなったら、また来ますね」
その言葉を残し、一ノ瀬は夕闇の階段へと消えていく。
私はただ立ち尽くす。屋上に吹きつける冷たい風が、涙で熱くなった頬を冷ましてくれた。
「……なんで、こんなに苦しいのよ……」
声に出してみても、答えは返ってこない。
一ノ瀬の告白に、私はどれほど救われそうになったのか。
教師と生徒。叶うわけがないと分かっていても、その想いはまっすぐに胸を打っていた――。
⸻
あっという間に卒業式の日を迎えた。
三年間の集大成。私は壇上で担任としてクラスの名前を呼び、卒業証書を受け取る生徒たちを見守る。
一ノ瀬が舞台袖から堂々と歩み寄り、証書を受け取る姿は、やっぱりなんだか凛々しくて、胸を打たれた。彼も私をちらりと見て、少し微笑んだように見えた。
式が終わり、最後のホームルーム。
もう卒業式も済んだ後だし、和やかな雰囲気の中で生徒たちと写真を撮ったり、思い出話をしたりして過ごす。
一ノ瀬は普段どおりクラスメイトと笑い合っていたが、私とはあまり話そうとしなかった。先生と生徒の最後の時間を、むしろ距離をとるように過ごしているようにも見えた。
やがて、みんなが下校を始める。
「先生、本当にお世話になりました!」
「大学合格したら報告しに来るね!」
そんな言葉を受けながら、私はにこやかに送り出す。カメラのシャッター音が鳴り、色とりどりの思い出が膨らんでいくようだ。
一ノ瀬はクラスメイトと一緒にぞろぞろと教室を出ていく。その姿を、私はただ見送るしかなかった。
クラスメイト数人と階段を降りていく彼の背中。
――もう、私の生徒じゃなくなる。
でも同時に、ひとつ事実がある。私は“彼を好きかもしれない”という気持ちを、心のどこかで抱えている。もちろん、認めたくはなかった。でも、もしかしたら――。
「……ばかみたい」
そう呟いて、教室の掃除を始めた。
クラスの生徒たちがいなくなった教室は、やけに広く、そして静かで。もうここに一ノ瀬はいないんだ、と思うと、胸がきゅっと締め付けられる。
式典の後片付けや職員会議を終えて、夕方近く。ふと、私は屋上へ向かった。
いつのまにか風は少し暖かくなり、春の気配が近づいている気がした。
――もう会えない。そう思うと、言いようのない切なさが込み上げる。
フェンスに寄りかかり、街の夕景を眺めながら、思わず呟いた。
「一ノ瀬……どうして私なんか、好きになったのよ」
答えのない問いかけ。
それでも、私はあの日の告白が嘘じゃなかったと知っている。あの瞬間、私自身の心にも確かに灯がともった。
教師と生徒でなくなれば――。
でも、そのときまで私が一人でいるとは限らない。いつか誰かを好きになるかもしれないし、そもそも彼が本当に戻ってきてくれる保証なんてない。
だからこそ、この想いは“あの日”に置いていくしかない。
「ありがとう。一ノ瀬……」
声にならない声で、私はそっと口を動かす。
屋上を吹き抜ける風が、私の髪を撫でていった。
⸻
季節は巡り、あれから一年。
私は相変わらず国語教師として毎日を送っていた。新入生を迎えるたびに思い出すことがある。“去年、卒業した子たちは今、どうしてるんだろう”と。
一ノ瀬のことを完全に忘れたわけじゃない。でも、それが私の中で過去の思い出になりつつあるのも事実だ。
――あの時の自分は、少しだけ迷子だったのかもしれない。
誰にも言えずに抱えていた寂しさ。それを見抜いてくれたのが一ノ瀬だった。だからこそ心が動いたのだと思う。
けれど、もう前を向かなきゃ。そう自分に言い聞かせて日々を過ごしている。
そんなある日の夕方、職員室に戻ると、見慣れない若い男性が立っていた。
背筋がすらりと伸びていて、黒いスーツもどこか似合っている。
私が「新任の先生、かな?」と思った瞬間、彼がこちらを振り返った。
「今日からお世話になります。二階堂晴人です。どうぞよろしくお願いします」
柔らかく穏やかな声。どこかで聞いたような響きに、胸がざわつく。
