鬼女の涙
夏の盛り、私は常滑市小鈴谷の湯本館の裏山の坂道を登っていた。道幅は1メートル程しかない。勾配がきつい。百メートル程登る。息が忙しい。ほっと一息つく。後ろを振り返る。下に湯本館の建物が見える。冷泉を沸かしている。1度宿泊した事がある。湯がぬるい。泊ったのが冬だ。寒くて温泉気分を味わえなかった。料理も上手くなかった。
眼を西の方に向ける。伊勢湾が拡がっている。天気が良い。雲1つ無い。青々とした空が清々しい。海も穏やかだ。遙か四日市港の方に鈴鹿の山々が、くっきりと見える。
北の方に”ねのひ”の工場が見える。ソニーの創業者の出たところだ。
「あと一息」気持ちを引き締めて登る。10メートル程行くと、台地に出る。東の方に木道の平屋がある。
毎日の上り下りは大変だ。そんなことを思いながら、目的の家に向かう。
平成17年8月、友人から、不思議な体験をした人がいるそうだ。との情報を得た。幸いに住所と名前を聞くことが出来た。電話帳を調べて電話する。
「不思議な体験をした人の話を集めている」正直に伝える。
電話口の向こうから、戸惑った様子がうかがえる。しばらくの沈黙の後「よろしいですよ」了解の返事を貰う。
時刻は10時少し前、家の前は広い。
野菜や花などが植わっている。西の方は、伊勢の海の絶景が拡がる。南の方に野間の灯台のある富具崎が見える。北の方に、飛行場がかすんで見える。飛行機の離発着が小さく見える。
玄関先に着く。家は相当に古い。窓はシルバーのサッシだが、塩のような錆が浮いている。壁は杉板。
「こんにちわ」玄関の引き戸を開ける。畳一枚分のポーチ、上がり框の奥は廊下、右手が応接室。左手が和室となっている。廊下の壁はじゅらくの壁、うぐいす色だが、所どころ土の地肌が剥き出しとなっている。
「はーい、どうぞ」声と共に廊下の奥の、のれんをかき分けて背の高い男が顔を出す。和室のガラス戸を開けて中に招き入れる。6帖の部屋の中央に、コタツ用の長方形のテーブルが置いてある。クーラーが効いていて気持ちよい。部屋の片隅に茶箪笥がある。
男は奥の台所から魔法瓶と湯呑を持って入ってくる。
「こういう者で・・・」私は腰を低くして名刺を差し出す。
――山本不動産、山本浩――
「ほう、不動産屋さん・・・」男は名刺と私の顔を代わる代わる見る。
「ええ、趣味で、世にも不思議な体験をした人の話を集めては、本にしとりますので」
男はそれ以上の詮索はしない。お茶を入れながら、人がいないので、自分1人で大変だとか、ここは夏は涼しいが冬は風が強くてたまらんとか、ぽつりぽつりと話す。
・・・話下手なのかしらん・・・
私は男を観察する。年の頃35,6。7,3に分けた髪に脂気がない。顔の艶も悪い。半袖のワイシャツを着ている。顔は長く、目が大きい。鼻が長く、唇が薄い。頬がこけて、表情が寂しい。話をするたびに眼を伏せて、小さな声で喋る。
男の世間話が終わる。
「すみません、瀬田さん、お話の方、お願いできますか」
山本は不動産の営業をやっている。相手の息に合わせて話をするのがうまい。
「ああ、すみません、どうでもいいことばかり話しまして」
瀬田は膝を崩す。喉を鳴らしながらお茶を飲み込む。
2年前の事でした。瀬田は言葉を選びながら喋る。
平成15年の秋、名古屋栄の松坂屋へ出かける。
「彫刻展の展示即売会がありました」瀬田は眼を伏せて喋る。
「私の作品も展示してありまして・・・」
「ほう、彫刻をやられるんですか」
「ええ、彫刻師ですから・・・」
ここで初めて瀬田の職業を知る。
「何を彫るんですか」
「仏様・・・」
「じゃ、仏師・・・」
「そんな大げさなもんじゃ・・・」声が小さい。
「いやあ、仏師なんて、すごいじゃないですか」
私は褒めちぎる。瀬田は顔を上げて私を見る。顔が紅潮している。子供のようにはにかんで、眼がうるんでいる。褒められて嫌な顔をする人はいない。
「常滑で陶芸家は多いんですが、仏師はねえ・・・」
珍しい存在だと、私は言いたかった。
「いえ、生まれは和歌山でして、数年前までは奈良におりました」
瀬田は私の顔を穴の開くほど見詰める。褒められて、自信がついたのか、舌の回りが良くなる。本題から脱線する。
生まれは和歌山県、大地主の次男として生まれる。22歳の時、結婚、親から貰った財産は1億円。3年後離婚、慰謝料として5千万円支払う。離婚は相手側からの申し出。一緒に暮らすのが嫌になったから別れたい。
離婚の理由にはならないし、慰謝料を出す必要もないのだが、瀬田は気前よく払ってやる。相手が再婚しても生活の困らないだろうという配慮である。
「甘すぎる」周囲から瀬田に非難が集中する。彼は動じない。
「すごい女ですな」私も相手の女をなじる。瀬田を持ち上げるためだ。
「彼女の悪口は言わないでください!」瀬田は険しい表情で私を見る。
・・・おや?・・・腹の中で私はうろたえる。
「彼女がもっと慰謝料が欲しいと言ったら与えるつもりだった・・・」慈しむような眼つきになる。
しばらくの沈黙の後、
それから伝を頼って奈良に出る。仏師に弟子入りする。本来器用なのか、めきめきと上達する。
親方は名のある仏師だが、女にだらしがない。金が入るとバーに入れ込む。瀬田も一番弟子として連れて行ってもらう。そこで女と知り合う。親方の許しを得て、アパートを借りて同棲生活を送る。女の方に男が出来、住まいの家財道具、預金通帳を持ってトンズラしてしまう。
「それ!警察だ!」親方は息巻く。瀬田は笑ってかぶりをふる。
「もし彼女が、私の命も欲しいと言ったら、喜んであげました」
今でも女を愛しているという。その表情はにこやかである。
・・・どういう性格なんだろう・・・私は呆れて瀬田を見る。
常滑に来たのは3年前だという。
それから――と瀬田の舌ベラは脂がのってくる。
「瀬田さん、松坂屋の展示会ですが、どのような仏像を」
私は頃合いを見て、話しを本線に戻す。
「菩薩立像ですが・・・」話の腰を折られて、瀬田は戸惑いの表情になる。根が正直なのだろう、私の誘導尋問にすらすらと乗ってくる。
愛知、岐阜、三重の各方面から彫刻師が出展する。好事家や仏教関係者らが参観に訪れる。絵画と同じように将来大成しそうな新人を発掘して、作品に投資する。
この展示会で、瀬田は1人の男と出会う。彼は材木商だが、仏師の為に、仏像用の材木を供給している。仏師とって、材木は生命である。筋の荒い木は長い年月に割れる恐れがある。筋が真っ直ぐで緻密なのが最高である。
「私、飯田から来ました」渡された名刺には野田耕一、材木卸問屋とある。仏様用の材木が豊富にあるから、一度来ないかという。仏像の買い手も紹介するというものだ。
行きたいが、手元にお金がない。どうしたものかと思い悩んでいた。
「幸い、私の作品が売れましてね」瀬田は得意満面である。
「いくらで?」私は商売柄値段を聞く。
「百万円」
「すごいですなあ」私の正直な感想だ。
瀬田はにこりともしない。
「半年かかったのですよ。仏様一体作るのに」
半年働いて百万円だというのだ。
仕事場が高浜にある。数名の仏師が寝食を共にしている。いったん仕事場に入ったら、寝食以外は制作に没頭する。テレビもなければ酒もない。
畏れ多くも、仏様を彫るのだ。魂を入れて、木のノミを入れる。彫るのではなく、木の中から仏様を取り出すのだ。その作業に気を休めない。一気呵成に仕上げていく。半年かかろうと一年かかろうと手を手を抜かない。
瀬田の声は熱い。一つのものを得るために全身全霊を打ち込む姿がある。
それから1ヵ月後の平成15年10月中旬、瀬田は長野県飯田市に行く。中央自動車道飯田インターで降りる。野田耕一から案内図を貰っている。
「もし道が判らなかったら・・・」別れ際、野田は頼りなさそうな瀬田を見る。
――飯田インターを降りると、飯田産業振興会館の矢印の看板がある。それを見ながら来るとよい――
野田材木店は振興会館の側にある。看板も立っている。
・・・それでも判らないようなら、アホだ・・・野田の顔に書いてある。瀬田は苦笑したものだ。
常滑を出発したのは午前8時、走行距離15万キロのカローラ。カーナビなどない。行き行き、人に道を尋ねながら名古屋インターに入る。途中休憩を取って、飯田市内に入ったのが午前11時。野田の忠告通りに車を走らせる。
飯田市街に入る。一旦JR飯田線の踏切を渡る。
料亭満津田で鯉めしを注文する。
・・・ここの鯉めしは天下一品だ・・・野田から飯田に来たら、是非食べろと言われている。観光名所なのだろう、大駐車場に大きな看板が目立つ。
午後1時、昼食を終える。JR飯田線の踏切を超える。中央自動車のガードをくぐる。
・・・飯田は常滑の町よりも大きい・・・妙な事に感心する。
材木店が点々としている。林業が盛んなのだろう。
県道を北上する。しばらくすると滝野沢公園に出る。公園の隣が産業振興会館だ。大きな入母屋の建物だ。駐車場に十数台の車が停まっている。
百メートル程行くと、妙琴キャンプ場と松川ダムの矢印の看板が目に付く。その下に畳1枚程の看板がある。
――野田材木店入口――風雪にさらされて、文字が薄れている。
野田材木店入口の矢印に沿って左折する。砂利道が百メートルばかり続く。ハンドルが左右に揺れる。周囲は雑木林。道が切れる。前方に杉板の壁で覆った工場が聳えている。2階建ての大きな建物だ。製材工場のようだ。
工場までの敷地は広々としている。千坪はあろうか。工場の前には丸太や分厚い板が所狭しと山積みされている。右手に事務所が見える。
