少年
「……!?」
だが一向に、私の体は八つ裂きにされる気配がない。恐る恐る目を開くと、狼はまだ、入り口の所から私を睨みつけたままだった。私は震える体をそばに転がっていた剣で支え、何とか立ち上がった。
「グオオオオオオオオオオ!!」
「!!」
途端に狼がもう一度大きな遠吠えを上げ、私は思わず耳を塞ぎこんだ。大きく開いた口から見える鋭い犬歯が、私の目に焼きついた。
だが、一体どうしたことだろう? 不思議なことに、狼は中に入ってこようとはしない。しばらく私と狼はその場で睨み合い、硬直状態が続いた。先ほどとは比べものにならない大量の汗が、全身からドッと溢れ出してきた。
意を決して、私はジリジリと狼に近づいていった。怪物が何度も大きな声で吼えたてるその度に、心臓がノミのように飛び上がる。だが狼はそれでも私を襲ってこない。私は首を捻った。何かがおかしい。
私は改めて狼を違う角度から覗き込んだ。すると、狭い洞窟の入り口に、怪物の体が引っかかっているのが見えた。あまりに巨大な体で、内部にまで入ってこれずにいたのだ。これは……またとないチャンスだった。震える手で剣を握り直した。
「ガウッ!!」
ごくり、と唾を飲み込む。
「……うおおおおおおおお!!」
獣の叫び声に怯みながらも、私は持っていた剣をめちゃくちゃに振り下ろし続けた。
蒼馬ロスカルに揺られながら、月明かりの下を颯爽と駆け抜けていく。興奮も冷めやらぬまま、私は急いで涼子さんの待つ民家へと向かった。道行く先にほんのりと灯りが見え始めると、私は安堵のため息をついた。日常生活では味わったことのないような緊張感から解放され、腹の底から温かな安心感が湧き上がってきた。早く涼子さんに会いたかった。
馬から飛び降りて、玄関をノックする。私の姿を見ると、涼子さんは驚いたように目を見開いた。
「藤堂さん!?」
「涼子さん……ただいま戻りました」
「ぶ、無事だったんですね! ……じゃあ、あの、怪物は……」
私はにっこりと微笑み、一滴の血の汚れのない剣を彼女の目の前にかざした。
「安心してください。怪物は……貴女の旦那さんは、ちゃんと生きてますよ」
涼子さんはさらに目を見開いた。私は馬を振り返って指差した。その背中には、後頭部にしこたまタンコブをこしらえた一人の男が担がれていた。
質素な造りの家の中で、私は暖炉の火に当たり凍える体を暖めた。涼子さんがコーヒーのようなココアのような、甘い飲み物を作ってくれた。奥の部屋では、彼女の子供たちがスヤスヤと眠っている。彼女達を起こさないように、私は隣に立つ涼子さんにそっと話しかけた。
「……旦那さんは、あなたが洞窟に入れたんですね?」
「…………」
「涼子さん、僕は怒ってません。ただ、不思議だったんです。私が怪物と出会った時、彼は入り口に引っかかって中に入ってこれずにいました。その時ふと思いました。あなたは怪物が、洞窟の中に住んでいると言っていた。だとすればあれほど大きな怪物が、一体どうやってこの狭い入り口から出て行ったんだろう? と」
「…………」
「考えられるとしたら、別に出口があるか、もしくは出て行った時は小さかったか。ちょうど私達の世界で言う狼男のように」
実際、私に剣の柄の部分で殴られた狼は、変身が解け人間に戻ってしまった。狼は洞窟に潜んでいたんじゃない。私が入った後に、続いて後ろから忍び寄ったのだ。
「もう一つ不思議だったのは、一体この狼は、どうやって食べ物を確保していたんだろう? ということです。洞窟の中には水はあっても、動物の骨さえ見つからなかった。あんなところに3日もいたら、怪物じゃなくても餓死してしまうでしょう」
「藤堂さん、私……なんてことを」
「ここからは私の推測ですが……おそらくあなたの旦那さんは、何らかの病気、もしくは呪いで人に在らざる姿になってしまった。この世界では、忌み嫌われるような……旦那さんはきっと、表の世界には出れなくなってしまったのでしょう」
この地方に、もともと人を襲うような怪物はいなかったと、彼女自身が言っていた。怪物になってしまった人間を、そのまま住民達が受け入れたとも考えにくい。
涼子さんはきっと、変身してしまう夫のために、旅人を騙して洞窟に誘導していたのだ。その後出口をふさがれた旅人は金品を奪われたのか、あるいは制御できない獣に、骨ごと食われてしまったか。
「……私が幸運だったのは、彼が私と一緒に開けた場所に入る前に、変身してくれたことです」
「藤堂さん……」
「涼子さん、いいんです。喋りたくないことは無理に口にしなくても。ただ、私は言ったように、この世界の国王の父親です。行き過ぎた息子を叱るのが親の務めだ。私はこれから旅に出ます。そのために、蒼馬とこの剣をお貸しいただけませんか? もちろんお金なら払います……日本円で」
「それは……いいですけど。で、でも」
「ありがとうございます。あなたにこうしてここで会えて……とても助かりました」
本心だった。それに、国王からは追放され、挙句子供を残し突然稼ぎ手を失った彼女の苦労は、聞かずとも推し量られた。
私は剣を手に静かに立ち上がった。長居はせずに、さっさと立ち去るつもりだった。もともとこっちの世界に来たばかりの私には、今の彼女にしてあげられることは何もない。彼女の視線を遮るように、私はそっと玄関の扉を閉じた。外で私を待っていたのは、美しい異界の空の星と、言い知れない孤独感だった。
ため息交じりの白い息が、冷たい夜に溶けていった。折角日本人と会えたと思ったのに、また一人になってしまった。だが、命を奪われかけたことにも、腹は立ったが、とても責める気にはなれない。異国の地で放り出された彼女だって、生きることに必死になって当然だ。むしろ、こっちの世界ではそれがあり得るのだ、と強く再認識することができた。
「藤堂さん!」
「!」
突然家の扉が開かれ、涼子さんが飛び出してきた。今にも泣き出しそうな申し訳ない顔をした彼女が、私の立つ右方向を指差した。
「東です……国王の城は……ここから東に向かった所に……」
「ありがとうございます……ロスカルをお借りしますね」
私はぺこりと頭を下げた。彼女は顔を真っ赤にして、俯いたまま頷いた。蒼馬に跨り、夜の荒野を駆け抜けていく。あっという間に民家の灯りは小さくなり、頭上には満天の星空が広がった。だが、景色を楽しむ余裕は、生憎昼間ほど持ち合わせてはいなかった。
……そう、私はこの世界に来てからというもの、心のどこかで観光気分だった。涼子さんという、日本人にここで出会えたことも油断につながったのかもしれない。異世界と言っても、頑張ればなんとかなるんじゃないかとタカをくくっていた。
ここから先の世界は、そうじゃない。名刺を渡してお辞儀をするような文化は、この先では通じない。命をかけて道を切り開かねば、きっと息子の下には辿り着けないだろう。
「……望むところだ」
誰もいない真夜中の荒野に立ち、私は一人呟いた。こんな気分になったのは、それこそ10代の時以来久々じゃないだろうか。誰にも見えない胸の奥の奥の方で、燻っていたナニカがふつふつと燃え上がるのを、私は静かに感じていた。明かりに照らされた蒼い毛並みを撫でてやりながら、私は昂る感情の赴くままひたすら北へと馬を走らせた。
思えば私は、心の隅で望んでいたのかもしれない。退屈な日々の繰り返しから抜け出すような、少年の日々に夢見たこんな世界を。