【悲報】ワイ勇者、ADHDだった
☑ 注意欠陥
ついに、七つの宝玉が揃った。
世界中に散らばった神代の遺物を、幾多の犠牲と引き換えにすべて集めきったのだ。
これにより、魔王が座する魔界への道がようやく開かれようとしていた。
宝玉の力に反応し、遺跡に安置された石の扉が淡く光を放つ。
しかし、宝玉だけでは足りない。
さらなる代償が必要だ。
宝玉の力を解放するには、陽光炉と名付けられた魔力増幅装置に生贄を捧げる必要がある。
そしてその役は『五大賢者』が担った。
宝玉と五つの命で次元の壁をこじ開け、魔王城への道を一度だけ、たった一度だけ切り拓くのだ。
残酷なことに、それが最初にして最後の機会だった。
やがて陽光炉が起動し、荘厳な金色の光が大気を震わせる。
五大賢者たちは一人ひとり、燃え盛る光の渦を前にして立っていた。
「ふっ……このワシが魔王討伐なんぞに力を貸すとはな」
最初の賢者が薄く笑い、炉の縁に足をかけた。
ほかの賢者たちも口々に激励の言葉を語る。
「お前に賭ける。祖国の無念を晴らしてくれ」
「行けぃ!! 勇者よ!!!」
それから、全員が親指を立てて陽光炉の中に沈んでいった。
同時に、七つの宝玉は役目を終えたかのように淡い残光を放つ。
世界のどこかへと四散した。
つまり賢者たちは死に、宝玉ももうない。
二度とやり直しのきかない、一度きりの旅立ちが訪れる。
次元の壁が軋み、魔界への扉が開く。
夥しい数の魔物が溢れ出した。
世界連合の大軍が決死の覚悟で防衛線を敷く。
世界中の国が手を取り合い、この一度きりの機会を守り抜くために命を懸けていた。
もう後戻りはできない。
機会はたったこの一度だけ。
そして予言の通りなら、勇者のために迎えが来るはずだ。
全ての人がその瞬間を待つ。
はるか天空に住まう約束の獣が、勇者を運ぶために降りてくる時を。
……やがて、戦いの最中に光り輝く神獣が降臨する。
だがその姿は満身創痍だった。
魔王軍の迎撃を突破してきたのだろう。
翼は半ば裂け、白銀の体毛は赤黒い血にまみれ、片方の角は根本から折れていた。
それでも約束の獣は空を駆け、ぼろぼろの姿で勇者の前に着地した。
「私は……待ち続けていました……」
傷だらけの体を震わせながら、神獣は威厳に満ちた声で告げた。
勇者を背に乗せると、天を仰いで加速を始める。
次元の扉に突入した。
神獣の体は、加速するにつれて燃え始める。
大気との摩擦ではない。
約束の獣の生命そのものが推進力に変換されているのだ。
白銀の体毛が端から灰になり、風に散っていく。
獣は魔王城への最短距離を駆け抜けるために、自らの命を燃料にしていた。
勇者は獣の首筋にしがみつきながら、震える声で言った。
「ごめん……ごめん、獣……」
「よいのです。これこそが私の使命。"あのお方"に誓った約束……」
「でもごめん……本当にごめん……」
「どうか気にやまないでください、心優しき勇者よ」
獣の体はすでに半分が燃え尽きた。
残された時間はわずかだ。
五大賢者、世界連合軍、そして約束の獣……多くの犠牲が魔王への道を切り開こうとしている。
勇者の目に涙が浮かんでいた。
「ごめん……ごめん、宿屋のビリヤード場に光のオーブ忘れた」
沈黙が落ちた。
風の音だけが耳を打つ。
勇者のかたわらにいた、前腕ほどの大きさの妖精――聖剣の化身、ソプラノがドン引きの声で問い返す。
「えっ、オーブって……」
勇者が気まずそうに彼女を見る。
恐る恐る。
赤毛の、気の強そうな少女妖精の瞳を覗く。
「そう、魔王を倒すのに必要なやつ」
「……もう賢者死んじまったぞテメェ」
ソプラノの声が震えていた。
怒りなのか絶望なのか、もはや判別がつかない。
「そして、なんでオーブでビリヤードしてんだよ……」
「玉がなんか足りなくて……」
死にかけの約束の獣が白目を剥いた。
「クエェッ!!(発狂)」
―――
冒険の書に記録しますか?
はい
いいえ
燃やす◀
―――
☑ ワーキングメモリの不足
四天王グレゴール。
魔王直属の最強戦力にして、これまで数十もの英雄を葬ってきた不滅の魔将である。
その巨躯から繰り出される一撃は大地を割り、咆哮は空間そのものを歪ませた。
そしてその仇敵と、勇者たちは刃を交えていた。
仲間たちは満身創痍だった。
回復呪文を唱える余力すら残っていない。
グレゴールの圧倒的な戦闘力の前に、パーティは壊滅寸前まで追い込まれていた。
そのとき、一人の仲間が前に出た。
全身の魔力を練り上げ、自らの生命力を爆発的なエネルギーに変換する禁術――自爆である。
「へっ、お前らとの旅………悪くなかったぜ!」
轟音と閃光が戦場を呑み込んだ。
仲間の体は跡形もなく消え去り、その代償としてグレゴールの鉄壁の防御にほんの一瞬だけ綻びが生まれた。
再生に時間を取られ、あの魔将が動くことさえままならない。
「今だ勇者! 聖剣開放呪文を!!」
ソプラノが叫ぶ。
聖剣開放――それは勇者だけに許された最終奥義だ。
発動には極めて長い詠唱を唱え切る必要がある。
しかし魔術の天才たる勇者の詠唱速度は、常人の数十倍を優に超える。
超高速詠唱によって、一瞬の隙さえあれば発動は可能なはずだった。
勇者は聖剣を天に掲げ、詠唱を開始した。
「うおおお!! 天と地の狭間に眠りし始原の光よ、我は汝の名において封じられし刃の真なる姿を求む! 星辰の盟約に基づき、七つの門を開け放ち、万象の理を貫く一条の剣閃となれ! 聖なる血脈に刻まれし古の契約、いざ此処に成就せん――我が魂を依代とし、天蓋を裂き、深淵を穿ち、森羅万象ことごとくを灰燼と帰す終焉の……あ、待ってバイ○ルトかけたっけ?」
「ほぇっっ?!?!」
ソプラノの絶叫が戦場に響いた。
「もういいじゃん撃てば!!! 今気にするタイミングじゃなかったでしょ!!!」
「でも先にバイキ○トかけないと火力が……」
「馬 鹿 か お 前!!!! 早く詠唱しなおせッ!!!! 早くっ!!! 死ね!」
「あ、え、あっ、あっ……天と地……」
焦りが思考を侵食した。
さっきまで流水のように紡いでいた詠唱の言葉が、頭の中で砕け散る。
口が空回りし、舌がもつれ、超高速詠唱の制御が完全に崩壊した。
「マジか、お前」
グレゴールが体勢を立て直す。
仲間の命と引き換えに生まれた一瞬の隙は、もう閉じかけていた。
「えっと……ククク……惜しかったなぁ、人間よ」
気を遣うような間のあと、グレゴールの嘲笑が響く。
勇者はなおも状況を受け入れられず、壊れた呪文を繰り返していた。
「あっ、あっ、へぁ! ひッ……天と地……天と地……テントチ……」
「もうチャンス終わったよ!!! 死ねッ!!!!!」
仲間が命を賭けて作った千載一遇の好機は、バ〇キルトをかけたかどうかという実にどうでもいい疑問によって完全に失われた。
それがこのゴミ屑の脳の仕様である。
―――
☑ 叱責回避
話を少し遡る。
勇者を導く女神という役職には、実は前任者がいた。
だが前任の女神は、光のオーブでビリヤード事件で精神を病んだ。
職を辞し、自宅の風呂場でリストカットをしているところを発見された。
その後、『こんな腐り切ったゴミはいらない』という手紙とともに冒険の書を燃やし、入院先の病院からも脱走した。
つまりこの勇者が担当の女神を壊した結果、冒険がふりだしに戻っていたのだ。
そして、ともかく、新しい女神が着任した。
新任の女神は前任の惨状を反面教師としたのか、極めて丁寧に、優しく、親切に、ある遺跡のギミックの説明を行った。
図解を交え、要点を繰り返し、具体例を添え、念には念を入れて一つ一つ確認しながら進めた。
もはやパワポを司る女神と言っていい完成度のプレゼンだ。
勇者の前に幻影として現れ、時間を取ってサポートをした。
「聞きましたね?」
女神が最後に確認する。
勇者の前には二つの選択肢が浮かんでいた。
はい ◀
いいえ
「はい!」
勇者は力強く答えた。
女神は柔らかい笑みを浮かべる。
「ふふふ。期待していますよ、勇者様」
女神は安堵の息を吐いた。
これなら大丈夫だろう。
前任のような悲劇は繰り返されないと信じたかった。
――数分後。
「うわーーーん!!! だずげでぇぇぇ!!! ああああ! ぎいでないよぉおおお!!! ごんなのおおおお!!」
勇者は顔面をぐしゃぐしゃにして泣き叫んでいた。
狭い通路で、なだれ込んだ泥水に押し流されながら。
女神が丁寧に説明したギミックを見事に全て間違え、取り返しのつかない大失敗を遂げたのである。
「おい、なんで行かせた。聞いてなかったろアイツ」
流れていく勇者を見つめながら、ソプラノが女神を詰めた。
おろおろと狼狽えながら女神が答える。
「確かに、聞いてないように見えなくもなかったんです。でもはいって……言ったので…………」
「なんで信用したんだ! こいつは聞いてなかったことを怒られたくないから聞いてなくてもはいって言うんだよ!」
「えぇ……」
女神は絶句した。