空き地に車を止める。事務所は2階建てで住まいと兼用のようだ。前面ガラス張りで、事務所の中が丸見えだ。玄関の自動ドアを開ける。誰もいない。
声をかけると、奥の社長室から野田耕一が姿を現す。事務服を着た、人なつこい表情だ。
「やあ、お出迎えもせずに・・・」平身低頭で応接室に招き入れる。
お茶を勧められ、しばし休憩。野田は、ここまでの道程を尋ねたり、すんなりこれたのかと、ベラベラと喋る。
「早速ですが・・・」お茶を飲み終わった瀬田は恋人にでも会うような顔つきになる。
「そうでしたな」野田は如才なくソファから腰をあげる。
応接室を出る。事務室はスチールの机が4つ田の字型に並んでいる。机の上にはパソコンや電話がある。右手に階段がある。
2階は百畳ほどの広さがあろうか、丸太や板、角材などが無造作に置いてある。
「これが桧、こっちがケヤキ、これが白樺・・・」
国内産のあらゆる木材がそろっている。展示場のような趣がある。
「まあ、仏像は桧が一般的ですが・・・」
こちらは輸入品だと見せたのが黒檀や白檀、瀬田の収入では手に入る代物ではない。1千万円以上する仏壇に使われる。
瀬田はグループ仲間と共同で三河の方から材料を仕入れている。値段を尋ねると、自分たちの仕入れ値より安い。
後日仲間と一緒に再訪問を約す。携帯電話の時刻を見る。午後2時。まだ時間があるので、他の材木屋を当たってみようかと計画を腹案する。
瀬田の思案を知ってか知らずか、野田は、お仲間を紹介すると、瀬田の顔を覗く。
「お仲間・・・」瀬田は焦点の定まらぬ眼で野田を見る。
「彫刻師、仏師ですわ」
野田は言う。今、産業振興会館で長野県、山梨県などから集まった彫刻師の作品展が催されている。名刺交換でもして、親交を深めてはどうか。自分の知り合いが沢山いるから紹介する。
瀬田は1も2もなく承諾する。
30分後に出発することになる。その間お茶でも飲みながら四方山話に花を咲かせる。
野田はふと思いついたように声を落とす。
「あなたの作品、ずいぶん女性的ですな」
松坂屋で展示した菩薩立像が観音像と間違える程、きれいな顔をしている。美しいい、品格がある。
――慈悲観音のようだ――野田の批評である。
「これが好きですかな」野田は小指を立てる。にっと笑う。
「はあ、好きですが・・・」野田は真面目に返事をする。
「いや、結構、女を抱くのは男の甲斐性ですからな」
瀬田は黙って聞いている。
・・・意味が違うが・・・思わず口から出かかった。ぐっと喉に押し込む。
野田の店から産業振興会館まで徒歩で5分。野田を車に乗せて会館まで走る。
宏大な駐車場に数十台の車が停まっている。
産業振興会館は2階建てのガラス張りだ。1階部分だけで3百坪はあろうか。飯田市の産業の全てが展示されている。
ここ、2週間は飯田近辺の特産の木、主に白樺や桧材で細工した物産展が開催されている。
1階は即売場、喫茶室、休憩室が主だ。長野県産の水晶細工も売られている。2階に彫刻や工芸品などが展示されて、即売も兼ねている。
大小様々なこけしが並んでいる。木彫りの茶碗もある。変わったものでは赤や黄色をぬった農民芸術と題した砂糖壺がある。コーヒーカップもある。木で造った、あらゆる日用品が展示してある。値段がついている。結構高い。手作りだから仕方がないのかもしれない。
大きなものではベッドや風呂桶まである。買う人がいるのかしらと首をかしげてしまう。
奥の方に仏像がある。人形と同じところに並んでいる。大小様々で、釈迦如来像などの大きな像は5百万円の値がついている。彫りも精巧で芸術性の高い物が多い。
休日の午後とあって、客の入りはまずまず、会場の片隅に数人のグループが客の動きを注視している。
「彼らが彫刻師グループだ、後で紹介する」
野田は別のグループを指さす。
数人の背広姿の男達が仏像や物産展、工芸品などを注意深く見ている。時々相打ちをうったりしている。
「問屋連中だ」野田は瀬田の口元で囁く。ちょっと挨拶してくるからと言って去ってしまう。瀬田はその後ろ姿を追う。1人になって身軽になった気分だ。仏師たちと名刺交換などする気もない。彼らの作品には興味はある。自分のとどう違うのか、作品さえ見れればそれでよい。
・・・物造りなど、所詮孤独な作業だ・・・
辛いし、寂しいからと言って、相手を求めても意味がない。慰めてもらった。褒めてもらったと言ったところでよい作品が出来る訳ではない。切磋琢磨するしかない。
瀬田は仏像の1つ1つを注意深かく観察して回る。
出展するだけあって、秀逸な作品ばかりだ。学ぶところが多々ある。
楊柳観音立像と書いた立札の前に1人の女が佇んでいる。楊柳観音立像は奈良の大安寺に収蔵されている。高さ171センチの立像だ。展示してある立像は1メートル程の高さ。大安寺の物を模倣しているのだろうか。眼を吊り上げ、大きな口を開けている。怒りの表情を示すが、全体に静かな印象を与えている。
瀬田が注目したのは女性の服装である。
2尺の袖着物に、女袴の姿。まるで明治、大正時代の女学生が忽然と現れた様な雰囲気なのだ。
二尺袖、着物はえんじゅ色、袴は紺、全体として地味な色合いだ。女性の黒髪は肩まである。白い肌が輝いて見える。両手で黒のバッグを持つ。
一心不乱に立像を見る姿に、瀬田は魅入られる。大きな澄んだ瞳、筋の通った形の好い鼻梁、朱に染まった唇、豊かな頬、顔の白さが鮮やかに映える。
「あの・・・」瀬田は女性に近づく。
・・・彼女をモデルにして、吉祥天立像を彫りたい・・・。
京都の浄瑠璃寺で観た色彩鮮やかな木像を思い浮かべる。
唐代の貴婦人の姿を模していると言われる。大きく弧を描く眉、眼は切れ長だが弛緩した感じを与えない。豊かな頬は、美貌の天女に相応しい。
「何でしょう」女は静かに振り返る。微笑を漂わせた口元が瀬田の心を射る。
「先ほどから、ずっと見ておられますが・・・」
瀬田は眼が大きい。顔も長い。頬がこけて表情が乏しい。喋る時は顔を伏せてしまう。端から見ると呆けた顔つきに見える。人によっては安心感を与える。いかにも頼りないと言った雰囲気が、笑いを誘う。
女はにこりと笑う。瀬田を馬鹿にした笑いではない。瀬田の純な心根に感じ入った表情だ。
・・・この人は観音様だ・・・瀬田は女に熱く引き寄せられる。
「この像には、内に秘めた力強さがありますわ」
「怒りや憎しみでしょうか?」瀬田は尋ねる。この像からはそれが感じられるのだ。
女は瀬田を見る。一瞬、瞳の奥に哀しみがよぎる。
「あなたは?」女は誰何する。
「私、こういう者です」瀬田は慌てて名刺を出す。
「仏師・・・」女は呟く。
「あなたをモデルにしたいのですが・・・」瀬田は心情を吐露する。女は瀬田を見詰めたまま答えない。
・・・悪いこと言ったかな?・・・瀬田は眼を伏せる。
「あなたの服装が・・・」瀬田は思い切って声を出す。
「観音様に似ているもので・・・」瀬田は上目使いで女を見る。
「観音様・・・?」女のいぶかし気な声、澄み切った響きがある。
「まあ、嬉しいわ」高らかに笑う。振り返ってもらいたくてこの服装を選んだという。
・・・あなたなら、どんな格好でも振り向きますよ・・・
瀬田は心の中で呟く。
女は瀬田に興味を持つ。この仏像の中に瀬田の物があるのかと尋ねる。瀬田はここまで来た経緯を話す。今日このまま常滑に帰るか、どこかで一泊していくか迷っている。
モデルになってくれるなら、一泊していきたい。明日もう一度会いたい。
女は瀬田の話を耳を傾けて聞いている。その大きな瞳は、ネズミを狙う猫のように、瞬きもしない。
瀬田は女の美しい瞳に魅入られている。奥の深い目だ。瀬田は吸い込まれるように女を見る。
「よろしければ、今夜、私の家にいらっしゃいな」
女の声は優しい。一句一句言葉を選んで喋っている。言葉の裏に邪悪な企みが秘められているような話し方だ。
瀬田は女の美しさに惚れている。声の異様な響きに気付かない。
「えっ!泊めてくれるんですか、嬉しいなあ」馬鹿丸出しのはしゃぎようだ。
「私は急ぎますので、これで失礼します」
夕方の5時頃風越山の麓にある白山社奥宮の所まで来いという。ここから2・5キロ先にある。
「あのお名前だけでも!」瀬田は勢いづいて言う。
女は嫣然と笑う。「安曇ちか・・・」
瀬田は一礼する。野田がいる方へ走り去る。その姿を見て、女の瞳孔がギラリと光る。艶然とした微笑がガラリと変わる。鬼の醜さが顔を覆う。
野田は腰を低くして、売り込みに懸命だ。彫刻用の木材は売り上げは大したことはないが、利幅が大きい。大手の仏壇店は仏師を抱えている所が多い。売り込みに成功すれば、継続的な売り上げが見込める。彫刻用の物産展が開催されると、全国どこでも駆け付ける。
野田は売り込みがうまくいったのか、ご機嫌だ。
瀬田の顔を見ると「どうですかな、いい相手が見つかりましたかな」顔をほころばせる。
「観音様に会いました」瀬田の声も弾む。
「ほう、良い仏像が見つかりましたか?」
「いえ、人間です。女の人で、観音様のモデルが・・・」
「どこに?」
ほら、あそこ、二尺袖着物に、女袴を着た人、瀬田は振り返りざま、指を指す。安曇ちかの姿はどこにもいない。
「野田さん、見てたでしょう」瀬田は同意を求める。
野田は客との話に夢中で、それどころではなかったと弁解する。
「ねえ、君、袴姿の女、みなかった?」野田は知人を捕まえて尋ねる。
「しりませんなあ、私、あちこち見て回ってますが、そんな人、いましたかなあ」頼りない返事だ。
「私、その女の人の家に招待されましたので」
瀬田は喜色満面だ。他の人が安曇ちかを見ようが見まいがどうでもよい。住所は白山社奥宮の近くのようだ。場所が知りたい。
