第41話 逃亡者の走り
函館記念で勝ったことで、スタートダッシュの人気はさらに高まり、そのレース映像がSNSで流れて拡散し、グッズが飛ぶように売れたという。
中央のGⅠのような大レースではない、地方の重賞レースに勝っただけなのに、熱狂ぶりは凄まじく、彼は「超個性派」競走馬として、不動の人気を確立してしまう。
私にとっては、本来、ミラクルフライトこそがこうあるべきだ、と思うほどの人気だったが、とは言っても自分が乗る以上、嬉しくはあった。
そして、次のレースが、さらに凄かった。
2039年9月26日(日)、中山競馬場、11R、芝2200メートル、オールカマー(GⅡ)。
天候は曇り、馬場は「良」。
このレースにおいて、やはり一番の問題と私が危惧していた、強豪が出走していた。
ブレイヴソング(牡・4歳)。
昨年の菊花賞を制した馬で、天皇賞(春)こそ怪我で回避していたが、次の天皇賞(秋)では、絶対的な優勝候補と目されていた。
その驚異的な末脚には定評があった。単勝1.6倍の1番人気だった。これが6枠8番に入る。鞍上は長坂琴音騎手。
一方で、前走の函館記念で驚異的な逃げを演出した、スタートダッシュは、単勝7.0倍の3番人気だった。7枠11番からの出走。さすがにブレイヴソング相手では分が悪いと見られていたため、人気が落ちていたのだ。
中山競馬場の芝2200メートル。すでに何度も戦っている舞台で、「逃げ」や「先行」が有利とされるこの場所で、「伝説」が生まれようとしていた。
当日は、GⅡとは思えないほどの大観衆が、中山競馬場に詰めかけていた。
その彼らのお目当てが、ブレイヴソングであり、そしてスタートダッシュだった。全14頭による、熾烈な戦いの始まりだ。
レースの開始早々から彼は「飛び出して」いた。
あっという間にハナを奪うと、1コーナーに突入。その後はぐんぐん引き離し、1200メートル通過タイムが58秒台くらい。
2番手にはこの時点で6~7馬身も差がついており、さらに2番手から3番手までも同じくらい差が開いており、その後にやっとブレイヴソングがいるという有り様だった。
しかも道中の3コーナーあたりになると、もう完全に「一人旅」になっていた。一体、後続に何馬身開いているのか、私自身がわからないほど、馬の気配すら感じないくらいの猛烈な「大逃げ」だった。
その間、場内からは騒然とした歓声と、大きなどよめきが沸き起こっていた。
そして、ついにこのスタートダッシュだけが、最終の4コーナーを回っていた。他の馬に迫られているという感覚がまるでなかった。
残り200メートルを切っても、まだ2番手とは5~6馬身は開いているという、完全なセーフティーリード。
肝心のブレイヴソングも4番手まで上がってきたが、それ以上は来る気配もなかった。私はゴール近くなって、ようやく少しだけ鞭を使っていた。
そして、あっという間に、他の馬の影すら見ずに、完全に「一人旅」のままレースを終えてしまった。2着との差は5馬身もあった。
瞬間、割れんばかりの大歓声が上がっていた。
「スタートダッシュ、よくやった!」
「こんなレース見たことねえ!」
「感動をありがとう!」
浴びせられる賞賛の声は、とてもGⅡとは思えないほど大きなものだった。
刈屋調教師は、私の手を握り、
「ありがとう、ありがとう!」
と何度もお礼を言って、涙を流していた。
刈屋厩舎にとって、これが初めてのGⅡ制覇だったこともあるが、そんなに感謝されると恐縮だが、私は、直感的に感じていたことを彼に告げていた。
「スタートダッシュにとって、ここが絶頂かもしれません」
「どういうことですか?」
さすがに鋭い瞳で、睨まれていたが、
「いえ。気にしないで下さい」
失言をしたと後悔した。
実は私には、この馬はこれ以上「勝てない」気がしていたのだ。この走りは結構無理があるのだ。その証拠に、スタートダッシュ自体が、レース後にかなり疲弊していたのがわかったからだ。
レース後の後検量を終えて、ジョッキールームに行くと。
「もう、何なの、あの馬!」
珍しく、というか最初に出逢った頃のように、長坂騎手が怒ったように、吠えていた。
「ツンデ……」
言いかけて、咄嗟に言葉を噤んでいた。つい、癖で「ツンデレ天使」と呼ぶとところだった。
「誰がツンデレよ!」
と、吠えている彼女を見て、不覚にも私は笑いそうになったが、
「すみません、長坂さん。速いですよね。とんでもない速さでした。これがあの馬の完成形です。でも、これ以上は勝てない気がします」
確信めいたことを呟く私に、彼女は、
「どうしてそんなことがわかるのかしら?」
と尋ねてきた。
「そんな予感がするんですよ。ある意味での『頂点』が今なんです」
「そう。まあ、ブレイヴソングはこれからの馬だからね。こんなレースで負けたくらいで諦めないわ」
相変わらず彼女は強気だった。
「後で、レースを改めて見直してみるといいわ」
それだけを言い残して、彼女は慌ただしく去って行き、次のレースに備えるようだった。
実際、このレースは凄かった。
その日のレースがすべて終わり、夜に独身寮に帰ってから、私は実況中継をネット映像から見た。
「スタートダッシュの見たこともないような大逃げ。15馬身、いや20馬身近くは引き離しています。信じられないくらい、大きく引き離して逃げています」
実際、実況を見ていると、画面の右端にいるスタートダッシュから、2番手の馬までが画面に入りきらないくらいに、開いていた。
騎手として、馬を操っている間は、客観視できないからわからないが、改めて映像としてみると、確かに凄かった。
赤いメンコだけがひたすら異次元の走りを見せているように見えるのだ。こんなレースは見たことがなかった。
しかも最終コーナーを回っても、脚色が衰えないのだ。
「逃亡者、スタートダッシュ! 今、ゴールイン!」
それを聞いて、私は、自室でコーヒーを飲みながら映像を見て、自然と笑みをこぼしていた。
(確かに逃亡者だ)
そう思っていたのは、彼の性格から来るものだった。
スタートダッシュは、ゲート入りを嫌がるのはもちろん、馬群にもまれるのも極端に嫌うのだ。
元々、「一人がいい」という、孤独を愛している猫のような性格の馬だったから、レースをしていても、馬にもまれるとストレスを感じるらしかった。
その意味で、彼の脚質は「逃げ」以外に選択肢がなかったのだろう。
そして、私の言葉通り、このスタートダッシュの全盛期はここで終わり、その後、二度と栄冠を手にすることはできなかったのだ。
それでも、この瞬間だけは、スタートダッシュは誰よりも「輝いて」いた。