つまりあの力強い返事は、理解の表明ではなく叱責回避の条件反射だったということだ。
「ならあなたが教えてあげればよかったじゃないですか」
「ごめん……パチンコ行ってた」
誰一人としてまともな人間がいなかった。
―――
☑ 多動性
レベリングを進めた勇者は、もはや単独で四天王を討てるほどの腕前に達していた。
そして今は、魔王四天王の一角との対面を果たしているところである。
場所は絢爛たる宮殿の大広間。
磨き上げられた大理石の床に、黄金の燭台が幾本も並び、天井には極彩色の壁画が描かれていた。
長大な食卓には見たこともない豪勢な料理が所狭しと並べられ、その奥に四天王が悠然と腰掛けている。
「よぉ、勇者。四天王のグレゴールを倒したらしいな? いやぁ……アッハッハッ……ブラボォ〜、ブラボォだねぇ……まぁ座れや」
「いや、座らせないほうがいいと思うぞ」
ソプラノが即座に釘を刺した。
「……? どういうことだ?」
四天王は怪訝な顔をしたが、勇者はすでに椅子に腰を下ろしていた。
「フフフ……俺を他の四天王と同じだと思うなよ」
四天王は不敵に笑い、語り始めた。
彼の遠大で、おそらくは世界にとって重要な何かの計画を。
「俺は魔王に従ってるわけじゃ無い……俺はな、この腐りきった世界の秩序そのものを塗り替えるために動いているのだ。人間どもが築き上げた文明とやらは所詮、弱者から搾取する構造の上に成り立つ砂上の楼閣に過ぎん。魔王? あんなものは俺にとって手駒の一つだ。魔王が人間の国を滅ぼし尽くした後、疲弊したその隙に魔王すらも討ち、俺が新たなる世界の頂点に立つ。そして俺は全種族を統べる絶対王政を敷き、この世界に真の平等をもたらす。弱肉強食でもなく、偽善的な博愛主義でもない、力ある者が全てを管理する完全なる秩序だ。そのために俺は三百年前から暗躍し、各国の要人に工作員を送り込み、経済の根幹を掌握してきた。まず第一段階として大陸西部の穀倉地帯を――」
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ…………。
音がする。
勇者のもとから。
四天王は目を見開いた。
「怒りに打ち震えてるのかぁ? いや違う、こいつ……」
貧乏ゆすりだ。
勇者の両脚が小刻みに上下し、椅子が床を叩いて不快な音を立てていた。
まぎれもない貧乏ゆすりである。
しかもそれだけではなかった。
やがて勇者の上半身は左右にゆらゆらと揺れ始め、次に何の前触れもなく立ち上がり、そのまま出口に向かって歩き出した。
「貧乏ゆすりすんな! 左右に揺れるな! 立つな! 帰るな!」
その間も四天王が必死に叫ぶ。
お腹のあたりのむずむずが限界に近づき、勇者は構わず奇声を上げた。
「アアアアアア!!!」
「奇声をあげるな!!!」
四天王がまた怒鳴る。
なお、ソプラノは四天王の長い演説の間中ずっと涙ぐましいリアクションを続けていた。
「なっ……そんなことを……! 許せない。お前の思い通りにはさせん!」
などと相槌を打ち続けてフォローしていた。
勇者の奇行を会話で覆い隠すという地獄のようなマルチタスクである。
だがその甲斐なく勇者は話を最後まで聞けなかった。
注意された後も勇者は落ち着くことはない。
相手が魔族であるという事実が逆に遠慮の枷を外したのか、むしろキレ散らかし始めた。
「黙ってろボケ!! お前の話なんか聞けるか死ね!!」
だが四天王の次の一言が、勇者を完全に沈黙させた。
「なんで普通にできないんだ」
勇者の表情が凍り付く。
四天王はこめかみを抑えて、我慢たまらずといった様子で怒鳴り始める。
彼の周りに優秀な部下しかいないせいで、勇者の存在を理解できないし許容できなかったのだ。
「なんでできないんだ! なんでお前はそんななんだ!! 普通の人間は普通にできるだろうが!! どうして普通ができないんだ!!!」
「やめて……もうやめでぇ…………すみません……ずびばぜん……うああ……」
一連の叱責は完全なるとどめとなった。
勇者は崩れ落ちるように椅子に沈み込み、両手で頭を抱えた。
先ほどまでの躁状態が嘘のように、体が小刻みに震えている。
「めっちゃ効いてる……」
四天王がドン引きする。
ソプラノは嘆息した。
「これ、トラウマなんだよ。コイツが勇者学校にいた頃の」
四天王にそう教えてやる。
彼はますます困惑を深めた。
「えぇ……どういうこと?」
「なんで普通にできないんだって言ったろ? それ、教師の口癖だったんだよ。よく言われながら殴られててさ」
ソプラノも覚えている。
襟首掴まれて揺さぶられて、ビンタされまくって頭をスリッパでしこたま殴られた。
その上に教室から蹴り出され、四時間以上も無意味な場所の掃除をさせられた。
それがほぼ日常だったのだ。
「…………」
仕打ちの例を聞いて、四天王は目を瞬かせる。
先進的で知性に満ちた教育を受けて育った彼には理解できないことである。
「そんなことをされる理由は?」
「朝の会でよそ見をしていたから。だからまぁ、毎朝だな」
ミスをするたびにそんなことの繰り返しだった。
勇者はひどく精神を病み、一時期は夜中に「なんで普通にできないんだ」という幻聴で目が覚めていたという。
普通、という言葉はこのゴミにとって呪いだった。
―――
☑ 先延ばし癖
聖なるほこらは、大陸の最奥に鎮座する神域であった。
万年雪を戴く霊峰の頂に穿たれた洞窟にある秘境だ。
そこには、人の手を拒む荘厳な空間が広がっている。
天然の鍾乳石が幾千年もの歳月をかけて柱となる。
その一本一本が淡い燐光を放って闇を退けていた。
壁面にはびっしりと古代文字が刻まれ、床の中央には聖水を湛えた泉が鏡のように静まり返っている。
天井から垂れる水滴の音だけが、永遠の理を表すように規則正しく空間を満たしていた。
まさしく聖域中の聖域である。
その場所で、光のオーブの封印を解いた女神が厳かに口を開いた。
「急いでください勇者……あと三か月以内に魔王メチャハカーイが……」
「やめろ!」
鋭く制止したのはソプラノである。
女神は困惑したように眉をひそめる。
「えっ……?」
「やめろ言うな!!」
「えっ? なぜ?」
ソプラノは何度も制止した。
かなり切迫した様子で。
訳を問うと、複雑な表情で答える。
中指で勇者を指さしながら。
「こいつは期限とか設けると前日まで先伸ばすから言うな。そして間に合わないから」
「あっハイ……。では気を取り直して。あと一か月以内に魔王メチャハカーイが……」
言い直した女神を、ソプラノが青筋を立てて怒鳴りつけた。
「ちょっと急かそうとしてんじゃねぇ!」
もう手遅れなのだ。
期限を教えたら前日まで動かない。
ただまぁ、教えなくても動かない。
どちらにしても動かない。
先延ばしの才能だけは魔王をも凌駕していた。
―――
☑ 衝動性
街が燃えていた。
勇者たちが拠点としていた交易都市ベイラルドが、魔物の大群に蹂躙されていた。
石造りの城壁は内側から食い破られ、市場の天幕が次々と炎に呑まれていく。
悲鳴はとうに止んでいた。
逃げられた者は逃げ、逃げられなかった者はもう声を上げる力すら残っていない。
黒煙が低く垂れ込めた空を覆い、昼だというのに陽の光が届かなかった。
魔物の襲撃は予告されていた。
斥候が三日前に大群の接近を報告し、勇者にレベリングを要請していた。
強力な魔物を素早く倒し、街の救援までこなしてもらうためだった。
おそらく、三日あれば十分だった。
いや、この男の戦闘の才能をもってすれば、一日の鍛錬でも足りたはずだ。
即座に魔物のボスを屠り、街に駆けつけることができたはずだった。
だが勇者はレベリングをしなかった。
なのでボス討伐に手間取り、街はこのありさまだ。
丘の上から燃え落ちる街を見下ろしながら、幻影として現れた女神は、静かに、しかし確実に怒りを滲ませた声で訊いた。
「どうしてレベリングしてないんですか。魔物が襲撃するのわかってましたよね?」
「……いや、ビリヤードしたくて」
炎に照らされた勇者の横顔には、罪悪感だけが張りついていた。
女神は耐えられず、初めて金切り声で勇者を怒鳴った。
「ビリヤードいつでもできるじゃん!!!!! 魔物は今しか来ないじゃん!!!!!!!!!」
正論である。
ぐうの音も出ない正論だ。
眼下では建物が崩れる轟音が断続的に響いている。
涙目で勇者が答えた。
「……まぁ。そうなんだけど。我慢できなくて」
「どうして我慢できないんですか! あなたを信じて待っていた人々がいるのに!!!」
「あの、人々のことを裏切るとか……そこまで考えてたわけじゃないです。ただビリヤードを我慢できなかった」
「はぁっ?!」
「ビリヤードしたあと徹夜でレベリングすればいいやと思ったけど寝ちゃった……」
「意味がわからないよ……」
「こんな自分がすごく……嫌いです……ひぐっ……」
勇者が泣き崩れる。
こんなに汚い涙がかつてこの世に存在しただろうか?