野田は周囲を見回している。お客になる人がいないかどうか見渡しているのだ。
「白山奥宮までは車で行けない」野田は早口にまくしたてる。車をここに置いて行け。ここの管理責任者に言っておく。白山社は地元の人は知っているから、歩きながら尋ねた方がよい。それだけ言うと、
「また、よろしくね」野田は駆け出していく。
瀬田が産業振興会館を出たのが午後4時。受付で尋ねると白山社奥宮は簡単に判った。県道を北に歩く。すぐ左手に野田材木店の看板が見える。その奥の方に松川ダムが聳えている。ダム湖の上流は鈴ヶ平一帯である。県道はダム湖に沿って蛇行する。すぐにも右折道が目に入る。
白山社奥宮に通ずる参道なのであろうか。風越山の麓に数十戸の部落が見える。道路は舗装で車で行く事が出来る。
・・・何だ、わざわざ歩く事なんかないではないか・・・
瀬田はぶつくさ言いながら歩く。
・・・大体、皆人が悪い・・・
ちかさんの服装は異様だ。女袴など今どき着用しない。展示会に屯する女性は洋服だ。ちかさんの服装は遠目からでもよく判る筈だ。
――それを見ていないとは――野田の言葉を思い出す。
不愉快に顔をゆがめる。ふと空を見上げる。
・・・俺がちかさんの側を離れて野田の側に行ったのも、時間にして、僅か十秒足らず・・・
その間に、ちかさんはふっと消えてしまった、会場への出入口は一つのみ。彼女が出ていくとすれば当然目に付く。
・・・不思議な人だ・・・、もうすぐ会えると思うと胸が高鳴る。
10月中旬とは言え、飯田地方の山の中は空気が冷たい、山肌の紅葉もちらほら見える。松川の支流が道路沿いに走る。数百メートル歩く。左折の奥に部落がある。
なおも前進する。風越山の麓に鳥居の紅い色が鮮やかに見える。飯田は周囲が山脈なので、日が暮れるのも早い。道幅が狭くなる。アスファルト舗装が切れる。登り坂となる。速足で10分位登る。道は蛇行する。西日を左手に見ながら坂道を登る。しばらくすると平野に出る。野球場数個分の広さだ。北の方に赤い鳥居が見える。
携帯電話を見る。時間は5時近くだ。西の方に先ほど見た部落が見下ろせる。南の方に産業振興会館のレンガ色の屋根が見える。そのはるか向こうに、中央自動車道がかすんで見える。
4~50分で歩いてこれる道程なのに、ずいぶんと遠くに来た感じだ。
東の方に虚空蔵山が聳えている。西の方に摺古木山や風穴山の山並みが見える。今しも夕日が山の中へ沈み込もうとしている。
瀬田は鳥居にもたれて、西日に眼をやっている。
――黄昏時か――赤く燃えて消えていく夕日は、いつ見ても心に滲みる。寂しい光景である。空色はまだ青い。とはいうものの、この季節、日が暮れるのも早い。
・・・こんな所で、本当に待つのか、彼女は来るのか・・・
周りには人家の形跡さえない。
・・・ちかさんにからかわれていたら?・・・
それでも良い。瀬田は鳥居の下に腰を降ろす。森閑とした景色を眺めているのも乙なものだ。
歩き疲れて、うとうとする。
瀬田はここで言葉を切る。喉を鳴らしてお茶を飲む。私に飲め飲めと言いながら、ほとんど自分1人で飲んでいる。
「それからな、私は不思議な体験をしただわ」
伏し目がちに喋っていた瀬田は、細長い顔を私に向ける。どことなく頼りなさそうな眼で私を見る。
「不思議と言えば・・・」瀬田の声が大きくなる。
部落まではアスファルト舗装の道路だった。それを超えると地肌剥き出しの、獣道のような道になる。周囲は雑木林なのに、鳥居前の広大な平野は背の低い草ばかりだ。後で知った事だが、部落の者総出で、年数回草を刈るという。
「あれは不思議だったなあ」瀬田は呟くように喋る。
瀬田は歩き疲れてウトウトする。空は幾分明るい。ほんの数分のつもりでいた。
「起きて・・・」
声がする。ハッとして眼を覚ます。見上げると、大きな月が煌々と照っている。周囲は真っ暗だ。びっくりして立ち上がる。後ろを振り返って声の主を見る。
「ちかさん!」彼女の姿を見て驚いた。白の着物を黒帯で伊達締めしている。黒い髪が肩まである。
・・・幽霊・・・一瞬そう思った。しかし裸足に草履を履いている。月光を浴びて、白々と輝いている。
「遅くなってごめんなさいね」嫣然と微笑する。その美しさに、瀬田は「観音様!」思わず叫ぶ。
「今から思うと不思議な事でしたがなあ」
瀬田の眼が空をおよぐ。彼女は一体何処から来たのか、近くには民家はない。
「あの時は・・・」不思議という気持ちも、奇怪という懸念も湧かなかった。ただただ彼女の幽玄の美しさに見惚れていた。
これからが本番だぞ、瀬田の顔が厳しくなる。私は固唾を飲んで瀬田の口元を見詰める。
安曇ちかは鳥居を出る。「ついてきて」言うなり、小股歩きで北の方へ歩いていく。瀬田が来たのと反対の方角だ。南の方、広大な原野の下の方に部落の灯りが見える。
彼女は鳥居横の小道を歩いていく。後方の部落の灯りが消えていく。右手は白山社奥宮の鬱蒼たる社。
道は雑木林、道以外何物も見えない。
――不思議な事だが――瀬田は大きな眼をむけて、不思議を連発する。
天上には煌々とした月が輝いている。周囲は明るい。とはいえ、月の光だ。昼のような明るさは望めない。
ここで不思議というのは、前を歩く安曇ちかと瀬田の周囲だけが異常に明るいのだ。まるでスポットライトみ照らされて歩いているみたいなのだ。
もう1つ不思議なのは、小股で歩いている筈なのに、ちかの速度が速いのだ。瀬田は彼女の後ろに付いていくのに、速足になっている。
――本来なら、奇怪な事――というべきでしょう。
瀬田は催眠術で操られるように付いていく。どこまで歩いたのか、行く手に、ぽっかりと平野が広がる。前方に1軒の平屋が見える。窓から明かりが漏れている。
家に近ずくにつれて、瀬田は不思議な気持ちになる。妙に懐かしいのだ。家の造りは古い。萱葺き屋根に、壁を杉皮で覆て覆っている。窓は小さい。障子が白く光ってる。玄関は杉板の引き戸。豊かな住まいとは言えない。それでも5~60坪はあろうか。
安曇ちかは玄関の引き戸に手をかける。手を動かすと、まるで自動ドアのように、すっと動く。建物の中に入る。10帖程の三和土がある。右手は納屋。左手に田の字型の8帖がある。三和土に沿った長い上り框。奥は土間の台所。竈が2つ、水を入れた大きな瓶が2つある。
・・・随分古い家だ。こんな所に住んでいるのか・・・驚くよりも呆れる。部屋の中にはローソク立がある。ローソクの灯が妙に明るい。電灯のような明るさだ。家の隅々まで照らしている。
上がり框に靴を脱ぐ。座敷に上がり込む。
部屋は襖で仕切られている。安曇ちかは奥の部屋に入る。彼女が襖を開けた時、ちらりと見えたのは、囲炉裏だ。8帖の真ん中を切って囲炉裏としている。火が赤々と燃えている。いろりに鉄瓶が懸けられている。湯気を噴いている。瀬田は畳にべったりと腰を降ろす。梁が剥き出しの天井は煤で真っ黒だ。天井は竹で覆っている。
・・・妙に懐かしいし、安らげる・・・この感覚はどこからくるのだろうか、昔、ここに来た事があるような・・・。
とはいえ違和感も生ずる。場全体が明るすぎるのだ。
瀬田が寛いで、感慨に耽っていると、安曇ちかが、お茶を持って囲炉裏のある部屋から出てくる。お盆を畳の上に置く。
「ご家族は?」瀬田はちかの朱に染まった唇を見る。ちかの眼が瀬田に注がれる。白い顔が紅潮している。瀬田を見るその顔に、何とも言えぬ哀切な色があらわれている。かと思うと、瞳の奥がギラリと光る。
ちかはかぶりをふる。自分1人だけだという。家の中にはテレビもなければ電気製品もない。家具もない。手持無沙汰の瀬田は背負ってきたリュックサックも中からスケッチブックそ取り出そうとする。ちかの姿を素描するためだ。
ちかは瀬田の手を押しとどめる。今夜は泊って行って明日にしろというのだ。瀬田は素直に従う。とはいうものの、お茶だけ飲んでいるだけで、他にやる事がない。
その気配を察して、ちかが瀬田の事を尋ねる。生まれ故郷や生い立ち、各地を転々とした事、仏師になった事など、瀬田は微に入り細に入り説明する。
安曇ちかは大きな眼で瀬田の口元を凝視している。瀬田の話を聞いて楽しんでいる顔ではない。話の途中で相づちを打つ。打ちながらも何かを模索している表情だ。時々目が釣りあがる。ハッとするほど怖い顔付になる。
それでも場の雰囲気が和んできた。
「今夜は、あなたの話をもっと聞きたいわ」
安曇ちかはすらりと立ち上がる。
「今からお酒を買ってきますわ」
隣の部落まで往復小1時間かかる。それまで待っていて欲しいと言う。囲炉裏端で寝転んでいても良し、隣の部屋で横になっていても構わない。ただし、北側の一番奥の部屋だけは決して入らぬよう。
安曇ちかはそれだけ言い残すと、玄関の引き戸を開けて出ていってしまう。
1人残された瀬田は呆然とする。家の中は明るいし、暖かい。ちかがいなくなって、広い上の中は森閑としている。締め付けるような寂しさに襲われる。
囲炉裏端に寄って、鉄瓶からやかんに湯を入れる。暇つぶしにお茶を飲む。
・・・今、何時ごろだろうか・・・作業服の胸ポケットから携帯電話を取り出す。電源が切れて、ディスプレイが真っ黒だ。
「はて、オフにした覚えはないのに」スイッチオンにするが、ディスプレイに文字盤が出ない。スイッチオフのままだ。故障かな、仕方なくポケットに納める。
あたりを見渡す。部屋の中には何もない。茶箪笥や物入れくらいあってもよさそうなものだ。土壁も真っ黒だ。天井もすべて黒い。ローソク立にローソクが1本あるのみ。部屋の広さは8帖。蛍光灯を点けた以上に明るい。
