第36話 常識を超えた馬
ミラクルフライトが、「ミラクル(奇跡)」を呼ぶことができないうちに、ちょっとした奇跡を呼ぶかもしれない、と私が予想していた馬が出走した。
2038年11月28日(日)、東京競馬場、12R、芝2400メートル、ジャパンカップ(GⅠ)。
天候は晴れ、馬場状態は「良」。
鮮やかな秋晴れ、しかし冬に近く、西日がだいぶ傾いてきた、15時40分の出走となった。
私と海ちゃんは、その時、運よくこの東京競馬場にいた。
私は、その日、3レースほどに騎乗していたが、もちろんこの時間は騎乗せずに空いていたし、海ちゃんは、そもそも騎乗機会が減っていたから、その日はかろうじて1レースしか出走がなかった。
互いにジョッキールームで、並んで、椅子に座って、テレビ画面に集中した。
その年のジャパンカップは、世界から強豪がやって来ていた。欧州最強の3歳馬で、すでにその年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと凱旋門賞を制していた、アンダーシャフト(Undershaft)(牡・3歳)がいたし、さらに牝馬でありながらアメリカのブリーダーズカップ・ターフを制していた、レッドフラクション(Red Fraction)(牝・4歳)という馬までいた。
まさに「世界との戦い」の様相を呈していたこの一戦。
一方、出走する日本勢の中で、最も注目されていたのは、この年のクラシックを賑わせた馬だった。
堂々の単勝1.5倍の1番人気は、8枠14番のアンダーシャフト。欧州三冠にはあと一歩届かなかったが、それでも世界レベルの強豪だから納得できるオッズだった。騎手はフランス人騎手。
単勝3.2倍で2番人気は、5枠9番のハイウェイスター。クラシックでは日本ダービーを制している。鞍上は武政修一騎手。
そして単勝5.9倍の3番人気は、私が期待していたヨルムンガンド。鞍上はマリアンヌ騎手。
単勝8.2倍の4番人気は、レッドフラクションだ。騎手はアメリカ人騎手。
その世紀の大一番。
解説は、前にも見た元・騎手の氷室龍だった。
「氷室さん。今年のジャパンカップ、どう見ますか?」
司会兼実況の若い男が尋ねる。
「そうですね。状態がいいのは、ハイウェイスターでしょう。素晴らしい出来です」
と手放しで褒めていたが、私の感想は違っていた。
(いや。ハイウェイスターは来ない。クラシックでダービー1勝だし、地力が違う)
地力が違う、と私が見ていたのが、ヨルムンガンド、そしてマリアンヌ騎手だった。
何しろ、ヨルムンガンドの「勝ち方」が圧倒的だったからだ。
デビュー戦が7馬身、次が9馬身、初の重賞となった共同通信杯で2馬身、以降もニュージーランドトロフィーで3馬身、初のGⅠとなったNHKマイルカップで3馬身と、いずれも2着に大差をつけて勝利している。
つまり、これまで一度も負けていないし、どれも圧倒的な勝利だった。
この馬がクラシックに来なかったことが「幸運」だと思うほどに、次元が違う強さを見せつけていたし、私が一番すごいと思ったのは、ヨルムンガンドは、芝もダートも関係なく勝っていたことだ。
競馬の「識者」たちは、「マイル戦ならともかく、この馬に2400メートルは無理」と言っている連中が、確かにいたのは知っている。
だが、私は「確信」に似た気持ちを持っていた。相馬眼なのか、それともマリアンヌを信じていたからなのかはわからなかったが、とにかく、
(この馬に、距離は関係ない)
とすら思っていた。
芝、ダート、距離適性、さらには天候による馬場状態。あらゆる条件を度外視して、「化け物」のような強さをこの馬は持っている、と私は見ていた。
だからこそ、ここで起こるはずの「奇跡」を彼女に見せてあげたかったのかもしれない。
ファンファーレが鳴って、各馬が一斉にゲートに集まる。
いよいよ出走だ。
出走してから、まずは「逃げ」と目されていた馬が、ぐんぐん引き離してハナを切るが、ヨルムンガンドは、前目の3番手くらいにつけていた。
一方、そのすぐ後ろにハイウェイスターがいた。
外国からの招待馬でもある、アンダーシャフトは2番手、レッドフラクションは6番手くらい。
じっと足を溜めるように、動かず、ペースとしては平均ペースだった。
そこから府中の大欅を見ながら、3コーナーから4コーナーに入ってくる。
そして、私はその瞬間を、海ちゃんと並んで見ることになる。
直線に入ってからは、一気にハイウェイスターが伸びてきて、続いてアンダーシャフトも伸びてきた。逆にレッドフラクションは伸びなかった。
だが、その「追い込み」をかわし、一気に先頭に立って、さらにそれら強力な馬を、まるで子供のように「あしらって」しまって加速していたのが、ヨルムンガンドだった。
「ヨルムンガンドが来た! すごい脚だ!」
実況の声が絶叫に近いくらいに興奮していた。それくらいの驚異的な末脚だった。
恐ろしいほどの脚色で、最終的には2着のアンダーシャフトに2馬身半も差をつけてゴールイン。
「勝ったのはヨルムンガンド!」
大歓声と、絶叫にも似た、実況アナウンサーの声とが重なって、場内が騒然となっていた。
これで、ヨルムンガンドはデビューから負けなしの「6連勝」となった。2着は欧州の雄、アンダーシャフト。ハイウェイスターは3着、レッドフラクションは6着となった。
(やっぱり物が違う。恐ろしい馬。歴史を変えるかも)
そう思っていると、海ちゃんは、驚愕したかのように、じっとヨルムンガンドを見つめ続けていた。
その後、勝利者インタビューで、マリアンヌ騎手がこんなことを言っていたのが、特徴的だった。
「パーフェクトな馬ですね。芝、ダート、距離、馬場。この仔にとっては、ぜーんぶ、関係ないんです」
その満面の笑顔を見て、海ちゃんが呟いた。
「羨ましい……」
と。
もちろん、自分が乗れないことを考えての発言だろうが、私は間髪入れずに彼女の発言の真意を汲み取る。
「羨ましいってことは、まだ海ちゃんは競馬が好きなんでしょ?」
「えっ」
「だって、そうでしょ。羨ましい=私も乗りたいってことでしょ?」
「そう……なんですかね」
「そうだよ。今はツラいかもしれないけど、がんばって。だって、ミラクルフライトをあれだけ勝たせてあげられない私が、もがきながらも、まだ騎手やってるんだよ。海ちゃんが辞めるのはそれこそもったいないよ」
私の一言に、彼女は俯いて、熟考するように、寡黙で落ち着いたような瞳を床に落としていた。
だが、ややあってから、彼女は弱々しい笑みを口元に浮かべ、小さな声で口にしたのだ。
「……ありがとうございます、優さん」
「水臭いよ。私で良ければいつでも相談に乗るから」
「はい。もうちょっとだけ続けてみます」
「うん」
「それと」
「何?」
この時の彼女の言葉は、私には「忘れられない」ことになるのだった。
「優さんは、やっぱり弱くないです」
「どうしてそう思うの? だって、ミラクルフライトは……」
「優さんもミラクルフライトもきっと、大器晩成型なんですよ。がんばってれば、結果はいずれついてきますよ。私はいつまでも応援してます」
励ましていたはずなのに、逆に励まされていた。
敵が多いと思っていた、この競馬界に飛び込んできて、4年。
私にとって、彼女こそが「真の味方」なのかもしれない。
だが、私にとっての「試練」はまだまだ続くのだった。