率直に言って死んでほしい。
「はぁぁぁ……」
女神はもう街の方を見ていなかった。
見ていられなかったのだ。
「なんでこんなことにぃ…………」
破壊の音と、女神のすすり泣きだけが響く。
勇者はやるべきことがあると頭では分かっていても、今やりたいことの引力に抗えない。
ビリヤードと世界の命運を天秤にかけて、ビリヤードが勝ったのだ。
そしてこの男は、自分のどうしようもなさを誰よりも自分が理解しているからこそ、失敗するたびに自分を憎む。
憎んだところで次もまた同じことを繰り返すのだが。
目の前で、また一つ建物が崩れる音がした。
―――
☑ 疲れやすい
戦闘において、この男は別人だった。
勇者の右手から放たれた氷撃呪文が、魔物の群れを一瞬で串刺しにした。
同時に左手からも炎熱の魔力が迸る。
おまけに天から地へ一直線、第三の雷撃呪文が魔物たちを討ち滅ぼした。
三つの高位呪文の同時行使である。
通常の魔術師であれば一つ唱えるだけでも全魔力を消耗しかねない大技なのだ。
それを、この男は息をするように三重奏で叩き込んだ。
「うそっ……同時に三つも呪文を……?」
同行していた仲間の一人、女冒険者が目を見開いた。
彼女もそれなりの実力者だが、目の前の光景は常識の埒外にあった。
そして勇者の無双は続く。
押し寄せる魔物の波を次々と薙ぎ倒す。
傷ついた味方には最上位の範囲回復呪文を惜しみなく放つ。
癒しの光が戦場を包み、瀕死となった仲間たちが次々と立ち上がる。
MPの消耗は激しいが、この男の魔力量は桁が違った。
「あれ? 俺またなんかやっちゃいました?」
普段から卑屈なこのゴミ箱は、多少得意なことになるとちょっと気が大きくなるのだ。
それに、聖剣に宿ったソプラノが呆れとも感嘆ともつかない声で返した。
「やっぱお前……ノッてる時は超つえーよ……」
だがそこで、なにかに気がついたように声を鋭くする。
「あ、でもあんま調子には乗るなよ」
「わかってるわかってる」
勇者は得意げに剣を振り回しながら答えた。
だがすぐに表情を切り替え、真面目な声でソプラノに尋ねた。
「ソプラノ、いま俺のMPいくつ?」
「9762」
「オーケー。ボスいるしペース調整するか」
急激にMPを消費すると悪影響が出る。
それは勇者自身が痛いほど理解している体質上の問題だった。
だからこそペースを落とし、MP残量を管理しながら戦う計画だった。
計画だったのだが。
「…………」
そこへ、魔物の一体があらわれた。
なにか、ふしぎな感じの踊りを繰り出した。
奇妙な手足の動きとともに、勇者のMPがごっそりと吸い取られる。
MPの割合吸収で300ほど、一瞬で激減した。
「あ」
勇者は目を見開き――そしてそのまま、糸の切れた操り人形のように地面に倒れた。
女冒険者はそれを見て混乱する。
MPをほんの少し削るだけの技で、無敵の勇者が倒れ込んだからだ。
「えっ?! やば……なんで寝てるの?! ええっ?!」
女冒険者が駆け寄る。
つい数秒前まで戦場を支配していた最強の戦士が、地面にうつ伏せになって寝息を立てている。
ソプラノが無念そうにため息を吐いた。
「こいつMPが急激に減ると寝るんだよ。ちゃんとペース調整してたのにな……」
ソプラノが淡々と説明した。
この男の体はMPの急激な変動に耐えられない。
魔力が一気に減少すると、脳が強制的にシャットダウンする。
意志の力でどうにかなる類のものではない。
大魔術を立て続けに使ったところで、変な踊りがとどめを刺してしまった。
完璧なペース管理が崩壊したのだ。
「いやいやいや……あの……ええっ?! ちょっと! ちょっと!」
女冒険者が半泣きで起こそうとする。
周囲では仲間たちが魔物に押され始めていた。
ソプラノが全てをあきらめたように天を仰ぐ。
「ちなみに起きない。起きても頭ぼんやりして二割も戦えない」
「ねぇ、ボスきてるよ……?」
女冒険者の声は完全に引きつっていた。
最強の戦力が地面で安らかに眠っている横を、ボスクラスの魔物がゆっくりと近づいてくる。
もはや喜劇である。
ただし笑えるのは観客だけで、当事者にとっては純粋な地獄だった。
―――
☑ 自己肯定感が低い
勇者が剣を振るうとき、そこには一切の迷いがなかった。
その刃が閃けば、十数体の魔物がまとめて命を散らしていく。
「待てよ。今剣を拭いてるだろ」
勇者は言った。
無表情で。
剣身についた血糊を丁寧に拭いながら。
押し寄せる魔物たちに対しての言葉だ。
余裕というよりは、もはや魔物の群れを脅威と認識していない。
「待てるか!」
魔物たちの先頭で、知性持つ邪悪…………魔王の眷属、魔族が叫んだ。
それに勇者は小さくため息を漏らす。
「いいのか。お前、知性あるだろう? 切れ味戻らないと痛いよ」
そう言って、無表情で勇者は地を蹴った。
血みどろの剣がかき消える。
赤い風が通り抜けて、一閃だ。
無慈悲なまでの暴力が吹き荒れた。
たったひと薙ぎで魔族もろとも、魔物たちはミンチになり果てた。
殲滅。
文字通りの殲滅である。
呼吸一つ乱さず、返り血を浴びた顔にはなんの感情も浮かんでいない。
ただひたすらに刃を振るう。
その剣技から逃げることなどできない。
勇者は誰よりも速く、転移魔術をも使いこなすからだ。
聖剣の刃を多重転移させ、複数座標に分裂させることで広域に斬撃の結界を生み出す。
逃げる間もなく、百近い魔物が一瞬で血煙に変わった。
戦闘の才に関してだけ言えば、この男は間違いなく人類史上最強の域にいるのだ。
また一つ赤い霧が立ち上り、電光石火の早業が放たれた。
爆ぜるような踏み込みの音に合わせ、聖剣の残光だけが網膜に焼き付く。
「だめだ、強すぎる……」
別の魔族が言う。
それにまた別の魔族がほくそ笑む。
「まぁ待ってろ。今にヤツが来る。あんなクソ童貞野郎イチコロだ、クク……」
今日は切り札があるのだ。
力で勝てないなら搦手で攻める。
すなわち――サキュバスの投入である。
「うふふ……コロシばっかりじゃ飽きるでしょ? こういうのはどう?」
妖艶な姿態が霧の中から現れた。
常人であれば視界に入っただけで理性が蒸発する、魔界最高峰の色香を纏った女悪魔だ。
「え、えっちだ……」
「勇者!!」
まんまと魅了された勇者に、ソプラノが叫ぶ。
だが勇者は口をあけてだらしなくサキュバスを凝視している。
術にかかったと見て、妖しく肢体を揺らしながらサキュバスが近づいた。
「ねぇ、どう? 勇者様……? 溜まってるんじゃない?」
そっと勇者の手を握る。
血みどろの指を自らの下腹部に導き、舌なめずりをした。
待ったなし、吸精行為の開始である
しかし不意に正気に戻った勇者がサキュバスを突き放した。
「あ、そういうのはいいです」
「えぇ……」
サキュバスの眉がぴくりと動いた。
初手から断られるのは想定外だったが、まだ序の口だ。
本気を出す。
「そんなこと言わないで♡ ほら、どう? 触ってみて♡」
「きょ、巨乳だ……」
「勇者!!」
「もう我慢できないでしょ? おいで……♡」
「いや、遠慮しておきます」
「えぇ……」
二度目の「えぇ……」である。
反応はしている。視線も泳いでいる。なのに断る。
サキュバスは初めての事態に困惑しながらも、さらに攻勢を強めた。
「とっっても意志が固いのね……♡ ステキよ、勇者様。本当に恋しちゃいそう♡」
「む、む、むちむちだ……」
「勇者!!」
「ほら、正直になって? 意志よりも硬いアレを見せてほしいな? ケモノみたいに襲っちゃってもいいのよ♡」
「いや襲うとかはやってないんだ」
「…………」
沈黙が流れた。
サキュバスの妖艶な微笑みがわずかに固まっている。
「なんで?」
ついに、耐えられずに質問をする。
率直な疑問だった。
目の前の男は明らかに反応しているのに、なぜ頑なに拒むのか。
勇者はすん……とした無表情のまま、早口で言葉を返す。
「だって俺みたいなクズがセックスして、もし子供ができて生まれてきた子もクズだったらかわいそうじゃないですか。まともな人間に生んであげられない可能性がそこそこあるのにセックスして子供作るのは無責任ですよ。もし俺に似た人間のゴミの子どもが生まれてきたらと思うだけで申し訳なくなる。絶対に孤独で劣等感に満ちた苦しい人生を歩むことになります。辛い思いばかりさせることになります。親は確実に先に死ぬので、そんな人生の責任を最後まで取ることもできないし。そもそもちゃんとした育て方できる気がしないし。俺みたいな遺伝的要素も環境的要素も終わってる親ガチャ爆死確定チケットはせめて作らない育まないを徹底するのがせめてもの愛というか。ていうかぶっちゃけそもそも俺に似たクソガキが生まれてきたら愛せる気がしないんですよね。クソみたいな人格でしょ、どう考えても。生まれてこない方がいい。なんなら普通に殺しちゃうかもしれないしそれも怖いです。そういうことなんで死ぬまでセックスしません。避妊具も事故とかあって結局確実には信用できないし。俺みたいなゴミ絶対に生まれてきちゃいけないので」