囲炉裏端で横になる。ウトウトする。はっとして眼を覚ます。それの繰り返し。
随分時間がッたった気がする。時計がないので正確な時間は判らない。安曇ちかが一向に帰ってくる気配がない。何もする事がない。立ち上がって隣の部屋の襖を開ける。誰もいないのに、部屋の真ん中にローソク立がある。ローソクの灯が赤々と燃えている。田の字型の部屋を全部開けてみる。押し入れもない。古い民家には仏壇がある。それもない。各部屋にはローソクだけが燃えている。
北奥にもう1つ部屋がある。桧の1枚板の黒光りした引き戸で閉められている。
――決して入らぬよう――女家主にきつく言われている。見るなと言われると見たくなる。人の情だ。
瀬田は逡巡する。早く帰ってこないかな。人の気配がすれば襖を閉める気持ちでいるが、人の気配どころか、ネズミ1匹いない。
・・・何があるのだろう・・・中を見たくなる。見たところですぐに閉めてしまえばよい。口をふさいでいれば判るまい。
瀬田は思いっきって引き戸に手をかける。ゆっくりと戸を開ける。立て付けが悪いのか、引き戸はきしんだ音を立てる。
中は真っ暗だ。他の部屋の明るさに比べると異質な空間のように感じられる。
ローソクのある部屋は真昼のように明るい。その明るさが全く浸透していないのだ。引き戸を境にして、明と暗がはっきりしている。部屋に首を突っ込んでも何も見えない。
瀬田はローソク立のローソクを引き抜き、手に持つ。引き戸の奥に入る。不思議な事が起こる。ローソク立のある部屋が真っ黒になる。田の字型の家だから襖を開け放してしまえば、光の反射で明るい筈だ。
それが、1つ1つの部屋が別々の独立した空間のようになっている。ローソクのない部屋は真っ暗なのだ。隣の部屋のローソクさえ見えない。
瀬田はローソクを持って引き戸の奥へ入る。急に真昼のような明るさになる。壁も床の天井も板だ。8帖の広さだ。府屋の中央に立つ。床の板は釘付けしていない。両足で強く踏む。ガタガタする。1枚板のの大きさは横3尺、縦1間、厚みは3分、板2枚を取り外す。
真っ暗な空間が地下に拡がっているようだ。地下室の上に8帖1間が載っかているようだ。
・・・何があるのだろうか・・・怖いもの見たさが先に立つ。
穴の中に顔を入れても何も見えない。ローソクを差し入れる。光りが反射してこない。改めて腰をかがめて、板に手をついて、下半身を乗り出す。
明るい光の中で見たものは洞窟だ。壁は黒い岩肌。3メートル程の深さだ。下の方に白いものがいくつも横たわっている。もっと身を乗り出し、ローソクを精一杯差し出す。
そこで見たものは・・・。
白骨化した死体だ。2体,3体、折り重なるようにして積み上げられている。髑髏の1つが瀬田を見上げている。
「わっ!」瀬田は腰を抜かさんばかりに驚愕する。のぞけり気味に床に手を付く。その瞬間、ローソクを地下の入口に落とす。
部屋の中が真っ暗になる。瀬田は手探りで引き戸を掴む。足が震える。腰が抜けて動けない。それでも何とか囲炉裏端の部屋まで歩く。
状況が一変していた。いろりの火は消えていた。鉄瓶もない。真昼のような明るさもない。土壁が破れている。茅葺き屋根が無惨にも崩れ落ちている。月光が赤々と射し込んでいる。土間も草が生い茂っている。玄関の引き戸も破れ放題。和室の畳はなく、板の間が朽ち果てている。他の字型の中央の黒光りした大黒柱、四方の寸角の柱もない。代わりに樺の丸太がたっている。
瀬田と安曇ちかがお茶を飲んだ部屋も、その西側の部屋も荒れるに任せている。仏壇らしき跡が見える。蜘蛛の巣が張り、廃墟と化している。
・・・これは・・・
瀬田は呆然自失の態だ。
だが・・・、彼の心には妙な懐かしい雰囲気があった。一方の心の片隅で違和感を抱いていたが、今、それが消えている。
廃墟と化してはいるものの、この家の造りは、瀬田の深層に潜む郷愁の心を揺り動かしていた。
止め度となく涙が出てくる。悲しく切ないほど胸が騒ぐ。
・・・ああ、俺は・・・瀬田は苦悶する。胸を掻きむしられる思いがこみ上げてくる。それが何であるのかは判らない。記憶が喉まで出かかっている。気持ちは焦るが、どうしょうもない。
「五助、判ったかい?」しわがれた声がする。
はっとして、瀬田が後ろを振り返る。安曇ちかの白い姿が、瀬田を凝視している。鬼の形相だ。瀬田は戦慄する。
「わっ!」恐怖のあまり、玄関に転がり出る。壊れかけた引き戸を押し倒す。外に飛び出す。もう夢中だ。
外に出た・・・。と思った瞬間、瀬田は囲炉裏端の部屋にいた。
「何だ、これは!」恐ろしさに我を忘れる。盲滅法に崩れた土壁から這い出す。出たと思ったら、西に部屋に入り込んでいる。
・・・殺される・・・恐怖心が逃げ場を求める。闇雲に駆け出す。途端に腐った床板に足を挟む。荒い息使いで必死に足を抜こうとする。床下は深い。なかなか出られない。恐怖心が悲愴に変わる。
・・・もうだめだ・・・全身の力が抜けていく。
鬼の女は瀬田に近ずく。目が釣りあがっている。口が裂け、憤怒の表情が全身からあふれている。
「こまねずみか、忙しないのう」しわがれた声が瀬田を包み込む。
瀬田は眼を瞑る。おいおいと泣き出す。彼は体は大きいが気が小さい。
「わしの顔が怖いか」女の声に瀬田は恐る恐る顔を上げる。女は両手で顔を覆う。手を払うと、安曇ちかの美しい顔になる。柳眉の下の大きな眼が涼しい。筋の通った形の好い鼻梁、朱に染まった唇、豊かな頬、優しい表情だ。
「さあ、手を!」ちかは瀬田の手を取る。瀬田は腫物でも触れるようにちかの手を握る。氷のような冷たい感触だ。
ちかの手が瀬田の手をぐっと引き上げる。瀬田の体が床下から這い上がってくる。ちかは風船でも持ち上げるように手をあげているだけだ。
瀬田は床に上に正座する。
「入ってはならぬと言ったのに、何故入った!」
ちかの声は鞭のように響いてくる。瀬田は体を小さくするばかり。
「答えぬか!」瀬田はびくりとする。
「入るなと言われると、入りたくなります」
見るなと言われれば見たくなる。瀬田は正直に答える。
安曇ちかは無言のままだ。
「地下室の死体は・・・」声が震えている。
「五助!」闇を切り裂く声が瀬田にのしかかる・
「お前が殺したのだ!」
瀬田は驚いて顔を上げる。安曇ちかが泣いている。泣きながら、形相が鬼に変わろうとしている。
「私は瀬田と言います。五助ではありません」瀬田は必死で叫ぶ。
「お前は、私の愛しい男・・・」形相がちかに戻る。
「でも、お前は私を裏切った憎い男。殺しても殺し足りない。何とも憎々しい男だわい」形相が険しくなる。
「待ってください」瀬田は必死だ。
安曇ちかとは今日の昼に会ったばかり。産業振興会館で偶然巡り合った。
「偶然?」ちかの声が怒りを含んでいる。
「私がここまで、お前を手繰り寄せた。なのに・・・」
安曇ちかの大きな眼が冷たく光る。戸惑っているのだ。
・・・どうしてくれよう・・・意を決して瀬田を凝視する。瞳の奥に光が宿る。
彼女の手が瀬田の頭を掴む。冷たい感触が頭を包む。それが首、肩と全身を駆け巡っていく。凍り付くような寒さが全身を覆う。
・・・眠い・・・瀬田は気を失う。床に身を横たえる。
――私の名は梶谷の五助――
瀬田は長い顔を私に向ける。大きい眼――どんぐり眼で見つめる。間の抜けた雰囲気だ。話の内容が真に迫っているだけに違和感が感じられる。私は辛抱強く耳を傾ける。
――私の前世――
今から何百年前か、時代はいつ頃か皆目不明。判った事は、新潟県の糸魚川市、姫川の本流近くにある部落の出であるという事だけ。
現代のような情報網があるわけではない。日本のあちらこちらに戦争が起こっても何も伝わってこない。日々平穏な暮らし。
梶谷はアユやハヤなどが獲れる。海岸沿いの青海の部落から塩を仕入れる。塩は莚の上に砂浜を敷いて、海水を滲みこませたもので、食塩には向かない。長野県の山間部では漬物用の塩として利用する。
塩や干魚を山間部に持っていく。代わりに山の幸を仕入れる。物々交換を業としている。
海産物を仕入れる。長野県や飯田地方を旅する。春に梶谷を出て秋に戻る。行商は1人では出来ない。途中山賊や土地を離散したあぶれ百姓に襲われる心配がある。数十人が一団となる。大量の海産物を持って山間部を歩く。五助は父に連れられて、塩の莚を山積みにした荷車を押す。
――不思議な光景でしたなあ――瀬田の眼が宙を泳ぐ。
作業服を着た現代人の瀬田がいる。自衛団に守られた五助がいる。彼は15歳ぐらい。継ぎ接ぎだらけの野良着姿。茶筅髪の逞しい若者だ。
瀬田は五助と一緒に歩いている。誰も瀬田に気づかない。瀬田は彼らに触れることが出来る。臭いや息をう事も出来る。にもかかわらず、彼らは瀬田に触れることが出来ない。息も感じられない。
瀬田は思い出す事の出来る前世の記憶は安曇ちかに関係する物だけである。
瀬田幸次こと、梶谷の五助は年に2回、飯田の白山社奥宮にある安曇ちかの部落を訪れる。
白山社奥宮は南に松川の流れを控えた湿潤な土地柄だ。
奥宮の南前方に数十戸の部落がある。部落と松川を挟んで田や畑が人々の生活を潤している。ここを奥宮の上部落と言う。豊富な作物に恵まれた地域だ。
一方、安曇ちかが住む部落は奥宮の北、風越山の麓の西に位置する。俗称ツンボ平と呼ばれる荒れ地である。松川の支流があり、水の便は良いが、土地が痩せている。
稗、粟、蕎麦を主食とする。風越山の北側に広大な森が拡がっている。猪、熊、狸、兎などが生息している。動物を捕獲して、皮を剥ぎ、肉を獲る。上部洛に比較して生活は貧しく厳しい。人口は上部落とほぼ同じ。
