第34話 最後の一冠
あれよあれよという間に、ついにやって来た。
クラシック最後の一冠を決める、運命のレースだ。
2038年10月24日(日)、京都競馬場、11R、芝3000メートル、菊花賞(GⅠ)。
天候は晴れ。馬場は「良」。穏やかな秋の晴天に恵まれた一日だった。
俗に「最も強い馬が勝つ」と呼ばれるこのレースは、クラシックで最も距離が長い。おまけに京都競馬場には、有名な「坂」が待ち構えている。
その有名な坂は、3コーナーにある、高低差が4.3メートルの坂で、2周目のこの部分が勝負所と言われる。ここでペースが一気に上る。
最後の直線は、404メートルとやや長めだが坂の無い平坦なコース。
そして、このレースでは、ある「騎手の技術」が生きることになる。
俗に、競馬では「馬が7割、騎手が3割」と言われることが多い。これは「馬の力が7割」に対し、「騎手の力が3割」ということになるが、このレースではその3割が3割以上の力を発揮することになる。
1番人気は、単勝1.5倍のハイウェイスターで8枠18番。鞍上は武政修一騎手。2番人気は、単勝4.1倍のイェーガータンクで2枠2番。鞍上は前回と同じく大林翔吾騎手。そして、3番人気が、単勝10.2倍の5枠10番でミラクルフライト。鞍上は私。
そう。まだ3番人気をキープしていたが、だんだん人気が落ちてきていて、倍率が上がっているのが、最近の彼を象徴していた。
だが、私もプロの騎手である以上、周りがいくら強くて、経験者が多いとはいえ、最初から負けるつもりなんてない。
それに、2年前のシンドウの菊花賞を思い出していた。あの時、彼は3コーナーの途中から、超ロングスパートをかけて、最後の一冠を見事に取って、2冠を達成していた。
この年の菊花賞においては、その2冠の可能性があるのは、皐月賞を制したイェーガータンク、日本ダービーを制したハイウェイスターしかない。
(せめて、私がヒールになって、防げれば)
ダメ元でもいい。ミラクルフライトが、「ミラクル」と呼ばれる所以を発揮し、最後の一冠を彼らに取らせることを阻止したい。
そんな思いがあり、恨まれる「悪役」になってもいいと思っていた。
GⅠのファンファーレは、関西バージョンの物になる。
ゲート入りの前に、ミラクルフライトは少し落ち着きがなく、嫌がっていたが、ゲートに入ると、途端に落ち着いていた。
そして、全18頭による運命のレースが始まる。
スタートしてからは、各馬が「かかり気味」だった。それはミラクルフライトはもちろん、ハイウェイスターも同様で、ほとんどの馬がかかり気味に突っ込んで行く。
だが、そんな中、ハナを切ったのは、イェーガータンクだった。
元々が、「逃げ」の脚質を持つ馬だから、不思議はなかったが、予想の範疇を越えていたのは、その「ペース」だった。
(速い。常識的にあり得ない。バテるに違いない)
と、私はもちろん、ほとんどの騎手はそう思っただろう。
実際、先頭のイェーガータンクにまたがる大林翔吾騎手は、一体何を考えているのか。3000メートルの長距離レースでもある、この菊花賞で、稀に見るような「大逃げ」に近い戦法を取った。
2番手までは3馬身以上離れていたし、1000メートルの通過タイムが、59秒6という超ハイペースだった。誰だって「バテる」と思うくらい、3000メートルの走り方ではなかった。
だが、それこそが、ベテランの大林翔吾騎手の「作戦」だった。
実際、彼は1000メートル以降はペースを落として、次の1000メートルの通過タイムが64秒3だった。
しかも、3コーナーの坂を下り、4コーナーに差し掛かる手前。
(再加速した!)
まるで、一旦落ち着いたスポーツカーが、ニトロブーストでもかましたかのような「2段ロケット」のような急加速によって、芦毛の馬体、イェーガータンクが2番手を5、6馬身も突き離したのだ。
それに対し、ようやく最後の直線で、外から追い込んでいったのが、ハイウェイスターだった。
だが、残り400、300、200メートルと過ぎても、まだ追いつけない。
それほどまでに圧倒的な速さだった。
イェーガータンクが、先頭でゴール板を駆け抜けていた。
2着は、ハイウェイスターだった。
しかも、勝ちタイムが恐ろしかった。
(3分0秒57!)
日本レコードタイムだったのだ。
肝心のミラクルフライトは、というと最後の直線辺りまでは良かったが、そこから急に失速していた。
結果的には、全18頭のうちの、15着。
もはや、彼らライバルの足元にも及んでいなかった。彼にとって、最も屈辱的な負けを喫したレースになる。
さすがに終わった後、
「引っ込めや!」
「もう終いや。代れ!」
関西の観客たちに、私は散々、野次を浴びせられていた。
さすがに、私でもショックは大きい。
そんな中、2冠を達成したイェーガータンクの騎手、大林翔吾騎手が、勝利者インタビューに立つ。
「いい馬です。なんだか友達みたいな馬。妙に人間っぽいんです」
と不思議なことを言っていた。
確か、以前、大林凱騎手から聞いた話だと、「馬が好き」という気持ちを、彼も持っているらしい。
その意味では、山ノ内昇太騎手や長坂琴音騎手より、私に近いだろう。
だが、もちろん悔しいのは、悔しい。
何しろ、結果だけ見れば、この黄金世代の中で、「最も血統が悪い馬」と言えるそのイェーガータンクがクラシック2冠を達成しており、逆に「最も血統がいい馬」と言えるミラクルフライトが、1勝も勝てていないのだから。
しかし、競馬とはわからないものだ。
何しろ、イェーガータンクは、ここが「絶頂」だったのだから。後は落ちていくだけだった。