サキュバスは完全に固まっていた。
「ん?」
「だって俺みたいなクズがセックス……」
二週目、開始。
サキュバスは急いで遮る。
「いや、あの、聞こえてはいる」
「はい」
誘惑に来たはずのサキュバスが、生涯で最も重い沈黙を味わっていた。
色欲の権化が、童貞の自己否定トークによって精神的ダメージを受けるという、魔界の歴史書にも前例のない事態が発生していた。
「…………帰るね」
やがてサキュバスは言った。
勇者が剣を構える。
「だめです。魔王軍は殺します」
「自信なくしたから転職します」
「はい。なら帰っていいです」
サキュバス、まさかの辞任である。
誘惑対象の壮絶な自己否定によってアイデンティティを揺さぶられたのだ。
あんな気持ち悪い感情に自慢の色香が負けてしまっては、もうやっていけるとは思えない。
「…………」
がっくりと落とした肩には、自信を根底から覆された者特有の虚脱感が漂っていた。
そして勇者は歩き去る。
なぜかサキュバスもついてきた。
「…………」
なんとなく気まずい空気で進む。
だがやがて耐えかねたかのように勇者が口を開いた。
「なんでついてくんの?」
「街でスーツ買おうと思って」
ソプラノが納得したようにうなずく。
魔王軍やめるならそりゃあ就活くらいするだろうと。
「その格好じゃ面接無理だもんね」
「頑張ってください」
なぜか勇者も応援した。
ソプラノはなんとなく話を続ける。
「どこ志望するつもり?」
サキュバスはのんびりした表情で答える。
気持ちの切り替えが済んだのだろう。
「ゲーム業界を受けたいですね〜。多分まだ新卒か第二新卒枠で行けるからエントリーシート作成と並行して業界研究しつつ、他の志望先も決めてポートフォリオを……あ、第二新卒向けのインターンやってるところがあれば行こうかな。あとはゲームジャムでチーム開発がてら情報集めたり、OB訪問も……」
ぺらぺらと一人で就活について話す。
ただ一人語りになったのは、ソプラノと勇者が完全に沈黙したからだ。
原因不明のダメージを受け、涙目になった勇者が声を震わせる。
「ねぇそういう話やめない?」
勇者の声にはかすかな怒気が混じっていた。
やたらしっかりしてる新卒サキュバスによって勇者の心はもうズタボロだった。
魔王軍を辞めて転職活動を始めたサキュバスが、業界研究からポートフォリオ作成、インターン活用まで完璧に計画を立てている。
片や人類の最終兵器たる勇者は、ゴミだ。
勇者になるまでの色々を思い返して死にたくなった。
「…………」
ソプラノが、取り繕うように別の話を切り出す。
「なぁ、なんでお前魔王軍でサキュバスやってたんだ?」
「種族的な理由と……あとは制服が気に入ったので」
「なるほど? これが好きってことは休日もコスプレイヤーとかやってる感じ?」
「あ、わかります? コミケとかも出たりして、ほらこれ……サークルで作ったゲーム配布した時の写真です。結構反響良くて嬉しかったですね」
「ソプラノ、やっぱこいつ殺していい?」
嫉妬に駆られて勇者が言う。
なにせサキュバスは趣味も充実していたのだ。
面接官も手を叩いて喜ぶガクチカである。
多分彼女なら、魔王軍で吸精にいそしんでいたことすらいい感じの挫折エピソードに錬成するだろう。
「はぁ…………」
勇者はため息を吐く。
自分、ゴミすぎと思いながら。
人類最強の戦士にして、自己肯定感は人類最底辺だった。
―――
☑ 朝に弱い
最も汚れなき日の光。
朝日の昇るその時間にこそ、闇の眷属は最も脆くなる。
世界連合が立案した作戦は明快だった。
夜明けとともにヴァンパイアロードの館を急襲する。
それだけのことだ。
太陽が味方をし、聖水で武装した精鋭部隊が突入し、奥の間で眠る闇の主を仕留める。
完璧な作戦だった。
ただひとつ、勇者もまた朝に弱いという点を除けば。
「おい、寝ちゃだめだろ」
馬車の中でソプラノが言った。
勇者が舌を鳴らす。
「……チッ、反省してま〜す」
幻影で現れた女神とソプラノは顔を見合わせた。
普段は殴られても蹴られても「すみません」「ごめんなさい」と平身低頭する男なのだ。
しかし寝起きには舌打ちをして口先の反省のふりすらしない。
まるで別人だった。
「人変わってる……」
「なんでこんな強気なの……?」
女神たちが言う。
勇者が車内で派手に足を伸ばしながら、ダルそうな声で呪詛をまき散らす。
「ねみーんだよクソ……黙れクソ……バカクソ……羽むしるぞクソ……」
ソプラノは羽を庇うように後ずさった。
勇者の語彙はクソしかなくなっていたが、その目には普段の卑屈さの欠片もない。
ただ純粋な殺意だけが宿っていた。
朝の勇者は、魔王よりも恐ろしい。
いくばくかの時間を経ても状況は変わらなかった。
勇者は壁に寄りかかって目を閉じ、やがて身体を横たえた。
ソプラノが何度も声をかける。
「ねぇ、起きてる?」
「起きてるよ!! っせぇな……」
「あっそ……」
勇者はそのまま寝そべった。規則正しい呼吸が聞こえ始める。
「ねえ、ほんとに寝てない?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ねぇ」
「起きとるわっ!」
「どう見ても寝てんじゃねーか。起きろよ」
「キエエエエエ!!! 起きてるっつってんだろ! テメェマジでいちいち文句つけてっとマジで谷底に捨ててアマゾンで評価いい剣と買い換えっからなテメェほんとにマジでぇぇぇぇ!!」
「まるで別人だなぁ……」
ソプラノは呆れた声で呟いた。
睡眠不足が人格のたがを外すのか。
なんにせよ手に負えない。
しばらくして馬車が揺れる音だけが響く中、再び沈黙が降りた。
「…………」
「……やっぱ寝てるよなぁ、これ」
「……ふ、ふ、ふ、普通にできなくてごめんらひゃい」
「うなされてて草」
寝言で謝罪している。
起きている間はキレ散らかすくせに、眠りの中では卑屈な本体が顔を出すらしい。
キモすぎる寝言にソプラノは鼻を鳴らした。
まさに模範的な『真顔で草』である。
その後、作戦が始まった。
先行した魔術師部隊はヴァンパイアロードの館に突入し、総力を挙げて足止めを続けていた。
敵は陽光の中でも規格外の強さを誇り、魔術師たちの防御陣を一枚、また一枚と破っていく。
魔術師は通信魔法で叫んだ。勇者を寄越せ、と。今すぐに。
だが勇者は来ない。
勇者はヴァンパイアロードを確実に仕留めるため、館のどこかに隠されているという「闇の心臓」を探していたのだ。
それさえ破壊すれば、ヴァンパイアロードは不死の力を失う。
合理的な判断ではあった。
「オ―――ッス」
それは唐突な出来事だった。
決戦の最中、元気のいい掛け声とともに、魔族たちが巨大な檻を運んでくる。
中には、これまた巨大な宝箱が収められている。
そして宝箱の蓋は開いていたので、兵士たちはそれを覗き込む。
だがそこにあったのは、全身をボコボコにされ、手足を縛られた勇者の姿だった。
聞きもしないのに言い訳を開始する。
「なんか……闇の心臓が入ってる宝箱がおっきくて……中身が赤いふわふわの布が敷き詰められてる系のすごいリッチな……す、すごい寝心地良さそうな感じで……寝てたら……いや寝てはいなかったんだけど……」
「……死ね」
兵士の一人が言った。
勇者はついに涙をこぼした。
「ごべんなざい……」
「本当に、理解できない」
闇の心臓が収められた宝箱は確かに立派なものだった。
深紅のビロードが内側に敷き詰められ、棺のような造りで、なるほど寝心地は良さそうである。
そこに横になった勇者は数秒で意識を失い、気づいた時にはヴァンパイアロードの配下に発見され、殴打され、拘束されてしまったのだ。
―――
☑ 空回りすることが多いと感じる
ある農村での出来事だ。
持ち前の見通しの甘さで餓死寸前だった勇者を、とある農夫が助けた。
その礼を申し出たところ、農夫は勇者の前に膝をつき、切実な面持ちで訴えた。
東の畑に猛毒の魔界植物が蔓延り、このまま放置すれば土がダメになってしまうのだという。
だから、それを炎魔術で退治してほしいと頼んだのだ。
土壌のほうは小さいが苗が芽吹いているので、絶対に傷つけないよう慎重に、くれぐれも慎重に。
根の処理や除染はこちらでするので、倒すだけでいいと。
その農夫は三度念を押した。
勇者は「はい」と力強く、三度頷いた。
けれど、ここで思い出してほしい。
この男の『はい』は理解の証明ではない。