上部落からは下部落と軽称されている。彼らの主業は動物を殺して、血と肉を得る事だ。卑しめられ、穢れた部落として差別されている。
上部落も下部落のどちらも、五助達行商人には重要だ。商売に差別はない。上部落の米や麦は貴重な生産物だ。下部落の熊の毛皮や塩漬けの肉類は極上の馳走となる。
五助達の隊商は数十人の集団だ。白山社奥宮を中心として上部落、下部落、飯田の他には沢山の部落がある。
現在の飯田市の中央を流れる天竜川を中心として、古来より幾多の神社、仏閣が栄えている。
五助達の隊商は、まず飯田の坐光寺に腰を据える。それぞれの行商人たちは、自分たちの”得意先”に出向く。五助達は昔から白山社奥宮の上部落、下部落と決まっている。その地域に滞在するのは10日前後。物々交換が完了すれば、一旦、地元に帰る。次の目的地へと足を運ぶ。
隊商がもたらすのは海産物だけではない。色々な事件、珍しい話。驚くようなニュースも入る。部落民は外の世界に出る事はまずない。隊商のもたらすニュ―スに飢えているのだ。
五助15歳。活力に溢れた年だ。見るも聞くも珍しく、疲れを知らない。紅顔の美少年。
一方、安曇ちかは14歳。野や山を駆け巡る。獣をとる事を業としている。色白の美少女。
五助がちかを見染めたのは、3,4度下部落を訪問した後。彼女の白い顔と、相手を射るような眼差しに惹かれていく。ちかもまた、五助の太い眉やきりっとした眼差しに好意を示す。
行商人が部落の女を好いて、子をもうけることは珍しくない。古代はセックスはおおらかだ。
上部落の旦那衆の家に公平という息子がいた。上部落きっての旦那衆の息子だ。親に似て、人を人とも思わぬ傲慢さが勝っていた。
小作人は人ではない。幼い頃からそのように躾けられていた。使用人も屋敷の道具の1つでしかない。
公平がちかを好いていたのだ。彼女の伸びやかな肢体、瓜実顔の白い肌が、公平の心を捉えていた。公平はちかに、飯炊女として働きに来るよう声をかけている。ちかを自分の側に置こうという魂胆なのだ。
ちかは公平を相手にしなかった。旦那衆の家柄を鼻にかける。その心持が、ちかには気にくわない。公平は力仕事をしたことがない。ひ弱な体質で肥満である。
ちかは五助が来ると、野や山に誘う。2人の逞しい肉体は1つになる。めくるめく快楽に、2人は我を忘れる。僅かな逢瀬を思う存分に楽しむ。
その年の秋祭り。上部落と下部落は1つとなって、五穀豊穣を白山社奥宮に奉納する。この日ばかりは上も下もない。奥宮の宏大な境内で酒宴が開かれる。
年1度のお祭りの夜、好き合った男女が睦合う。男が好きな女に求婚し、体を奪う。女が抵抗しなければ、求婚に合意したものとみなされる。逆に女が男を求める事もある。
秋祭りには五助達行商の人々も参加している。男女の睦み合いは、身分を問わない。部落外の者の参加も認められる。
五助は安曇ちかに求婚を約束していた。秋祭りの夜に求婚されると、女は男のものとなる。
夕刻、ちかは鳥居の前で、五助を待つ。そこへ、ちかに横恋慕している公平が、ちかの肩を抱く。
祭りは新月の夜に行われる。闇の中、相手の顔は見えない。息使いや肌の感触、臭いで相手を知る。厳しい自然環境の中で生きる人々の感覚は現代人よりも鋭敏だ。本能的と言っても良い。気配だけで相手を見抜く。
「お前は?」ちかが男の手を取る。肉厚のすべすべした手だ。百姓や猟師の荒れた手ではない。
「公平?だね」ちかの問いに、公平は無言だ。遮二無二ちかの肩を抱きしめようとする。
「お前などお呼びじゃないよ」ちかは力のこもった手で公平の腕を払いのける。
「ちかさん・・・」その時、五助の囁く声がする。
「五助さん、そこにいるのか?」ちかは声のする方へ、飛ぶように走る。
1人残された公平は、歯ぎしりして悔しがる。闇夜でよかった。公平の無様な姿は誰にも判らない。
「畜生!今に見ておれ・・・」悔し涙が次から次へと出てくる。こんな惨めな気持ちは生まれて初めてだ。小さい頃から旦那衆の坊坊と、ちやほやされて育っている。ちかへの恋慕は陰惨な憎悪と化している。
秋祭りは3日3晩行われる。部落民は1年の苦労を吐き捨てるかのように、思い切り踊り狂う。若者は抑圧された性への開放に酔いしれる。
白山社奥宮の神様は闇夜が好きだ。夜の篝火や焚火を嫌う。祭りも3日目の夜となると、異様な静けさに襲われる。
1日、2日の夜は人々の酔い騒ぐ声でけたたましい。
3日の夕刻、人々は家の中に閉じこもる。酒宴も開かれない。男女の営みも憚られる。
その夜、神への生け贄が、密かに神殿の奥深くに奉納される。神に生け贄を捧げる事で、これからの1年の豊作と平安が約束される。
翌朝、まだ日の登らぬ内に、人々は家の外に飛び出す。自分の家の屋根を見るのだ。
来年の秋祭りの生け贄となる家に白羽の矢が立つ。
白羽の矢――この風習はいつごろから始まったのだろうか。神に生け贄を捧げる。文献として旧約聖書創世記に出てくる。神の命令で、アブラハムが我が子イサクを燔祭として捧げる。
旧約聖書では神がアブラハムの忠誠心を試すための行為と記している。古代は人の児が生け贄となった。やがて、アブラハムの記述にもあるように羊にとって代わられる。
古代ケルト人の神に捧げる。生け贄の三原則が知られている。
――まず殴る、次に火で焼く、殺す――
アブラハムの燔祭も、まず息子イサクを殴って気絶させる。次に火で焼く。殺して、神の祝福を受ける。焼かれた死体は神からのお下げ物として、食するのである。
遊牧民は肉を焼いて食用する種族だ。この風習は中国から朝鮮半島を経て日本列島にたどり着く。風習としての形は変わるが、三原則は息づいている。
諏訪神社に伝わる信府統記によると、
松明の強力な火力が舞台装置として用いられる。
生け贄を――葛ヲ以テ溺メ、馬二乗セ、前宮ノ西南ヲ引廻シ、打擲ノ躰ヲ為ス――とある。
農耕を主業とする日本では生け贄は血を尊ぶ。
――生ける鹿を捕りて臥せて、その腹を裂きて、稲をその血に種きき。よりて、一夜の間に苗生ふ。すなわち取りて殖えしめ――(播磨国風土記)
この鹿は、元々は人間であった。
――一般に、神社の井戸(石神井など)は、神や神宮が初めの内は、満7歳の幼女の人肉を食する前に、その生け贄の人の血を洗うための聖なる場所だった。人肉から穢れの血を抜く。その血をご神体にかけて生け贄を失神死させる――
神に祝福された生け贄の死体は、神主や儀式の関係者が食する。
神への捧げものとしての生け贄の生肉を食べる風習は世界共通の風習であった。
話を戻して、白羽の矢を打ち込まれた家から生け贄を差し出す風習は日本全国に見られたのである。
生け贄は古代は児童であった。時代が下るに従い、各地域の環境風土の影響を受ける。女――処女が尊ばれる。生け贄は神への捧げものと同時に神の花嫁という特質が強調される。
――肥後の国、伊倉両八幡でのお祭りは――
若い女子を肩に乗せる。金銀の紙で作った直径一間もある大団扇で、その女子の臀部を扇ぎながら行う”練嫁”神事がある。これもかっての人身御供の名残で、この女を出す家に白羽の矢が立った。
時代が下るに従い”神が食する生け贄”はいつしか古狸や大ヒヒ、猿たちが食べる事に変わっていく。生け贄はの条件――処女性は、未婚の女性へと移り変わっていく。
白羽の矢が立った家は”在野の神官”的な待遇が与えられる。1年間、たとえ部落が飢饉に襲われても、村人が食べ物を献上してくれる。生け贄はとなる女子は1年間不自由のない生活が約束される。一生着ることのない絹の着物も与えられる。
古い時代においては、白羽の矢が立った家の女子は、自分が神の嫁になる事で、家族が1年間無事に過ごせることを知っている。その後も村人から好意の眼で見られることも・・・彼女達は従容として生け贄として死んでいった。
時代が下るに従い、百姓の内から自衛団として武士階級が出現する。力を蓄え、権力者に対抗するようにう。
――自分達は――という自己主張、自我意識が目覚めてくる。
白羽の矢が立つ――この事は神の嫁になるという、晴れがまし儀式であった。
それがいつしか、忌わしい行事へと変化していく。生け贄は聖なる神事だ。翌年の豊作の部落の平安を祈願する、部落で一番大切な行事でもある。避ける事の出来ない神事なのだ。もしこの神事を怠ると神の怒りに触れる。災害や飢饉に襲われる。部落は全滅するかもしれない。その恐怖心がある。
――神の嫁になって死ぬのは嫌だ――自我意識の目覚めは、生け贄を、人形や土偶、米や酒のなどの奉納物へと変えていく。
しかし、驚くべく事に、生け贄神事は江戸末期、明治初期まで行われていたという記録が残されている。
白山社奥宮を中心とした上部落、外部落の村人は、祭りが終わる早朝、外に出て我が家を見る。白羽の矢が立っているか、否か。立った家は悲喜劇が繰り広げられる。結婚を間近に控えた女性は婚約を破棄しなければならない。
親1人子1人の家は悲惨だ。1年間部落の者が面倒を見てくれるが、その後は1人で糊口をしのぐ事になる。病気で倒れようものなら、食い扶持が絶たれ、必死となる。
4,5歳の子供に白羽の矢が立つことがる。生き死にの怖さが実感できない年頃だ。赤いべべを着せられ、神の花嫁として大事に育てられる。家族に過分の報奨があてがわれる。秋祭りの前夜、生け贄の女子は神殿の奥深くに囲われる。三日三晩食物は与えられない。
神殿の何処に匿われるかは、神主以外知らない。ただ1つ言えることは、神殿に囲われたが最後、消息は不明となる。死体さえも白昼にさらされることはない。
話を元に戻す。
