第56話 牝馬の力
その年は、私にとっては「早く」感じられた。
特に宝塚記念で、やっとファイナルフェーズがGⅠで1着を取ってからが、早かった。
リングマイベルは、7月にダートの短距離、GⅢのプロキオンステークスに参戦し、あっさりと1着になっていた。さらに9月にも同じくダートの短距離、GⅢのシリウスステークスで1着になっていた。やはり彼女の実力は本物で、まだ衰えてはいなかった。
一方、この年の秋には、私にとっては喜ばしい出来事が起こる。
かつて、不振により、騎乗機会が激減し、一時は引退まで考えるほどに悩んでいた、川本海騎手。そう、あの海ちゃんだ。
2041年10月13日(日)、京都競馬場、11R、芝2000メートル、秋華賞(GⅠ)。
天候は晴れ、馬場は「良」。
その年の牝馬クラシック戦線では、海ちゃんが主戦騎手を務めていた、スプラウト(牝・3歳)と、マリアンヌ騎手が主戦を務めていた、カラフルボックス(牝・3歳)が熾烈な戦いを繰り広げる、2強体制になっていた。
しかし、牝馬クラシック1戦目の、春の桜花賞ではスプラウトが2着、カラフルボックスが3着。
次の2戦目の優駿牝馬では、カラフルボックスが1着、スプラウトは3着。
そして、雌雄を決する戦いが、ここ阪神競馬場で行われることになった。たまたま、その日は阪神競馬場で騎乗予定があった私は、騎乗レースの合間にこの牝馬クラシックの最終決戦を、ジョッキールームで見ることになった。
「さあ、解説の山桜さん。どう見ますか?」
今回の解説は、元・女性騎手で、現在は競馬解説者の山桜実里という50歳くらいの女性だった。
「そうですね。状態がいいのはスプラウトですが、騎手の実力ではマリアンヌ騎手、つまりカラフルボックスと言ったところでしょうか」
実際、単勝オッズが、それを如実に示していて、スプラウトは単勝2.4倍の1番人気、カラフルボックスは単勝3.2倍の2番人気だったが、ほとんど拮抗しており、優劣がつけがたい状況だった。
(がんばれ、海ちゃん)
かつて、私に相談に来た時には、死にそうなほど落ち込んでいた彼女が、今は牝馬の頂点を決める戦いに出ていることが、私は嬉しかったが、同時に羨ましいとも思っていた。
何しろ、私はほとんど牡馬のクラシックしか出走できていないのだ。
ピリカライラックは、途中で騎手が変わったし、そもそもクラシック時には弱くて出ていなかったし、リングマイベルは、ダートの短距離中心だから、関係がなかった。
(ちょっと牝馬クラシックにも出てみたい)
と思っていたから、これは参考になるレースだと思った。
実際、面白いことに、牡馬と違い、牝馬のレースでは明らかに「小さい」馬も出走してくる。通常であれば、牡馬ならあり得ないほどの300キロ台の馬が出てくることもあり、このレースにも390キロの馬が出走していた。
それ以外にも全体的にやはり、牡馬よりも体つきが小さい。
1枠2番のスプラウト、5枠9番のカラフルボックスがゲートに入る。
レースが始まると、最初からカラフルボックスが躓いてスタートに失敗していたが、すぐに持ち直していた。
スプラウトは、2番手に続く。カラフルボックスは1コーナーを回った辺りでは最後方に控えていた。
そのまま、好位を走っていたスプラウトが3番手を走り、カラフルボックスは道中ずっと最後方にいた。
(カラフルボックスはどうした?)
と思うほどに意外な展開を見せていたが、最終コーナーを回って、最後の直線になると、面白いことが起こっていた。
余裕の体勢で、ハナを切って末脚を見せたスプラウトが圧勝か、と思いきや。
「内内を突いて、カラフルボックスが上がってきた!」
実況の声が興奮しているのが伝わって来たし、観客もざわめきに似た歓声を上げていた。
何しろ、ずっと最後方にいたはずのカラフルボックスが、まるでワープでもしたかのように先頭のスプラウトに一気に迫ってきていたのだ。
まさに、私がかつて見た、シンドウの皐月賞、あるいはリングマイベルの最後方強襲を思わせる、追い込みだった。
ここは、ゴール手前に約120メートルの間に1.8メートルの勾配を一気に駆け上がるという急坂がある。
にも関わらず、残り200メートルを過ぎたあたりで、一気にカラフルボックスが追い上げていた。最終的にはそのままスプラウトが1着、カラフルボックスが2着だったが、上がり3ハロンのタイムは、明らかにカラフルボックスが速かった。
だが、これで私の同期の中では、最も遅くまでGⅠを勝っていなかった、海ちゃんがようやくGⅠ初勝利を挙げていた。
勝利後のウィナーズサークルでのインタビューでは、
「ありがとうございます。この馬で戦ってきて、良かったです」
あの無口で、無表情な海ちゃんが、薄っすらと笑みを浮かべていた。
レース後のジョッキールームに、海ちゃんとマリアンヌが入ってきた。
「おめでとう、海ちゃん」
私が笑顔で声をかけると、彼女は照れ臭そうに、しかしはにかんだような笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
「でも、速かったね、スプラウト。絶対、勝てると思ってたんだどなあ」
マリアンヌは、さすがに悔しそうに、渋い表情を浮かべていた。
「まあ、競馬に絶対はない、ってことだよ」
私が意見を言っても、マリアンヌは全身で感情表現を表していた。
「そうだけどー。悔しい! いい、海? 次のエリザベス女王杯では私が勝つからね」
彼女は、堂々と海ちゃんに宣戦布告に近い、勝利宣言をしていた。
「私だって負けませんよ」
それに対して、海ちゃんが不敵な笑みを返す。
なんだかんだで、この2人がちゃっかり仲良くなって、というかいいライバルになっていることに私は、軽く嫉妬を覚える。
(牝馬での対決ってのもいいものだね)
今はまだ、クラシックに出れる牝馬に乗っていなかったが、いずれ本当に乗りたいとは思うのだった。
秋は深まって行き、次の大レースがやって来る。
ところが。
2041年11月10日(日)、京都競馬場、11R、芝2200メートル、エリザベス女王杯(GⅠ)。
天候は晴れ、馬場は「良」。
3歳牝馬と古馬牝馬の決戦として知られるこのレースに、両者は参戦。
3歳ながらも1番人気は、スプラウトで単勝3.0倍。カラフルボックスは2番人気で、単勝5.3倍。
両者は、もちろん勝つつもりだったし、マリアンヌは闘志を燃やし、前回の雪辱に燃え、海ちゃんもまた負けないように気合いを入れて臨んでいた。
ところが、勝ったのは、どちらでもなく、4番人気の古馬だった。
結果的に、カラフルボックスは2着、スプラウトは5着に終わる。
競馬というのは、わからないものだ。
そして、私にも、次のレースがやって来る。彼女のレースだった。