実際、頭に入っているのは『東の畑に猛毒の魔界植物が蔓延り』……せいぜいここまでだ。
ここまでで勝手に納得し、あとはもうロクに聞いていない。
「行ってまいります」
翌朝、勇者は夜明けとともに東の畑へ向かった。
不休で働いた。
珍しいことに、この男は本気だった。
自分を助けてくれた相手の頼みだからだ。
火炎呪文で地面を舐めるように焼き、風の魔法で灰を吹き飛ばす。
土壌を深く掘り返しながら解毒魔術で除染し、念入りに整地まで行った。
魔界植物は根のかけらすら残さずに消え、健全な土壌だけが残される。
「へへへ。あのさ、すごい丁寧にやったよ、ソプラノ」
「おー、頑張ったじゃねぇか勇者」
夕暮れ。
勇者は嬉しそうに歩いている。
額から滴る汗を拭いながら、村の人たちの役に立てたと思い、まともな達成感を噛み締めていた。
パチンコ帰りのソプラノも珍しく普通に褒める。
和やかに話しながら、勇者は胸を張って村に戻った。
「終わりました。東の畑、全部キレイにしました」
農夫と、同席していた村長の顔から血の気が引いた。
「……全部って、なにを」
「畑です。全部燃やして更地にしました。魔界植物が根っこも残らないように土ごと焼いて、石もぜんぶ取り除いて。除染もしたので、いつでも種を蒔ける状態です」
沈黙が落ちた。
村中が、静まり返ったように感じる。
東の畑にはたくさんの苗が埋まっていた。
まだ魔界植物が根を張ってすぐだったので、手間をかければ復興するすべはあったのだ。
なのに畑は、見渡すかぎりの焦土と化しているという。
苗はすべて灰になって、丁寧に、完璧に、一本の草も残さず焼き尽くしたのだ。
「……おい。おい待て。おいおいおい待て。何してくれてんだお前」
顔面蒼白で農夫が言う。
勇者は顔をひきつらせた。
「え? 畑をキレイにしろって……」
「言ってねぇッ!!!! 魔界植物だけ殺せっつっただろうが!!!! 作物は残せって三回言ったぞ!!!!!」
「えっ……あ、あれ? 畑を全部やれって……」
「言ってねぇ! 言ってねぇ言ってねぇ言ってねぇッッ!!!! なんでそうなるんだよ!! テメーの頭はパ○プンテか!!!!」
ちなみに、マジで1ミリも言っていない。
農夫と村長の絶叫が響き渡る中、ソプラノが慌てて割って入った。
「すみません、すみません……! こいつ話聞き違えたんです……! 弁償は必ず……必ずしますんで……!」
平謝りしながら、ソプラノは金貨の詰まった革袋を差し出した。
こうした事態に備えてソプラノが妖精の豪運を活かし、パチンコで賠償用の資金を調達しているという事実が、この勇者の業の深さを端的に物語っている。
「…………」
勇者はただ呆然と立ち尽くしていた。
必死の努力が、村を救うどころか飢饉の淵に突き落とした。
手を抜いていればまだ畑の半分は残っていただろう。
頑張ったぶんだけ被害が拡大するという、この男の人生を煮詰めたかのような結末だった。
「……お前なんかと関わるんじゃなかった」
最後に農夫は吐き捨てた。
そしてなにより残酷なのは、勇者自身がソプラノに説明されるまで自分の何が間違っていたのか理解できなかったことだ。
―――
☑ 生きづらさ①
女神の口調は、着任した頃とはもう別人だった。
最初は常に笑顔で、親切だった。
ギミックの説明も図解つきで丁寧にやった。
失敗しても「次は気をつけましょうね」と微笑んでいた。
あれから幾つの街が焼け、幾つの依頼が台無しになり、幾人の善意が踏みにじられたか。
今の女神の目は据わっている。
声は低く、言葉は短い。笑顔はとうに消えた。
かつて「勇者様」と呼んでいた口が、最近は「あんた」か「お前」や「アレ」としか言わない。
これを女神の側の問題だと断じるのは酷だろう。
およそまともな精神の持ち主であれば、この勇者の担当を半年も続ければ誰でもこうなる。
前任者は風呂場でリストカットした。
これを思えば、据わった目で「あんた」と呼ぶ程度で済んでいる今の女神はむしろ強靭と言えた。
そしてその日、勇者は四天王の攻略に失敗した。
必須のアイテム……伝説の盾を紛失したせいで。
まぁ、これ自体は珍しいことではない。
「また失敗したのですか……」
四天王のダンジョンの前で、幻影で現れた女神が言う。
死んだ眼で勇者を見つめながら。
「すみません」
「いえ、失敗するのはまだしも。どうして冒険の書を使わないのですか。どうするんですか、マジで。紛失ってもうどうすればいいんですか」
冒険の書。いわゆるセーブポイントである。
女神が持つ記録の魔法陣に冒険の書をかざせば、その時点の状態が記録され、万が一の失敗でもそこからやり直せる。
紛失する前に戻れる。
だがこの男はそれをしてなかった。
「いえ、すみません」
「すみませんじゃなくて」
「すみません、なんか……なくてもいいかなって。後でいいかなって……」
「伝説の盾を取ったあとだよ?! 良くないよ!?!?! お前なら普通になくすよ!?!?!」
「すみません……」
「だっからぁ!! すみませんじゃなくて! 別のこと言ってよお願いだからぁぁ!! ねぇもう、普通でしょこれ! 普通のことをどうしてできないのよぉぉぉ!」
言ってから、女神は自分の口を押さえた。
しかし遅かった。
その一言が、勇者の中の何かを決壊させた。
「ひぃぃ……ずびばぜん……普通のごどでぎなぐで……ずびばぜん……あ"っあ"あ"あ"ぁ"……もうじにだいよぉ……」
鼻水と涙でぐちゃぐちゃになりながら勇者は崩れ落ちた。
普通のことをできない。
その言葉は勇者にとって、幼少期から何百回と浴びせられてきた呪いだ。
教官に、同級生に、親に、そして自分自身でさえ…………何度も勇者にその問いを投げた。
何百回と突きつけられてきた疑問に、勇者は一度も答えを持てたことがない。
「ごべんなざいぃぃぃ、ごべんっなざぁぁぁぁ……! ああああああ……!!!」
醜く泣き叫ぶ勇者を見て。
女神は気が遠くなるような思いだった。
顔を手で覆う。
今すぐ何もかもやめてしまいたい。
虚脱感が抜けない。
「あぁ……もう、死ねよ、クソ…………」
小さな声で、本当に小さな声で言った。
女神は深い溜息をついた。
しばらく動けずにいた。
けれど、それでも仕事を放り出すわけにはいかない。
土くれのように重く感じる脳を動かし、勇者へと語りかける。
「はぁぁ……ではやり直しです。魔王を倒すために聖剣と光のオーブ、三つの伝説の防具を……ってどうせ聞いてませんよね?」
「……聞くつもりはあります」
その言葉についに女神はキレる。
「ねぇからいつもミスるんだろうがぁ!!! しっかりしろよッ!!! タコがッッ!!!」
「すみません……自分が嫌いです……ううううう……………もうやだぁぁ……」
「泣きたいのはこっちだよっ!」
女神の声も震えていた。
着任したばかりの頃の自分がこの光景を見たら、きっと目を疑うだろう。
あの頃はまだ、自分だけはこの勇者を見捨てないと誓っていたのだ。
―――
☑ 生きづらさ②
世界連合軍の将軍は、勇者を呼び留めた。
ある要塞の廊下での一幕である。
「……勇者殿」
将軍の声は低く、重い。
歴戦の軍人特有の、感情を殺した声色だった。
またとんでもないやらかしを犯した勇者に、怒りを抑えて話をしようと考えたのだ。
「あの……俺おかしいんですよ。みんなみたいにできないんです。お、俺は……クズの……不良品だから……アタマおかしいんです……障害者なんです、多分」
だが勇者と言えば、謝罪よりも先に意味不明な言い訳を始める始末。
その言葉が終わるより先に、将軍の拳が顔面に叩き込まれた。
「あなたはなんてことを言うんだ!!! あな……お前は! お前は!!!」
将軍の目は血走っていた。
あなたキャンセルお前から怒涛の説教コンボを開始する。
「お前は不良品なんかじゃない!! やればできるのにどうしてやろうとしないんだ……!!」
「いや、あの……そうじゃなくて」
「そうじゃないもなにもない!! お前は自らの怠惰を『障害』という言葉で正当化してるだけだ!!」
将軍は拳を握りしめたまま、言葉を叩きつけた。
「お前は魔力が誰よりも高い! 魔術も剣術も極めている!! そんな人間がなぜ不良品だというのか!!! 本当に苦しい者たちの心を思いやったことがあるのか!!! みな貴様よりも能力が低くても必死に戦っている!!! 腕をなくしても従軍を続ける者もいる!!!!! 片目をなくしても魔王軍に弓を引き続ける者もいる!!」
止まらない。
勇者は俯く。
「なのになんだ!!!! その言い草は!!!! 彼らに比べてお前が戦うのに少しでも不足があるのか?!!」
まだ止まらない。
勇者はふらついて、壁に手をつく。