秋祭りが終わる。陽が登るよりも早く、人々は家を飛び出す。自分の家に白羽の矢が立っていないか、祈る気持ちで茅葺きの屋根を見上げる。立っていなければ、ホッと肩の力を抜く。
――おい、来年は、安曇のちかだぞ――
噂は風に舞う火の粉のように広がる。下部落の安曇ちかが、神の花嫁となる。神のご意志だから、誰も異を唱える事は出来ない。
――これで来年の豊饒は約束される――
白羽の矢が立って、悲嘆にくれたのは安曇家だ。両親と3人暮らし。
ちかは、上下部落の中でも、際立って美しい女に成長している。入り婿の話も山ほどある。上部落の旦那衆で村長の息子の公平がちかに懸想している事を知らぬ者はいない。
――近々、村長が息子のため、安曇の家の敷居を跨ぐげな――
上部落の男が下部落の女を嫁取りするなど、血が汚れるのだ。それだけに、ちかの嫁取りは異例なのだ。誰しもが驚きの表情を隠さない。しかも相手は上部落きっての旦那衆なのだ。
当然、白羽の矢なぞ立つことはない。誰しもが予想していた。それだけに部落民の驚きは尋常ではない。
――奥宮の神様は、村長の息子に焼き餅を焼かれたか――
下部落の者たちの驚きは特に大きかった。白羽の矢が立った事で落胆も大きかった。下部落の女が上部落へ嫁に行く。しかも相手は旦那衆だ。自分たちにも喜びのおすそ分けにあずかれる。
喜びが一転して哀しみと化す。
悲嘆と言えば、安曇家の衝撃は大きい。晴天の霹靂だ。
ちかは、来春、五助と所帯を持つ事を誓っている。知っているのは両親のみ。五助を入り婿として、親子4人で暮らしていく。ウサギや猪、狸などが豊富に獲れる。山菜にも恵まれている。半年に一度、五助が富山から塩を運ぶ。主食は稗や粟だが充分に生活できる。暇なときは、近所の機屋で絹を織らせてもらう。衣食住は自給自足となる。
ちかは五助と一緒になる事を夢見てきた。秋祭りの夜、五助と将来を誓い合った。
しかし、幸福の絶頂から奈落の底へ真っ逆さま・・・。
白羽の矢が立ったその日、神主が白山社奥宮の神の使いとして、安曇家を訪れる。3人の従者を従えている。白袴姿に正装した神主は厳しい表情で安曇家の玄関をくぐる。
――神の嫁取り行事――
安曇家を訪れた神主は、ちかを奥座敷の上座に座らせる。弊紙でちかを清め、声高らかに祝詞を述べる。従者は持ってきた三方に載せた由緒書をちかの前に置く。
ちかは三方を取ると一礼する。側に座る両親の膝元に置く。両親は恭しく由緒書を手に取ると、立ち上がり、神棚に祀る。
安曇家の子女が奥宮の神の嫁入りを承諾した瞬間である。家の外には部落の者が押し寄せている。安曇家の座敷は田の字型の畳の間だ。南の窓は腰高の窓だ。
安曇ちかに白羽の矢が立ったことは予想外の出来事だがこれで1年間、平安無事と豊饒が約束された事になる。
その日、五助は坐光寺にいた。白山社奥宮の秋祭りも終わる。
海産物と交換した絹織物、山産物の荷造りに精を出していた。故郷に戻ったら両親から安曇ちかと一緒になることの許しを貰う。五助は文字通り五男坊だ。長男以外は、家で働くか、外に出るしかない。父親ももろ手を挙げて喜んでくれる筈だ。
隊商の親方の許しを得て、安曇ちかに別れを告げに、下部落に行く。
五助は小さい頃から父に連れられて行商に出ている。昨年から、父とは別行動で、親方の後について行商をしている。大人として認められた証左だ。それだけ行動は自由となる。
ちかに会いたさに、駆け足となる。奥宮の上部落は鳥居の南側の高台一帯にある。部落中が騒々しい。顔見知りの者に訳を聞く。
安曇ちかに白羽の矢が立った!。五助は愕然とする。急ぎ足で下部落へ行く。
安曇の家は下部落の一番北側に位置する。数十軒の家が点散する中、風越山の麓に抱かれるように建っている。
安曇の家の前に、下部落の人々が屯している。玄関の軒下には注連縄が張られている。その下に神主から命令されているのであろう。屈強な男が2人、腕組をしている。眼を怒らして、あたりを睥睨している。
安曇ちかは来年の秋祭りの前夜まで家を出る事は許されない。その代り、両親共々、欲しいものは何でも与えられる。部落が飢饉に襲われても、安曇家の生活は保障される。
五助はちかと会う事は叶わぬと見る。深夜裏口から忍び込むしかないと判断する。一旦座光寺に帰る。梶谷村に帰るのは2日後だ。親方は富山からきている。五助の村に立ち寄って、五助の父と酒を酌み交わして来年春の行商の日取りを決める。五助は大急ぎで荷造りに精を出す。
陽が沈む。五助は寺を抜け出す。白山社奥宮の鳥居の奥に身を潜める。深更の時を待つ。
ちかに会ってどうするのか、五助は何も考えていない。ただ会いたいだけだ。出来る事なら一緒に連れて逃げたい。
・・・そんなことをしたら・・・白山社奥宮の神様の天罰が下る。五助や両親だけではない。梶谷村の者すべてに神の呪いが下る。そうなる前に、ちかは下部落に送り返される。五助と両親は梶谷村から追放される。
されたが最後、他国へ落ちのびて農奴として悲惨な生涯を送ることになる。部落の掟は厳しい。
・・・どうしたら・・・必死になって考える。妙案など浮かぶ訳がない。会えたとしても、それが今生の別れとなる。
暗闇の中、五助は無性に悲しくなる。一刻も早くちかの側に飛んでいきたい。気が急くが、深更まで待つしかない。
陽が沈むと共に、農作業やすべての仕事は終わる。夕餉の煙が各家から立ち昇る。飯が終わる。夜鍋の時間となる。朝日が昇ると共に一日が始まる。その支度が終わって床に就く。
・・・まだ夜鍋だ・・・五助は勘で判る。早く時が過ぎるのを祈る気持ちで待つ。
その時――。人の気配がする。数人が声高に喋りながら、鳥居の方に歩いてくる。五助は身を潜める。様子を伺う。
上弦の月が昇っている。5人の影が鳥居の中に入ってくる。
・・・あいつは、公平・・・五助は緊張する。彼らの目的は夜這いである。好いた女の家に忍び込む。睦事を交わす。女に子供が生まれれば晴れて入り婿となる。
「まだ、ちっと早えな、待とまいか!」
公平は無遠慮な程大きな声を出す。他の4人は彼の取り巻きだ。
「公平さあ、びっくりしただわ。ちかに白羽の矢が立ったとはな」1人が公平のご機嫌を伺う様に喋る。公平がちかを嫁に迎える。知らぬ者はいないのだ。
「神さんのわがままにも困ったもんだわ」1人が喋る。慌てて口を両手で覆う。境内の奥の石段の方をみて、首をすくめる。
公平はカラカラと笑う。
「あんな女、俺あ欲しくもねえだわ」公平は傲然と言い放つ。その胸の内は、ちかに袖にされた憎しみで一杯だ。
「えっ!」4人の者は眼を剥く。公平本人が悄然としているとばかり思っていたのだ。
「ええかや、お前ら」公平は4人を見下す。
公平はちかを嫁にすると言った事はない。飯炊女として雇いたいと言ったのだ。
公平の父親は上部落一の旦那衆だけあって、頭が働く。
上部落と下部落は昔から仲が悪い。祭りの日には酒が入って血を見る事がある。ちかを飯炊女にと申し出たところで、相手はウンとは言わない。公平の嫁にと言えば喜んで承諾すると読んだ。下部落との争いも少しは良くなるだろう。
「わしの嫁ごはな、3人は欲しい」公平は火はにやりと笑う。嫁を何人も抱える事が出来るのは、男の甲斐性なのだ。
「じゃが、白羽の矢とはなあ・・・」1人が公平を仰ぐ。
「あいつ!」公平の眼が怒りを見せる。
「わしを袖にしたんじゃ」
「えっ!」四人は驚く。それと白羽の矢とは、どう結びつくのか、彼らの表情は戸惑っている。
木陰に隠れた五助の心臓は激しく波打つ。体がわなわなと震える。全身を耳にして欹てる。
公平は闇の空に響き渡るような笑いを立てる。
「お前ら、神さんが白羽の矢を射ると、本気で思っていたのか」四人のドングリ眼を面白そうに見下ろしている。
「えっ?」4人は絶句する。白羽の矢は神様が神殿の奥から射ると信じられていた。部落の者誰1人として疑っていない。
「ええか、ここだけの話だぞ」公平は声を落とす。4人の顔を代わる代わる見る。
――白羽の矢は神主が深更、黒装束に身を固め、神託のあった家に射る――
「これは昔の事・・・」父親から聞かされているのであろう。公平は悟った顔つきになる。
「今は、うちの親父が神主に申し入れる。たっぷりと絹物をはずんでな」
公平の口からちかの事が出る。忌々しそうな口ぶりだ。
「俺を袖にしやがって!」あの夜、公平は父親に頼み込んだ。ちかに白羽の矢を立てろ。馬鹿な息子程可愛い者はない。しかも1人息子だ。泣きつかれて、親として、その夜すぐにも神主に直談判して無理を通す。礼として米をはずむ。
公平の1人舞台はしばらく続く。夜這いの時間となる。
彼らは消えると、五助は目の前が真っ暗になる。フラフラと歩きだす。
――とんでもないことを聞いてしまった――衝撃はあまりにも大きい。
歩くうちに、五助の心の中に、光明があらわれる。神様がちかを欲しがっているのではない。神主と公平の父親が勝手に決めている。
・・・この事を打ち明ければ、あるいは・・・
五助の足は速くなる。
・・・思った通りだ・・・
安曇ちかの家の周りには警固の者はいない。裏手に回る。五助は梟の鳴き声をあげる。聴く者にとっては、意思疎通の合図と判る。
五助とちかは、夜白山社奥宮の境内地で逢引する時、梟の鳴き声でお互いを確認し合う。しばらくして、裏口の戸がそっと開く。
「五助さあ・・・」ちかの喜びの声が五助の胸に響く。2人は無言のまま抱き合う。ちかは五助を家に招き入れる。ちかの両親は奥に部屋で熟睡している。
