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座り心地が気に入って、即買いしたグレーのソファに、体を沈めため息をついた。
「はぁ、やってしまった。どうしよう。」
自分の声しか聞こえない部屋で、先程のことを思い出す。また会いたいという遥さんの言葉に、最初は断る予定でいた。しかし遥さんは、とても悲しげな顔で見つめ、更には『断られたら死んでしまう』などと漏らす始末。実際にそんなことは無いのだろうが、とても落ち込むということは目に見えている。
誤解されると困るのだが、私は悲しませたい訳ではない。ただ、あと一歩を踏み出すという自分の勇気が、足りないというだけだ。関わることは問題がない。しかし、遥さんの場合は私と仲良くなりたがっている。いつしか心の声が濁るのを、私が聞きたくないだけなのだ。
言い淀んだ私に彼は押せばいけると感じたようで、仕事の件も含め次の予定を取り付けた。カレンダーの、1週間後の日付に丸がついた手帳を眺め、まだ治まらない心臓を落ち着けようと、深呼吸する。手を握り、綺麗な顔を近づけてくる彼に、ドギマギしてしまうのは仕方ないと思う。彼は、自分の顔が綺麗であることを自覚しているようで、私にも効果があると分かった途端、距離がさらに近くなってしまった。
仕方ないと気持ちを切り替え、彼が『可愛い』と連呼していたワンピースではなく、パンツスタイルで当日は行くことに決めて、仕事部屋に向かった。
今、引き受けている仕事は納期がまだ先だが、暇になると遥さんがチラつくため、無心で仕事をしていたせいか、既に作品が完成している。
遥さんとの約束の日である今日は、朝から可愛いでは無い服にしようと、クローゼットを開け鏡とにらめっこしていた。
「どれがいいかさっぱりわからん。」
漏れた独り言に、返ってくる返事などあるはずもなく、結局シンプルな白シャツにスキニー、デニムジャケットを合わせ、待ち合わせ場所へ向かう。
着いたと一言連絡を入れ待っていると、近くに黒い車が止まる。空いた窓から声を掛けられ、一目で高級車だと分かる外装に、声が漏れなかったことを褒めて欲しいくらいだ。一瞬躊躇ってしまったが、往来で待たせる訳にもいかず「お願いします」と乗り込む。
クリーム色のニットに黒のパンツとシンプルな格好の遥さんは、運転する横顔がいつもより真剣で、少しドキッとしてしまった。
「詩音ちゃん、久しぶり。今日の格好も似合ってるね。」『可愛い』
「ありがとうございます。遥さんもそのニット似合ってますね。」
どうやら、私の作戦は失敗のようだ。
「ありがとう。今日はね、こじんまりした隠れ家のようなカフェに行こうと思ってるんだ。いいかな?」『この間の帰り道人通りの多い道は避けてたし、詩音ちゃん人混み嫌いっぽいよな。あのカフェが好きなら気に入ってくれると思うんだけど。』
「はい、落ち着いたところが好きなので。」
驚いた。なぜ分かったのだろう。人混みは聞きたくない言葉が、多く聞こえるから苦手なのだ。顔にも言葉にも出したことは無いと思うが、気を使ってくれる遥さんに心が温かくなる。
静かな車内で、遥さんの濁りの無い言葉を聞いているのが、既に心地よくなっている。そのことに気付き、少しまずいような気がしたが、楽しませようとしている遥さんに悪いなと、今は考えないことにした。
着いたお店は、古民家のような落ち着いた雰囲気で、私好みだ。中に入ると、日当たりのいい半個室に案内された。素敵な内装にキョロキョロとしていると、メニューを渡される。
「どれでも好きなもの頼んで。」『何が好きかな』
「はい、では、カフェラテで。」
「食べ物は?」『この前はカフェオレだったよな』
「じゃあ…ガトーショコラで。」
「詩音ちゃんは苦味があるものが好きなの?」
「いえ、そういう訳じゃないです。甘いものは脳を沢山使った日に食べたくなると言うか…。」
「なるほどね。じゃあ注文するね。」『そっか、可愛いな。』
この人の可愛いの基準はなんだろうか。さっきからハードルが、地面スレスレではないか?などと考えている間に、遥さんは注文を済ませていた。実にスマートな人だ。
それから改めて自己紹介をしてくれた。
「水瀬遥。27歳で、この間説明した通り仕事はディベロッパー。ある程度上の立場にいるから海外とかも回ったりするんだけど。この間の蒼太は俺の秘書兼相棒かな。」『親が会社の社長ってことは言わなくていいか。詩音ちゃんは目の色変えないだろうけど逃げちゃいそうだし。』
聞こえている。逃げはしないが、ますます何故私なのか疑問に思ってしまう内容は、スルーすることにした。
「そうなんですね。じゃあ私も改めて、二宮詩音。24歳、フリーランスのイラストレーターです。たまにハンドメイドのアクセサリーも販売しているくらいで、特に面白みはありません。」
「へー、凄いね。ハンドメイドなんて。…あ、そういえば、プライベートの連絡先聞いていい?」
「え?」
「教えてくれたの多分仕事用だよね?朝使ってたスマホとこの間持ってたものが違うからそうかなって。」『断られるかな?ぐいぐい行き過ぎたか?』
「よく分かりましたね。」
「まぁね。詩音ちゃんのことはよく見てるからね。」
今日、一緒に出かけているのも何かの縁だと、プライベート用のスマホを取り出す。連絡先を交換すると、正面から嬉しそうな声が聞こえる。
『このアイコンも可愛い。今度電話してもいいかな?声が聞きたいって言ったらどんな反応するかな。』
ほんの少しだけ、赤くなったような顔を隠すように俯き、スマホを見ている振りをした。慣れていそうな彼の声は、意外にも純粋で、可愛いと思ってしまったのは不可抗力だ。