第43話 凱旋門賞で輝く馬
そして、その日の騎乗をすべて終え、夜になって独身寮に戻った私は、ネットから、その世紀の一戦を見ることになる。
2039年10月2日(日)、フランス、パリロンシャン競馬場、芝2400メートル、凱旋門賞(GⅠ)。
天候は晴れ。馬場は「稍重」。
凱旋門賞(Prix de l'Arc de Triomphe)は、ヨーロッパのみならず世界中のホースマンが、イギリスダービーやアメリカのケンタッキーダービーと並んで憧れ、その勝利を最大の目標とする世界最高峰の競走の1つとして知られている。
国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表する3ヵ年における年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100 GⅠレース」において、何度も首位に輝き、常に最上位に評価されている。
また、ヨーロッパでの競馬シーズンの終盤に開催され、その年のヨーロッパ各地の活躍馬が一堂に会する中長距離のヨーロッパチャンピオン決定戦とされる。
ここの競馬場の特徴としては、右回りワンターンの2400メートルで、出走後の400メートルは平坦、木立の手前から登りがスタートする。
スタート直後の約400メートルは平坦で、向こう正面では最大斜度2.4パーセントの上り坂が続く。3コーナーを過ぎてからは下りに転じ、1000メートルから1600メートル付近までは600メートル進む間に10メートルを下がるコース設計になっている。
その後、競馬場の名物であるフォルスストレート(偽りの直線)と呼ばれる直線を250メートルほど走り、最後の攻防が繰り広げられる実際の直線は平坦で、その距離は東京競馬場とほぼ同じ533メートル。
この10メートルの高低差は中央競馬の中でもっとも勾配のある中山競馬場(5.3メートル)のほぼ倍に相当する。スタート直後の密集した馬群の中でのポジション争いは熾烈で、勝つためには前半の折り合いも大切だ。
ちなみに、マリアンヌ騎手が言ったように、「最初から世界を目指す」宣言をしていた、ヨルムンガンドは、この年の6月からフランスに遠征。
凱旋門賞の前に、サンクルー大賞(GⅠ)、フォワ賞(GⅡ)(いずれもフランス)をいずれも1着で制していた。
全20頭も出走するこのレース。
注目のヨルムンガンドは、最内枠の1番からの出走で、2番人気だった。鞍上はマリアンヌ・ベルメール騎手。
そして、その最大のライバルと目されていたのが、地元フランスの馬で、モンサンミッシェルという馬(牡・3歳)だった。
何しろこの年のジョッケクルブ賞(フランスダービー・GⅠ)と、アイルランドダービー(GⅠ)という、2つのダービーを制覇していた。
ヨーロッパでは近年稀に見る名馬と評判だった。
ヨーロッパの競馬は、日本のように派手なファンファーレが鳴ることがなく、唐突に始まってしまう。
現地フランスの実況者がフランス語の早口でまくし立てる中、レースが始まるが、日本のような派手な歓声は聞こえず、むしろ馬が芝の上を駆け抜ける大きな足音が響く。
ヨルムンガンドは、モンサンミッシェルと同様に中団の位置につけていた。
レースは淀みなく進み、最終コーナーに入る。
さすがに、最後の直線に入ると、大きな歓声が響き渡る。この辺りは日本と変わらない。
違うのは、英語やフランス語が混じって、よくわからないことだけだった。
そん中、私はパソコンの画面に向かって、思わず声を上げていた。
「すごい! 行け、ヨルムンガンド!」
実際に、この最後の直線で先頭に立ったのは、モンサンミッシェルだった。
だが、徐々に、少しずつだが、ヨルムンガンドが追いかけてきて、その差が縮まっていた。
実況のフランス語が、意味はわからないが、明らかに興奮したように、
「Jörmungandr」
「Mont Saint-Michel」
と連呼していた。
そして、ゴール手前の残り100メートルくらいの地点。
追い抜いていた。わずかながらもヨルムンガンドがモンサンミッシェルをかわして、先頭に立ち、そのままゴールポストを走り抜けた。
「嘘!」
信じられない気分だった。
そう。日本馬が最初にこの凱旋門賞に挑んだ1969年から70年。ついに、日本で調教された日本馬がこの凱旋門賞を制した歴史的な瞬間だった。
日本の馬が、世界一に輝いた瞬間であり、ヨルムンガンドとマリアンヌは熱狂と共に、現地フランスでも賞賛の声を浴びていた。
何しろ、マリアンヌは女性騎手として「世界で初めて」凱旋門賞を勝った騎手になったのだから。まさに歴史の体現者になっていた。
勝利騎手インタビューでは、マリアンヌ騎手が満面の笑みで、流暢なフランス語を話していたが、最後に恐らく、「日本のファンに向けて一言」と言われたのだろう。
今度は一転して流暢な日本語で、
「やりました! 日本の皆さん! ヨルムンガンドは本当に最高の馬です!」
と叫びながら喜びを表現していた。
この時ほど、彼女と友人で良かったと思ったことはなかった。
マリアンヌは、かつて私に話してくれた、ヨルムンガンドの「夢」を本当に叶えてしまった。
それだけでも大したもので、私には「羨望」の眼差ししか向けられないが、それでも私にだって、こういう瞬間を迎えたいという気持ちはある。
あるのだが、現状の担当馬で、GⅠを勝てそうな馬は正直いなかった。
スタートダッシュは、もうピークが過ぎていたと感じていたし、リングマイベルは速いけど、GⅠで勝てるくらい強くはない気がしていた。
唯一、可能性があるとしたら、ミラクルフライト。
だが、そもそも私は騎手を降ろされている。
私は、果たしていつ、GⅠを勝てるのだろうか。一抹の不安を抱えながらも、時は流れていった。