五助は鳥居の前で、公平から盗み聞きした話をする。ちかは眼を丸くして驚く。五助は言う。早朝、警固の者が来る前にここを出る。部落中に公平の話を触れて歩く。その上で、部落の総代さんの家に駆け込む。真実をすべて打ち明ける。
総代さんは神主の神託を受けて、村人に知らせる役目を果たす。話せば”神さんの嫁取り”の話は取りやめになる可能性が大だ。
早朝、2人は、警固の者が現れぬ内に家を飛び出す。ちかの両親は2人の行動に恐れおののいて見守るのみ。
下部落中を駆け回る。神の嫁取りはインチキだと大声で触れ回る。何事かと外に飛び出す村人は、手に手を取り合う2人を見て、驚きあきれる。
――神さんの天罰が当たるぞ――声高に叫ぶ者もいる。2人は総代の家に駆けこむ。
驚いたのは総代だ。家の周りには村人が群がっている。総代は神主に使いを出す。その上で五助の話を聞く。
五助は外の者にも聞こえるくらいの大きな声を出す。神の嫁取りの話はデタラメであると、公平から聞いた話に輪をかける。
五助は総代が目をむいて驚く姿を想像していた。案にそうして、総代は厳しい顔で五助とちかを眺めるのみ。
・・・おや?・・・五助はいぶかし気に総代を見上げる。
丁度その時、知らせを受けた神主が警固の者を引き連れて現れる。有無を言わず、ちかを捕らえる。安曇家に引き戻される。以来、警固は厳重になる。
五助は総代の奥座敷に閉じ込められる。神主は総代を従えて、外に群がる村人に叫ぶ。
「よいか皆の衆」神の花嫁は、家の外に出んかった。口外は無用ぞ!」裂帛した声だ。威厳のある、神主の態度に、村人は平伏する。
「五助は嘘を並べ立てて、神の嫁入り行事を汚した。その罪は大きい。村に天罰が下らぬよう祈るがよい」
総代は口封じして、村人に帰るよう命じる。
一刻ほど立つ。奥座敷に現れた神主は、五助を睥睨する。
「五助とやら、ようも嘘八百を並べたものよ。神聖な神様の行事を汚したのう」
「ウソじゃねえ!」五助は懸命に申し立てをする。公平の言った事を一言一句もらさずにまくしたてる。
神主は五助の早口を制する。公平も4人の若者も昨日の夕方から、一歩も家から出ていない。家の者が証言している。
そんな馬鹿な!。五助は怒りに身震いするが、聞いたという証拠がない。
しばらくして、隊商の親方が入ってくる。代わりに神主が部屋から出ていく。
「親方!」渡りに舟とばかりに、五助は親方にすがりつく。
「わしは嘘は言ってねえ!」口に泡を飛ばして主張する。
親方なら判ってくれるはずだ。すがりつく気持ちで喋る。
「馬鹿垂れが!」瞬間、親方のゲンコツが五助の頭に飛ぶ。
「あっ!」倒れ様、五助は信じられない顔で親方を見る。
親方は声を潜めて言う。わしはお前の言っている事を疑っているのではない。だがお前がその事をどこまでも言い張ると、困るのはこの部落の者や神主だ。
白羽の矢を射るのは神主だ。そんなことは百の承知だ。女が家から出たと言って見ろ。お前がその通りだと白昼言いふらしてみろ、穢れた女を神の嫁にした事になる。神さんの天罰が当たるかどうかは別として、他の部落の笑い者になる、神主や上部落の旦那衆の面子はどうなる。
言いふらすお前は行商の者だ。言いふらされた部落の者はどうなる。怒り狂ってお前を殺すだろう。わしらも2度と行商が出来なくなる。お前だけの問題ではない。行商が出来なくなった責任を、お前のお父うやお母あがとる事になる。そうなってみろ、お前ら一族は梶谷村におれんようになる。
五助は諄々と説く親方の口元を見詰めるばかり。
「女をとるか、お前の家族をとるか・・・」親方は一旦口をすぼめる。
「女をとれば、お前は殺される」
五助はハッとする。顔が青くなる。
「親方、どうすれば・・・」五助の声が震える。
親方の声が優しくなる。朝から女が騒いでいるそうな。白羽の矢はインチキだ。家から出た。もう神の嫁ではないとな。
「ついてこい」親方に言い含められて外に出る。神主や村の者が屯している。
安曇ちかの家に行く。ちかが腰窓から身を乗り出している。涙を流しながら喚いている。
「ちか、お前が外に出たのを見た者がこの中にいるか」
神主は張りのある声で言う。ちかは村人や五助を指さす。さされた村人は一斉に、外に出たというちかを見てはいないと言い張る。
「五助さあ!」ちかは絶叫する。
「五助!」親方に促された五助は一歩前に出る。ちかを見る。救いを求めるちかの悲痛な表情。五助は顔を伏せる。
・・・かんにんしてくれや・・・心で詫びる。
「おらあ、この女が外に出たのをみてねえ」
五助の眼に涙があふれる。震える声で言い放つ。
「五助・・・」ちかは絶句する。
「もう、これでええ」窓を釘つけにしろ。神主の命令一下安曇家の窓という窓はふさがれる。
――それから、わしは逃げるようにして、梶谷村に還った。還ったというより、無理やり連れ戻されたのだ。2度と白山社奥宮やその周辺の飯田地方への行商の随行は許されなかった。浜で塩造りに専念する事になった――
瀬田幸次は大きな眼をしばたたかせる。翌年の春、行商の一行から、安曇ちかと両親は、去年暮れから忽然と姿を消したと聞かされる。噂では奥宮の神主の屋敷の離れに隔離され、秋祭りを待たずに、神の生け贄にされたらしいとのことだった。
「それを聞いたわたし、つまり五助は梶谷村を飛び出す。あちらこちらを放浪する。寺社で下働きとして住み込む。安曇ちかの冥福を祈り、仏像を彫る。
・・・わしが悪かった。ちかさん、成仏してくれや・・・
一鑿一鑿、鑿を振るいながら念仏を唱える。一体彫り上げると、寺に奉納して、また放浪の旅を続ける。寺に住み込みで働き、仏像造りに励む。こうして五助は仏像造りに生涯を捧げる。
――わしは、ちかさんに殺されても仕方がない事をした――
瀬田は夢うつつの中で涙を流した。
その時、忽然と視界が開ける。窓という窓をふさがれて、脅える両親と抱き合うちかの姿が浮かび上がる。
夜半、数人の荒くれ者たちが安曇家に押し入る。ちかと両親の手足を縛る。声を立てないように猿轡をかませる。
奥座敷の床下を外す。穴を掘る。ちか達を乱暴に穴に投げ込む。土を埋める。
ちかの眼を通して、この光景は瀬田の脳裡に映し出される。瞑目している瀬田は大きな衝撃を受ける。脳裏の内に展開する景色は、瀬田がその場にいるかのような感覚で伝わってくる。否、ちかの愛憎の情念がそのまま瀬田の心の内に伝わってきているのだ。ちかの苦しみや憎しみはそのまま瀬田の苦しみや憎しみとなったいるのだ。
猿轡をかまされて穴の中に投げ込まれたちか、その恐怖と怒りが瀬田の者となる。ちかの両親は失神している。土をかけられ、穴が埋め尽くされる。
ちかの眼から涙があふれている。下部落の知己に裏切られ、五助にも欺かれる。その上生き埋めにされて、命さへ奪われる。恐怖が悔しさに変わる。憎悪が身を焦がす。息の出来ない苦しさに、最後の気力を振り絞る。
「悔しい・・・」ちかの眼からは血の涙が流れる。猿轡を噛み切る勢いで舌を噛み切る。眼が釣る上がる。
・・・この怨み、晴らさずにおくものか!・・・
胸も張り裂けよとばかりに、鬼の形相で咆哮する。家が揺れ、ちかの死霊は家に憑依する。
――ちかさん、何という非道を・・・――瀬田はちかの為に泣く。人間はここまで鬼になれるのか、ちかを殺した者への激しい怒りが、瀬田を支配する。
――五助が部落を去って、僅か一ヵ月後の事だ――
翌年の秋祭りの3日目、夜半、神の嫁として、生け贄が捧げられる。部落民には安曇ちかと知らせている。
ちかの身代わり――飢饉や過酷な年貢の取り立てで、土地を離れる者は数多い。その中の若い女を拉致して、神殿横にある神主の屋敷の別棟に囲う。
下部落の総代には、安曇親子は白羽の矢の真相を知った。このまま放置すると、いつ秘密が漏れるか判らない。殺すにこした事はないと知らせてある。
白羽の矢に当たった生け贄は、秋祭りの最後の夜、アサの汁の入った濁り酒を飲まされる。アサは大麻あの原料だ。
アサは北海道、東北地方に野生として自生している。鎮静、鎮痛、催眠薬として利用される。
アサの汁をアルコールと一緒に飲んだ女は、1人では歩けない。神主の手の者が神殿に運ぶ。彼らは安曇ちかを生き埋めにした者だ。
神主は神殿で祝詞をあげる。神の花嫁として、生け贄を捧げる。来年も平安と豊饒を約束してくださるよう、祈願する。その後、神殿の裏山に入る。風越山は神の山だ。入山は厳禁である。みだりに入ると神罰が下ると恐れられている。
裏山は鬱蒼たる樹木で覆われている。道なき道を登っていくと、忽然と岩肌が露出した場所に出る。前方に大きな岩が聳えている。神の依り代である。神がこの岩に降臨されるのだ。その大岩の手前に台形の岩やお椀のようなくぼんだ岩がある。その横に深い竪穴がある。
松明を手にした2人の、神主の手の者は、くぼんだ岩に女の上半身を入れる。神主が女の喉を小刀で切る。夥しい血が窪みに流れ込む。神にささげる、新鮮な処女の血だ。
血を抜いた後、台形の岩に女を仰向ける。白装束をはぎ取り、女を裸にする。心の臓を一刺しする。胸の肉の一片を切り取る。神主の手の者は手際よくこなしていく。切り取った肉片を素焼きの皿に載せて、神主に手渡す。神主は大岩に向かって三拝三拍して、肉片を食う。
神の嫁取り儀式は終わる。死体は1年間放置する。鳥が肉を啄む。来年の秋祭りの前夜、神主の手の者が、白骨を立て穴に投げ入れる。
瀬田はこのおぞまし光景を、夢の中で生々しく見ている。
本来ならば神主が肉片を食べて終わりだ。
次の瞬間、瀬田は夢の中で声を立てる。
胸の肉を切り取られ、血に染まった死体が、かっと眼を開く。その顔はまさしくちかのものだった。