“はると”――陽翔という名を思い出してしまう。その字は違うかもしれないけれど、その響きがあまりにも重なって、私は思わず言葉を失った。
でも、ここにいるのは確かに“二階堂晴人”。肩書は新任の国語教員。年齢は聞いていないが、おそらく二十二、三歳だろうか。教員免許を取って、今年赴任してきたのかもしれない。
――そんなはずないよね。
私は心の中で苦笑する。たった一年で、彼が本当に先生になるわけがない。
だけど、彼は私に向かって一歩近づき、柔らかく微笑んだ。
「先生。……久しぶりです」
その言葉に、私の心臓は一気に跳ね上がる。
「え……あ、あの、えっと……」
周囲の視線を感じながら、私は声にならない声を絞り出す。
彼はまるで懐かしい友人に会ったかのような笑顔で言う。
「覚えてますか? ――“先生じゃなくなったら、また来ます”って」
一瞬、時間が止まった気がした。いや、そんなはずはない。けれど、確かに「また来ます」とあの日言われたことを思い出す。
名前も立場も違う彼――二階堂晴人。だけど、声の質や柔らかな笑顔、雰囲気はあの一ノ瀬陽翔と重なり、私の鼓動がうるさい。
「一ノ瀬……なの?」と問いたい気持ちと、「違う誰かだ」と言い聞かせたい気持ちがごちゃ混ぜになる。
私が固まっていると、彼はやや悪戯っぽい笑みを浮かべ、口を開く。
「これから一緒に働くことになるので、ぜひよろしくお願いします、先生」
彼はそう言うと、名札を胸につけ直した。そこに書かれているのは“二階堂”という苗字と、“晴人”という下の名前。
だけど、私は目が離せない。その仕草、声、眼差し……すべてがやけに懐かしくて。
結局そのとき、何も言い返すことができなかった。周囲にほかの教師もいたし、私の頭は真っ白だった。
職員室の窓が風で揺れ、春の空気がふわりと入り込む。
――先生じゃなくなったら、また来ます。
あの日、卒業間際の夕暮れの屋上で、一ノ瀬が確かに言った言葉。
目の前の“二階堂晴人”は一ノ瀬陽翔なのか、それともまったくの別人なのか。
どちらにせよ、私はまた心が揺さぶられている。
そして、少しだけ、嬉しい。
教師としての理性もある。でも、それと同時に、一人の女性として、再び恋をするかもしれないという予感――。
どちらが正解かなんて分からない。けれど、この胸の高鳴りだけは、誤魔化しようがない。
⸻
放課後、廊下の窓から見下ろすグラウンドでは、新入生たちが部活動の見学をしている。
今年も新しい一年が始まる。生徒たちは青春を謳歌し、私たち教師はそれを支える立場。それは変わらない――はず。
けれど、私の中では、何かが変わりつつある。
職員室に戻ると、二階堂先生が朗らかな表情で他の先生方と話していた。その笑い声がふと止み、彼は私に目を合わせ、微笑む。
また鼓動が早くなる。
「……なんで、こんなにドキドキしてるの」
自問しても答えはない。だけど確信しているのは、私はもう“誰かを想う心”を忘れかけていたわけではないということ。
そして、こうして再びときめきを感じている自分がいるということ。
私は「先生」として何ができるだろう。いや、一人の女性として、これからどんな道を歩くのだろう。
そんな未来の不確定さが、今は少しだけ楽しみでもあった。
――彼が一ノ瀬陽翔なのか、似ている別人なのか。
答えは、たぶんまだ分からない。
でも、もし“あの日の約束”が本当ならば。もし、“先生じゃなくなったら”また会いに来ると言った言葉が真実ならば――。
そっと春の風が吹き抜けて、カーテンを揺らし、私の髪を撫でていく。
まるで「さあ、これから始まる物語を楽しんで」とでも言うように。
(……私に、もう一度恋をするチャンスが来るなんて、思ってもみなかった)
心の中でそう呟き、私は静かに目を閉じた。
明日からの新しい春。その先に、どんな未来が待っているのだろう。
まだ見ぬ明日に、少しだけ胸を高鳴らせてみても、きっといいよね――。