「お前がおかしいのは頭ではない!! 心だ!!! 心が腐っているんだ!!!!! わかったか!!!!」
やがて終わった。
勇者は崩れ落ち、壁に背を預けて座り、小さな声で謝罪をした。
「はい…………すみません」
「まったく……先が思いやられる。こんなことで魔王を打ち倒せるのか……なぜこんな者が勇者に……」
将軍はそう吐き捨て、ブツブツと独り言を零しながら廊下の奥へ歩き去っていった。
その背中が見えなくなると、勇者は涙をぬぐった。
膝を抱えて三角座りになり、顔を埋める。
しばらくの沈黙のあと、勇者は顔を上げずに呟いた。
「ソプラノ。起きてる? 俺の勇者学校時代のあだ名、知ってるか?」
「あだ名?」
「うん。『ギリギリアウト』だよ。アウギリとかギリギリとかギリギリスとか呼ばれてた」
ソプラノは黙って聞いていた。
勇者の表情は伺えない。
「俺は頭おかしくて、チビで、ブサイクで、会話が苦手で、友だちいなくて、性格が悪くて、ちっともじっとしてられなくて、片目だけ視力が低くて、忘れっぽいし、つまんないし、怠け者で、肌弱くて、座学も成績悪いし、物事に集中できなくて、空気読めないしすぐ疲れて寝るしドジで忘れっぽい」
勇者は息を吸った。その呼吸は震えていた。
「どれか一つならいいんだろうな。でも減点が多すぎるからそういうあだ名つけられたんだと思う。……要するに、全部差し引いたらギリギリで人間未満なんだって、俺は」
「いじめられてたのか?」
「わからない。同期で一番強かったから……いじめられてはなかったかも」
勇者は膝に顔を埋めたまま続けた。
「でも、バカにはされてた。いつも怒られてたし、毎日教官に殴られてたし、罰でみんなの前で笑い者にもされたし。俺のことみんなバカにしてたよ。隠れもしないで人間未満だって言って笑ってた」
ソプラノは何も言わなかった。何も言えなかった。
「けど正直、バカにされるのはいいんだ。俺がクズなのが悪いんだから。人に迷惑もかけるし……バカにされて当然だって思う。……つまり、俺がつらいのは別のことなんだ」
勇者の声が、わずかに変わった。
自嘲でも自己憐憫でもない、もっと深い場所から搾り出すような声だった。
「俺、人間未満って言ってもギリギリだから。人間みたいに頑張ってみようとか思ったり、周りから何か望まれることもある。正直そういう時が一番つらい。俺にはできないから」
大きく息を吸う。
生まれてきたことを後悔するような、暗く震えた息である。
涙声で勇者は言う。
「だから……ときどき生まれつき足がなかったらいいなって思うんだ。そしたら俺にできないことがあったら諦めついたんじゃないかと思う。俺自身も、みんなも。それで、もしそうだったら俺も足がないだけの人間になれた気がするんだ。足がなくても、心が欠けているよりはずっと良かったと思うんだ」
壁に背を預けたまま、勇者は天井を見上げた。
疲れ切ったように顔を手で覆う。
「……ごめん、すごく失礼だよな」
間があいた。
勇者は自分で言った言葉に押し潰されるように、また膝に顔を埋めた。
「冗談でもこんなこと言っちゃいけないよな。足がない人は俺なんかよりもっと苦労してるのに。足がない人は俺と違って自分ではどうしようもないのに。そもそも足がないだけの人を俺みたいな人間未満のゴミと一緒にしたらいけなかった。やっぱ俺は心が腐ってるのかな。多分そうなんだろうな。いろんなことだって頑張ったらできるんだろうね。そんな気がする。もっと頑張らないといけない。……でも頑張れないんだよ。クズだから。心が腐ってるから。惨めなゴミなんだよ。人間じゃないんだよ俺は。人間に生まれることができなかったんだよ」
最後の方はもう声になっていなかった。
ソプラノは剣の中で、ただ黙っていた。
何を言えばいいのかわからなかった。
慰めも、叱責も、この男には等しく毒になる気がした。
―――
☑ 触れるものすべて不幸に導く
勇者の忘れ物が原因で、ひとつの国が滅びた。
正確に言えば、勇者が届けるはずだった防衛の要――結界石を宿屋に置き忘れたことで、その国の防御結界が起動せず、魔王軍の総攻撃をまともに受けたのだ。
国土は焼かれ、城は崩れ、何千という命が失われた。
「…………」
そして今、勇者は一度、聖なるほこらに戻っていた。
そこで勇者は震えていた。罪悪感で声が出なかったのだ。
ずっと黙っていたが、やがて女神は限界を超えた。
「つ、ついに……国が滅びたよ……! ねぇ、ねぇっっっ!!! わかってんのあんた!!! 自分がなにしたか!!!! ねぇ!!! ねぇ!!! ねぇぇぇぇぇええええ!!!!!!」
金切り声で叫ぶ。
涙と笑いが同時にせりあがる中、まともな考えもなく罵声だけを吐きだす。
「どうすんのっ!!! どうすんのよっっ!!! このクソ野郎!!! お、おおお前どうなってんだよほんとに!!! 死ねよ!! 死ねよ!!!! 死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよおおおおおおおおおお!!!!!!!! いい加減にしろよお前ええええ!!!!!!!」
錐のように鋭い声をあげながら、女神は勇者の顔を引っ掻く。
胸を殴り、腹を蹴りつけた。
小さな拳は勇者にとって物理的な痛みなどほとんどない。
だが彼は一切抵抗せず、されるがままだった。
しばらく殴り続けた後、女神は荒い呼吸を整えながら言った。
「ねぇ、忘れっぽいのは分かったよ。でもなんでメモしないの?」
「……メモし忘れる」
「じゃあ私がメモしてって言うから。その時して」
「どうせ見ないし」
「見ろよ。なんで見ないの? 一日三回でいいよ。三食ご飯食べるときとかに見ればいいじゃん」
「……そういうのはいい」
「よくないから。よくねぇから!!! したほうがいいのはわかるよね?」
「それは分かるけど。俺はどうせできないから」
「そんなのやってみないとわからないじゃん」
勇者の声色が変わった。
これまでの卑屈な、すみませんすみませんと繰り返すだけの声ではなかった。
腹の底から、長い間溜め込んでいたものが噴き出すような声だった。
「……いや、もう……前から言いたかったんですけど」
女神は、怖いと思った。
聞いたら多分理性を保てないと思った。
だってこのゴミが何を言い返せるというのだ。
どんな反論も口にする資格のない男が、一丁前に言い返そうとしている。
見たら確実に気が狂う。
なのに、耳をふさぐ間もなく勇者は続けた。
「正論で詰めてくるのやめてくださいよ。もう死ぬほど失敗してきたからわかるんですよ。もう無理だから。俺は生まれつきこうだから」
予想外、斜め上、宇宙からの使者。
女神の脳内に黄金のファックサインが吹き荒れるイメージがあふれ出す。
朝日を背景に、金の右手が数千ほど、うんこまみれで中指を立てて踊り狂っている。
頭がおかしくなる。
「は、はぁっ?」
処理不可能な情報に、女神は耳を疑う。
勇者はめそめそと言葉を重ねた。
「わ、わ、わかるんですよ、気持ちは。女神さまがむかつくのもわかるし、俺が全部悪いのもわかるし。で、でもさぁ……俺にとっては普通のこともすごく難しいことで…………メモだってし、し、しなきゃいけないのは……分かってるんです、それでミスも減らせるんです」
「なら…………」
なんとか女神は建設的な方向に話を戻そうとした。
しかしその努力を無にするのは、やはり勇者である。
「でもぉッ!! やっぱりミスはするし、人よりお、多いし……怒られるし、つらいんですよ……!!」
勇者の声は震えながらも止まらなかった。
感情の渦が堰を切ったように溢れ出す。
「俺はみんなが普通にしてることを一生懸命頑張らないといけなくてぇ……! たとえばメモだって書き忘れるし見忘れるし、置き忘れるし……ほんとにずっとずっとずっと必死に気を張らないといけないんですよぉ……」
「辛いからやりたくないってこと?」
女神は核心を突こうとした。
されど勇者の言葉は、もうそんな簡潔な着地点へは向かわない。
無限にぐだぐだ、見苦しく、である。
「そ……それだけじゃなくてぇ……ひぐっ……」
嗚咽を挟みながら、勇者は続ける。
もう会話ではなかった。
独白だった。
腹の底に溜まった膿を、止めようもなく吐き出しているだけだ。
「そうやって頑張っても、どうしてもふつうには手が届かなくて……すごく頑張ってるのに!! 必死にメモしてミスを減らしても褒められないし、むしろいつも、おっ、おっ、おっっおこ、られてぇ……!!!」
涙と鼻水で顔面が崩壊している。
まともに発音できていない。
それでも言葉は止まらなかった。
こいつ死んだら黙るかなと、遠のく意識で女神は思う。
「怒られてばっかりでぇ!!! 頑張っても人並みにできたことなんかなくてっ!!! どんなに頑張ってミスを減らしても、一つでもミスしたらまたあいつがやったって蔑みますよね???!!!! それで、どれだけ努力しても結局俺のこと殴るじゃないですか!!!!!!!」
女神は困惑した。
今日、この局面に至るまでは勇者を殴ったことなどなかった。
だが勇者の中では、これまでの人生で受けてきた全ての怒りと暴力が目の前の一人に集約されているのだろう。
目の前の女神も、将軍も、教官も、同級生も、全てが同じ顔をした『怒ってくる人』だった。
「ほげぇッ……! ひぐうっ!」
勇者は床に手をつき、嘔吐くような勢いで叫んだ。
「どんなに頑張っても頑張らなくてもずっと俺は怒られるだけだけじゃないですか!!!! 頑張ったって劣った存在のままじゃないですか!!! ならむしろ頑張れば頑張るほど失敗した時辛くなるだけじゃないですか! 頑張った時ほどミスするとお腹が冷えて泣きたくなるような気持ちになるんですよ……!! 一日中眠くてけだるくて気が散って、それでも頑張ってもいつも怒られるだけなんですよ! みんなこれに耐えてるのかなって思って不安で情けなくて惨めで夜も眠れなくなるんですよ!!! そんなの頑張ろうなんて思えなくなるに決まってるじゃないですか!!!!! 俺が悪いって分かってるから誰にも文句なんて言い返せないし! ひたすら自分も自分を責めるから自分に価値があるなんてもう思えないんですよ!!!! ただ頼むから期待しないでほしい、放置してほしい、見捨ててほしい!!! メモしたって俺はミスするし、あんたはどうせ怒るんだろ!!!!!?????!!!」
女神は鼻血を拭いながら、怒りで震える声を必死に押し殺した。
怒りのあまり左右の鼻から血が止まらない。
「ああもう……そんなこと言わないで? 分かったよ。もう怒らないから。ね? もう少し頑張ろ? 一緒にメモしよう? 一緒に頑張ろ? ほめるから、ね?」
声は優しく、なるべく優しくと気を付けて諭す。
だが声色とは裏腹に女神の鼻血は止まっていない。
血の筋が唇を伝い、顎から滴り落ちている。
怒りと使命感が物理的に同居する、この旅で何度目かの地獄だった。
そんな葛藤を前に、勇者は猿のように叫び続けた。
「だからほんとにもういやなんですって……。もうがんばれないんですよ……どうせ無理なことをずっと怒られながら頑張るなんて嫌なんだよ……!!! 疲れたんだよ……! もうやめでぐれよぉ……!! あ"っあ"っ……!」
「だから怒らないって……」
「もういいっ!!!!!」
勇者の声がほこら全体を震わせた。
壁に据え置かれた聖水瓶がかすかに震える。
そこからは、もう言葉ではなかった。
猿、いや猿未満の奇声だ。
「ほんっっとうにおおおおおおおおおおおおおおおねがいッッ!!!!! 頼むからわがっでよ俺の気持ちもッッ!!! 俺が悪いからってずっと苦しまなきゃいけないの!?!? 好きでこんな風に生まれたんじゃないじゃんッッ!!! 本当は勇者なんかにもなりだぐながっだよ!!!!! 親が!!! 親がッッ!!!!!!!! 勇者学校にさえ行けば俺みたいなゴミクズでも楽に生きていけるって言うから!!!! 行っただけでぇっ!!! ほんとに勇者に、聖剣に選ばれるなんておぼっでながっだんだよおお!!!!!! あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!」
勇者は四つん這いのまま、床に爪を立てて絶叫していた。
石の床に赤い筋が走る。
爪が割れていることにすら気づいていない。
「なのになんで俺ばっかりこんな人生なんだよ!!!! なんで俺ばっかり責められてなんにも上手くいかないんだよッッ!!!! 勇者学校に行ったら、魔王を倒したらって俺はいったいいつ楽になれるんだよ!!!! なぁ!!! なんで俺なんかに期待とか責任ッ負わせるんだよぉぉぉ!! いつまでみんなに馬鹿にされながら頑張らないといけないんだよ!!!! どうしても俺はちゃんとできないんだよ……!!!!! とっくの昔に俺は自分に絶望してるんだよ!!!!!!!!! なぁもうわッッッかッッッッッッたよ!!! もう全部俺が悪いよ!!!! 悪いでいいから!!! ごめんって!! でも頑張れって言うくらいなら殺してくれよ!!!!!! なぁもう頼むからいっそ殺してくれよ!!!!! 俺は不良品だから無理なんだよ! 心が腐った不良品の俺が悪いんだよ! 人間に生まれてこれなくてごめんなざい!!! 全部俺が悪いんだから殺せばいい!!! ほらぁ!!! 殺してくれよ!!! 殺せ!!! 殺せ!!!!!!!! ほら殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ホアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!(発狂)」
勇者は床に崩れ落ち、頭を抱えて絶叫した。
声というよりも、もはや獣の咆哮だった。
言葉が壊れ、意味が砕け、ただ生きることの苦痛だけが音になって噴き出していた。
そして、女神も壊れた。
もう耐えられなかった。
「う、う……………うるさぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああいッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
女神の絶叫がほこらを突き抜けた。
鍾乳石が砕け、聖水の泉が波立ち、壁面の古代文字が光を失った。
もう優しさも、理性も、敬語も、職業倫理もない。
全部捨てた。
今この瞬間、この女神はただの一人の限界を超えた女だった。
とめどない涙に溺れながら、ひたすらに感情をぶつけることしかできない。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!!! もうわだじにどうじろっでいうのよぉぉぉぉぉぉぉ!!!!! じっがりじでよおでがいだがらああぁぁぁぁ!!!!! あんたがじっがりじないどぜがいがおわるでじょうがあああああああああ!!!!!!!!!!!!!! 死ねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! もう死ねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
女神もまた、泣き叫んでいる。
鼻血と涙がぐちゃぐちゃに混ざった顔で、ほこらの床に膝をついて号泣している。
着任初日に『勇者様のお力になります』と誓った清廉な姿は、もうどこにもなかった。
「ホアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」
そのさま、まるで獣の縄張り争いか。
互いがあげる狂乱の絶叫の中で、女神と勇者はほこら中のものを手当たり次第に投げつけ合い始めた。
聖水の瓶が砕けて飛び散り、巨大な十字架の装飾が勢いよく柱にめり込む。
未来を占う水晶が床材を砕き、幾冊もの聖書があいついで宙を舞った。
もう誰が見てもひと目でわかる地獄である。
結局、二人の争いはほこらの中のすべての物を投げるまで収まることがなかった。
―――
「勇者よ。この先の道のりには聖剣と光のオーブ、三つの伝説の防具……それから……コンサータも必要です」
「あっ、やっぱり?」
―――
A お医者さんに相談しましょう
精神科の診察室は、勇者が想像していたよりもずっと普通の場所だった。
白い壁に木目の机。
清潔な室内で、穏やかな顔をした医師が椅子に座っている。
「すぐ気が散るのって……」
「ADHDですね」
「先延ばしするのは……」
「ADHDですね」
「前に覚えたニフ○ムが一度も成功したことがないのは……」
「あー。一応そういう症状も…………ね?」
医師は結構言いなりに薬を出すタイプだったので、即日処方してもらえた。
勇者にとっては僥倖だった。
何ヶ月も待たされて初診を受けて、さらに何週間も検査を重ねてようやく処方、などという流れになっていたら先延ばし癖で二度と来院しなかっただろう。
「じゃあ女神様。ご希望のコンサータ270g錠……は、無理だったので36mgを三十日分処方しますね。処方箋に同封した説明書をよく読んでください」
「270……グラム……? 女神どういうこと?」
ソプラノが問いただす。
女神はにこやかに答えた。
「はい。とりあえず平均的な処方の1万倍でお願いしたのですが……大丈夫でしょうか? 270gって案外少ないですよね」
「ステーキの話するオカンかな?」
その一幕を見て、説明書を眺めていた勇者が口を挟む。
「一万倍は死にますよね?」
オーバードーズの危険性の項目を指さしていた。
医者は女神の手前、はっきりとは頷けずにいる。
難しそうに、ごにょごにょと話した。
「そうですね。まぁ……なんというか……教会でも治らない感じの状態異常になります」
「……すみません、いったん36ミリで」
ソプラノが頭を下げた。
しかし押しのけて女神が身を乗り出す。
真っ暗な目で、破裂した下水道のように呪詛を吐き続ける。
「いーやもうこいつは5キロくらい飲んだほうがいいです5キロくらい飲みましょう朝昼晩食前とラジオ体操前に飲みなさい20キロ毎日飲みなさい拒否権はありません飲みなさい飲みなさい飲め早く飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲め飲んだフリやめろ飲んだフリやめろ飲んだフリやめろ飲んだフリやめろ早く飲め早く飲め今飲め目の前で飲めわたしを苦しめるな」
「だめだ、女神こわれた」
「抗うつ剤も処方しておきますね」
勇者の次の来院と女神のカウンセリングの予約を決めて、初めての受診は終わった。
そして肝心なお薬の効果だが…………間違いなくあったと言えるだろう。
眠気と倦怠感、疲労感、朝に弱い症状がほぼ完全に消えた。
先延ばし癖も改善した。
ムラはあるが全体的に集中力も上がったものの、良くならない症状もたくさんあった。
そして副作用は……目立つものはなかった。
ただ少しだけ喉が渇く。
人によっては食欲不振吐き気不眠頻尿多汗、加えて離脱症状やらなんやらを味わうこともあるらしいがそれは全くない。
もちろん薬がこれから先も同じように効くのか、別の副作用が顕在化しないかはわからない。
しかし今のところ勇者は薬に救われていた。
クズそのもののカス勇者ではあるが、皮肉にも彼にはお薬を飲む才能があったのだ。
しかしいいことばかりでもない。
ある日、受診を終えて外に出る。
すると、街の通りに並ぶ人々の視線が、一斉に勇者に突き刺さった。
好奇と嫌悪と侮蔑が入り混じった、あの目だ。
噂はすでに街中に広まっていた。
「おい、聞いてくれよ。近所の精神病院からあの勇者が出てくるのを見たんだよ」
「ほんと? 怖い……そんな人に勇者が務まるの? 病人が勇者なんて怖いわ」
「実は俺かなり詳しいんだけどさ……精神科の薬ってほとんど麻薬なんだよね。確かに一時的に良くなるけど依存性もあるし副作用の方が大きい。だから医者はまともにカウンセリングせずに薬漬けにすることで儲けようしてるとこがほとんど」
「でもそれ患者も悪いでしょ。そんなものに頼らずに頑張ってる人もいるのに。病人でヤク中って救いようがないやつらだね」
「あの顔……絶対頭おかしいと思ってた。娘が近づかないようしないと」
「ストレートに死んでほしい」
「みんなで#ヤク中勇者でツ○ッターに晒していくか。……うおおお! バズった!」
「勇者というよりは要介護者ですね」
ソプラノは絶句しながら勇者を小突く。
「……言われてるな」
「そうだね」
しばらくしてソプラノはスマホを取り出した。
SNSを確認して、苦笑いを浮かべる。
「#ヤク中勇者と#ヤク中勇者クソコラグランプリってタグ、もうトレンド入りしそうな勢いなんだけど……」
でかい錠剤と融合した勇者のクソコラを見ながら言った。
対して、本人は落ち着いたものだった。
淡々と言葉を返す。
「周りの目は……別に変わらなくてもいい。どんなふうに見られてもいい。俺のことを一番憎んでいたのは……他の人たちじゃなくて俺自身だから」
勇者はこれまで周囲からクソのような扱いを受けてきたが、いつからか他人のことを憎むことはしなくなった。
なぜなら自分がもっとクソだと気づいたからだ。
自分なりに頑張ったとしても、周囲は褒めることなどなく勇者に罵声をぶつけ続けた。
それがずっと辛かった。
周りの人間はいつも、勇者には頑張ってもできないということを理解してくれない。
しかし、そんなことをうそぶく自分はどうだ?
いつも寝坊し、集中して話も聞けず、怠惰で、人を邪魔し、ミスで仕事を増やして、やる気もなく、忘れっぽく、空気を読めず、忘れっぽかった。
考えてみればわかる、こんなクズがいたら人に迷惑をかけまくるに決まっている。
そして迷惑をかけられたのに、他人が勇者のために我慢しなければならないのか?
彼らだって日々を生きるのに精一杯なのに、赤の他人の勇者の心や脳の欠陥までわざわざ気にかけなければならないのか?
……もちろん、そんなことはない。
だから勇者に届く罵声は、どんな言葉であれ自身が振りまいた被害に対するフィードバック、あるいは劣った自分に対する当然の侮蔑だと彼自身は考えていた。
それにどんなに頑張っても……というのはしょせん勇者という怠惰な人間の物差しである。
他人から見ればきっとさして努力しているようには見えないだろう。
だって日中は気だるくてずっと寝てしまうのだから。
なのにその頑張りを理解して汲み取れというのは、明らかな求め過ぎである。
今だって民衆はクソのような扱いで勇者に接しているが、結局は切り取り方でしかない。
勇者がこれまで積み上げてきた不信や不満が今の状況を生んでいると見ることもできる。
彼の怠慢のせいで洒落にならない迷惑を被った人間はこの世界に腐るほどいるのだから。
悪評が流れてきたら速攻でリツイートするくらい仕方のないことだ。
……もちろん、勇者も好きでこんなふうに生まれてきた訳ではない。
だが原因が自分にある以上は世の中を憎むことなどお門違いだ。
だからただ性能が低く、無気力で劣った自分を強く憎んだ。
「これからは……自分で納得できるような人間になりたい。自分を憎まずに生きたい。これからは…………」
少しだけためらう。
しかし、大きく息を吸って、やがて勇者はそれを口にした。
「……まともな人間になりたいね」
そう言って勇者はしみじみと微笑んだ。
ソプラノは、久しぶりに勇者が笑っているのを見た気がした。
でもそういえばこいつ、勇者学校に来たくらいの頃はもっと笑ってたっけなと思い出す。
難関をくぐり抜けて入学し、いくばくかの誇らしさや未来への希望を感じていたのだろう。
入学当初だけは、座学も実技も飛び抜けていたこともあり、自信に満ちた笑顔を浮かべることがあった。
まぁあの頃よりだいぶ弱々しいが……クスリ飲んで、少しは未来に希望を抱けたのかもしれない。
俯いたまま歩く横顔を見てソプラノはそう思った。
「勇者、負けんなよ」
頑張れとは言わなかった。
頑張れ、よりも負けるなと言ってやったほうがいい気がした。
二つの言葉の間にはわずかだが埋められない差があると思った。
負けるな、という言葉は彼が内面に抱える負債を無視しない声援だと思った。
「…………」
ともかく彼女が声をかけると、勇者は驚いたように少しだけ目を見開く。
そして立ち止まったあと、ふと柔らかく笑みを漏らした。
春の日、誇らしげに笑っていた少年の虚像が一瞬だけかぶる。
「ありがとう。負けないように……頑張る」
勇者は言葉の途中で言い淀んでいた。
でも少しの間躊躇ったあと、穏やかに言葉の続きを口にした。
頑張ると言った。
その言葉の重みを知っているからこそ、ソプラノはもう何も言わずに剣の中に姿を消した。
「ソプラノは、なんだかんだ優しいね。俺のせいでいつも……イヤな思いさせてごめんね……」
勇者は、静かに涙を流しながらソプラノに謝罪した。
彼が求められもせず、自分から謝るのは出会ってから初めてのことだった。
「ごめんね、本当。みんなにも、謝りたい、謝りたいな…………」
謝ってもどうせ次できるようにはならない。
今までそう思っていたから、勇者が自分から謝ることはなかった。
同じ過ちが未来に約束されているならば、謝る意味がない。
申し訳ないという気持ちは言葉ではなく自責と自己否定に変えて、鬱屈とした心で生きていた。
しかしそれでも謝ったということは、今の勇者には自分を変えようという意志があるとも言い換えられる。
同じ失敗はしないよう努力する意志がある。
だからこの謝罪はソプラノの声援への答え、彼にとっての"負けないで"の第一歩なのかもしれなかった。
「…………」
やがて俯けた顔を上げ、勇者はまた歩き始める。
魔王を倒す旅はまだまだ半ば。
どうかずっと、薬の効果が弱まらないことを願いながら、よく晴れた空の下で旅立っていく。
バックパックの奥底に大切にしまった、30日分の36mgの心強さとともに。
【悲報】ワイ勇者、ADHDだった・了
ご読了お疲れ様です。
ありがとうございます。
このお話はフィクションですから、急いで症状を抑えないと魔王に世界が滅ぼされるとかでなければ投薬には慎重になりましょう。