女の白い腕が神主の首を掴む。どこから湧いてくるのか、凄まじい力で、神主を竪穴に投げ込む。神主の手の者は恐怖のあまり逃げ出そうとする。女は身軽な勢いで跳躍する。1人、また1人と、首を鷲掴みにすると穴に投げ込む。
そして――自らも穴に落ちていく。
これが異変の始まりだった。白羽の矢が立ったのは上部落の旦那衆、公平の家だった。公平の妹が来年の生け贄となる。
神主が行方不明となり、部落は騒然とする。
・・・白羽の矢は誰が射ったのか・・・この事実を知る部落の有力者達は恐れおののく。
天罰・・・狂気が彼らを襲う。
正月が過ぎる。春の気配が訪れる。下部落の安曇家は放置されたままだ。
白山社奥宮の部落を行きかう者は旅の行商だけではない。家を捨て故郷を捨てて放浪する避難民も多い。彼らは忌み嫌われ、何処の部落からも石を投げられ追われる。そんな彼らも。飢えや寒さを凌ぐために廃屋や空き家にもぐりこむ。見つかれば袋叩きにされ追い出される。
今にも降り出しそうなある朝、安曇の家から、ぼろを着た1人の男が血相を変えて飛び出してくる。それを見た部落民が彼を取り押さえて、何事かと問い詰める。
男は恐怖の色を浮かべて喋る。昨夜、数人の仲間と一夜の寝場所を求めて、安曇の家に入った。深更、鬼が現れて、仲間を食い殺す。彼1人は何とか外に飛び出して難を逃れる。
総代はこの男の話を聞いて愕然とする。神主の行方不明と言い、旦那衆の家という、本来立つことのない白羽の矢といい、異変が起きている。
・・・安曇の娘の呪いか・・・
総代は安曇の家を焼き捨てるよう命令する。火はたちまちのうちに安曇の家を焼き尽くす。
その時、――低く垂れこめた雲間から稲光が発する。突風が部落を襲う。安曇の家を包んだ猛火は部落に飛び火する。たちまちのうちに部落は劫火に覆い尽くされる。逃げ惑う者、煙に巻かれて死ぬ者、火焔地獄さながらだ。
下部落は全滅する。後になって住居を構えて住む者も出るが、2代とは続かず、廃絶する。
その年の夏、長い旱が続く。秋になっても雨が降らない。松川の水が涸れる。上部落は餓死者が続出する。秋祭りは沙汰止みとなる。秋も終わり厳しい冬がやってくる。疫病が蔓延する。上部落の大半が死に絶える。生き残った者は放浪の民となって各地を渡り歩く。
白山社奥宮の鳥居の前、上部落跡に移り住む者もいるが、長続きはしない。やがて、そこは神聖な場所として放置されるようになる。
瀬田の脳裡から、鮮やかな映像が薄れていく。テレビ画面を見ているような印象だが、瀬田の心に響くのは、安曇ちかの心情だ。不信が怒りを呼ぶ。狂おしいほどの憎悪が怨みを増幅する。
安曇ちかは死の直前、鬼女と化す。怨みは呪いを挑発する。呪われる者は安曇ちかを陥れた者に限らない。彼らを含む上,下部落の者すべてが地獄に堕ちる。
白山社奥宮の部落が滅びる。ちかの心の底には、激しい憎悪がたぎる。復讐は終わる。ちかの心に喜びはない。虚しさと、言いようのない寂しさが漂う。後1つの復讐をはぶいては・・・。
――五助――ちかのしわがれた声が響く。
瀬田は静かに目を開ける。鬼女と化したちかの凄絶な姿がある。血の滴るような赤い衣服、男の着流しのようだ。
瀬田はすべてを理解した。
――あの時、俺が死ぬべきだった――
下部落の総代や行商の親方に言い含められて、偽りの証言をした。ちかは五助を信じきっていた。それを裏切った。
――あの時、真実を述べるべきだった――
両親や兄弟が故郷を追われると言われた。後々熟慮すれば、五助を脅すための方便に過ぎない。だが、五助本人は殺されていただろう。それを恐れて、ちかを裏切った。その代償はあまりにも大きかった。
――五助――ちかの無念の声が圧倒する。
・・・俺が悪かった。俺を殺して成仏してくれや・・・
瀬田の眼からは涙があふれる。ちかの手を取る。氷のように冷たい。骨のような手だ。長い爪が刃物のように光っている。
瀬田はちかの手を自分の首にあてがう。
――五助――ちかの怨みの声が響く。鬼のような眼が、憎々し気に燃える。両手で瀬田の首を締めあげる。
瀬田は両手を合わせて、ちかを見上げる。
・・・殺してくれや・・・瀬田はちかが成仏するよう、一心に念仏を唱える。首を絞める力が強くなっていく。意識が遠のいていく。
それでも、瀬田は一心にちかの為に祈る。
――五助――ちかの声が震えている。失神する直前、瀬田は眼を開ける。ちかの眼からは涙が流れている。鬼の形相が変化している。
――瀬田は意識を失う――
瀬田は意識を吹き返す。はっとしてあたりを見回す。草むらの中に横たわっている。眼の前にちかが立っている。白装束に身を包んでいる。長い髪が印象的だ。ちかは穏やかな表情をしている。朱に染まった唇が美しい。
・・・観音様・・・瀬田は起き上がる。周囲は闇なのにちかだけが白い光彩を放っている。
「ちかさん!」瀬田は駆け寄ろうとする。
その時、ちかの後ろで火の手が上がる。ちかの家が燃えだしたのだ。火の勢いは強くなる。
「あっ!」瀬田は驚愕する。ちかの体からも火が燃えだしているのだ。
「ちかさん!」瀬田は立ち竦む。火の手は激しくなる。ちかの体も火に包まれていく。
・・・五助・・・ちかの優しい声が瀬田の脳裡に響く。
・・・私は自分の家に憑依した。だからわが身を業火で燃え尽くす・・・
「ちかさん!」瀬田は火焔に包まれるちかに抱き付く。
「死ぬなら、俺も一緒だ」
「五助!」ちかは驚きの声をあげる。予想外の瀬田の行動に戸惑いの色さえ見せる。瀬田を突き放そうとする。
瀬田はがっしりとちかを羽交い絞めにする。瀬田の全身に激痛が走る。たちまち火焔は瀬田の衣服や髪の毛を焦がす。皮膚が焼ける。肉が燃える。
「五助・・・」ちかはしっかりと瀬田を抱きしめる。
・・・また会おうぞ・・・ちかの声を最後に、瀬田は失神する。
家はごうごうと炎をあげて燃え盛る。瀬田を抱いたちかの体は火焔が天に届けとばかりに立ち昇っている。2つの体は1つとなる。逆巻く火は生き物のように、いつまでも揺らいでいる。
瀬田はうっすらと眼を開ける。肌寒さに身震いする。
・・・ここは・・・顔をあげる。東の空から朝日が射している。まだ薄暗い。胸ポケットから携帯電話を取り出す。
――5時半――
・・・俺はここで何をしていたのだろう・・・
立ち上がって後ろを見る。彼は鳥居にもたれて、うずくまり、一夜を過ごしていたのだ。
――あれは夢か――ちかに会うために、白山社奥宮まできた。鳥居の下でちょっとひと眠り。ちかが現れる。それから――、鬼女と化したちか、前世の出来事、火焔地獄、死――。
あれは夢ではない。鮮明な記憶が次々と蘇生する。五助の人生。ちかの心情が昨日のように生々しく、瀬田の心にせまる。
・・・ちかさん・・・
目の前の宏大な野原。ここに上部落があった。ちかに連れられて歩いた道。下部落へ通ずる道路は灌木が生い茂っている。
瀬田は境内地に入る。石段を登る。百段以上はあろうか。長い段を一歩一歩踏みしめて登る。
頂上は砂利で踏み固められている。清々しい気配が森閑としている。十メートル程先に拝殿がある。その奥に神殿。風越山が神社に覆いかぶさるように聳えている。拝殿の右手、神殿との間に、神主の屋敷があった。今は孟宗竹が密集している。
瀬田は拝殿に両手を合わせる。柏手を打つ。切り裂くような音が響き渡る。神殿の右手、風越山の麓の方から朝日が昇り始める。
・・・ちかさん・・・瀬田は拝殿に一礼する。
瀬田の話は終わる。彼は喉を鳴らしてお茶を飲む。
「わたしはあれから、五助の故郷、梶谷村に行った」
胸が熱くなるような懐かしさがこみあげてくる。もう昔の面影など何も残ってはいない筈だ。それにも関わらず泣きたくなるような切なさに襲われる。そこから眺める日本海に安らぎを覚える。
瀬田は私の顔を見つめる。
「私の話は以上です」瀬田はにこりともしない。何か質問はないのかと言いたげな表情だ。
携帯電話を見る。昼の1時を回っている。もうそろそろ失礼しようと、黙礼して立ち上がる。玄関先で靴を履く。
「大変貴重な話を有難うございました」改めて礼を言う。
瀬田は黙って頭を下げる。
「来月松坂屋で仏像の展示会を開きます。観音様を彫ります。見に来て下さい」
観音様と聞いて、私は安曇ちかを思う。話を聞いただけでは、具体的には度のような顔立ちをしているのか判らない。ぜひ見に行くと約束する。
玄関の外は心地よい風が吹き上げている。抜けるような青い空が拡がっている。伊勢、津、松坂方面の景色が鮮やかだ。鈴鹿山脈も間近に見える。伊勢の海は波穏やかだ。
・・・今日は良い話を聞いた・・・
十歩ばかり歩く。青い空を背にして女が坂道を登ってくる。白い和服に身を包んでいる。長い髪を後ろに束ねただけの、清楚な表情をしている。瓜実顔に筋の通った鼻梁、豊かな頬に朱に染まった唇。大きな瞳が涼し気に私を見ている。
・・・瀬田さんの奥さんかな・・・私は慌てて頭を下げる。
女とすれ違う。抹香の匂いが鼻腔をくすぐる。何気なく女の後ろ姿を追う。女は玄関の方へ歩いている。後、数歩の距離だ。
・・・抹香?・・・私はハッとする。瀬田さんは今は独身と聞いている。
・・・もしや!・・・瀬田の話に出てくる安曇ちかそっくりなのだ。
私は慌てて後ろを振り返る。誰もいない。女とすれ違って2~3秒しかたっていない。家の中に入ったとは思えない。
私は呆然とその場に立ちすくんだ。
――完――
”生け贄の参考”
「天皇系図の分析について」藤井輝久著、今日の話題社 以上です。
お願い
この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません。