異世界冒険譚の幕開け
「悪い親父。金くれねえか」
終電間際に仕事を終え、リビングでスポーツニュースを楽しんでいると、TV画面から息子がニュッと身を乗り出してきた。私は思わず口に含んでいた熱めの紅茶を噴き出し、むせ返りながら座っていたソファからずり落ちた。相変わらず、息子のこの登場の仕方には慣れない。
「ゲホッ、ゴホ……何だって?」
「金が足りなくなったんだ。あっちの世界……ファンタジアでさ」
「またか。庄司、今何時だと思ってるんだ。もう0時回って……」
「あっちの世界じゃまだ昼過ぎだよ」
口元を拭きながら、私はため息をついた。目の前ではTV画面から上半身だけ生やした息子が、久しぶりの我が家を物珍しそうに見渡していた。
不治の病に罹った妻・佳恵、つまり息子にとっては母親を治すため、アイツが異世界に旅立ってから3ヶ月が経った。言っちゃ悪いが、何の取り柄もなかった平凡な息子がどうやって異世界に行くことが出来たのか、私には知る由も無い。だが、訪問先の世界で鍛えられたのだろう、見る見るうちに息子は逞しくなっていった。
それからしばらくして、息子は異世界から妻の治療薬を見事持ち帰ってきたのだった。その時は私も思わず歓喜した。もう治らないと嘆き塞ぎ込んでいた妻と、熱く息子を抱擁した。私達は世界一の孝行息子を持ったものだと、涙を流してアイツに感謝した。
だが息子は、その後「異世界に住む」と言い出した。向こうの世界で「本当に信頼できる真の仲間」を見つけ、「自分の生まれた意味をあの世界で知った」のだという。
当然私達は猛反対した。いくら異世界で活躍したからといって、こっちの世界じゃまだ未成年だ。だが、「ちゃんと顔出すからさ」と、揺るぎない意思を秘めた目で笑う息子に押し切られ、アイツはさっさと異世界に旅立ってしまった。おかげで決算時期だというのに、私は息子の高校やら市役所への手続きに奔走する羽目になった。
それからというもの、たまにTV画面から顔を見せたと思えば、金の催促だ。向こうの世界の勇者だか英雄だか知らないが、これではただの脛かじりだ。私はソファに座りなおし、眉間に皺を寄せ息子を睨んだ。
「金、金って。あのなあ、お前いい加減帰ってきたらどうだ。母さんも……」
「母さんを治せたのはファンタジアの薬のおかげだろ。今そのファンタジアが危機なんだよ。悪い魔法使いと戦わなくちゃいけない。そのためにまとまった金がいるんだ」
「日本円でか? 異世界を救うのに?」
「両替ルートはある。正規じゃないけど……」
私はため息をついて、しぶしぶ財布からお札を抜き取った。この金だって、100時間を超える残業を重ねて、やっと手にした労働対価だ。暇ができたら、少し贅沢して遠くの温泉にでも行こうかと、妻と話していたところだったが……。
「ありがとう! 恩にきるよ!」
「お前もたまには。こっちでゆっくり飯でも……おい!」
私の話が終わる前に、息子は画面の向こうへと消えていった。知らず知らずのうちに、ため息が漏れてしまう。一体どうしてこうなってしまったんだか……。私は乱暴にTV画面を消し、温くなった紅茶を一気に飲み干した。
「それで……庄司くんはまだ帰ってこないんですか?」
「え、ええ。オーストラリアの次はイギリスに留学させようと思ってまして。本当に勉強熱心で、我ながら自慢の息子ですよ……ハハ」
心にもない苦しい言い訳を絞り出し、私はリビングで息子の担任の先生に紅茶を出した。今日は日曜日。休みの日を利用して、息子の心配をしてくれた担任がわざわざ家を訪問してくれたのだった。
「なるほどですね。でも変だな……庄司くん、私が見る限りそんな生徒じゃなかったような……いえ、すいません! ただお父さん。私達の高校が認めている留学期間は1年以内でして、これ以上はうちとしても」
「分かっています。それもアイツが選んだ道ですから。親として責任を持って応援しますよ」
「ご理解されてるならいいんですが……」
いかにも教育熱心そうな、若い女性の担任は、私の言葉にそれほど納得してないようだった。この担任も、まさか息子が高校を中退して異世界に旅立つ道を選んだとは、夢にも思っていないだろう。庄司が最後にこちらに顔を出してから、もう3ヶ月以上経っている。今更戻る気もないのだろう。この場合、親はどんな責任を取れというのだろうか。私は内心頭を抱えた。
「お取込み中スイマセン」
「きゃあああ!?」
「な、何だ!? 何だね君は!?」
突然、TV画面から人が飛び出してきた。私は手にした紅茶をテーブルにぶち撒けた。40インチの液晶から飛び出しているのは、まるで猫のコスプレでもしているような、フサフサの黒い毛と耳を持つ幼い少女だった。私があんぐりと口を開けて呆然としていると、画面から身を乗り出してきた黒髪の半猫少女が、にっこりと話かけてきた。
「ハジメマシテ。私、チクワブいいます」
「ち、竹輪麩!?」
この竹輪麩、日本語をしゃべっている。私はこのあり得ない状況に気絶してしまった、哀れな担任の先生を抱きかかえながら、何とか返事を返した。
「ハイ。チクワブ、オトウサンに会いに来た。オトウサン、お金くれる。ショージさんそう言ってた」
「何だと!?」
私は恐る恐る少女を観察した。顔は確かに人間だ。だが少女の姿をよくよく見ると、明らかに獣のような体毛が……そして猫のような耳やヒゲが生えている。褐色の肌に、サンバの踊り子のような衣装を身に纏った、どう見ても現実世界の住人ではない少女。そんなファンタジーの産物が、現代日本が誇る家電製品から上半身を突き出していた。その異様な光景に、今度こそ私は本当に頭を抱えた。猫耳少女はそんな私を、宝石のような円らな瞳でじっと見つめてきた。私は思わず身構えた。
「あなた、どうしたんですか……きゃあ!」
「近づくな佳恵! 伝染病を持っているかもしれない!」
「ヒドイ! チクワブ、今まで一回も病気になったことアリマセン!」
騒ぎを聞きつけて、妻がリビングへとやってきた。私は妻を手で庇うように制し、猫耳少女からジリジリと距離を置いた。
「何の用だ!?」
「だかラ。チクワブ、お金もらいに来た。ショージさん、お金いる。とってもとってもタクサンお金いる。デモ忙しくてコッチ来れない。だからチクワブが来た」
「庄司? あの子がどうかしたの?」
見知らぬ少女から息子の名前が飛び出して、妻が思わず口を挟んだ。
「ハイ。今度ショージさんの結婚20周年を記念して、お城をカイチクすることにケッテイした。だからタクサンお金が……」
「ちょっと待て! 何が何周年だって!?」
私も思わず叫んだ。しゃべる竹輪麩がキョトンと私を見つめた。
「ショージさん。結婚して20周年だよ。4人の奥サンと15人の子供に恵マれて。今度ミンナで20周年パーティするの。チクワブはショージさんの7人目の娘だよ」
猫耳少女が可愛らしく笑った。衝撃の告白に、今度は妻が卒倒する番だった。
爆発しそうになる頭で、私は何とか竹輪麩の話を整理した。
どうやら向こうでは、時間の流れが違うらしい。こちらよりも早く月日が進み、いつの間にか息子は何と私の2個下にまで成長していた。今ではあちらの世界の伝説の英雄として、大陸を治める王にまで上り詰めているらしい。私は思わず舌を巻いた。平凡な高校生だった息子が、とんだ権力者になったものだ。
「……しかし、竹輪麩さん」
しばらく時間が経ってから、私は慎重に、自分の孫にあたる少女に話しかけた。だが分かってほしい。この場合警戒するなという方が無理だ。
「何故今更、私達の所にまで金をせびりに来るんですか? いくらなんでも国王なら、いくらでも金なんてあるはずでしょう?」
「セビリ……? チクワブ、ワカンナイ。ショージサン税金をムシリ取りすぎて、下々の民がヒヘイしすぎたって言ってた」
「ショージさん、私達の世界救った。私達喜ンデ、ショージさん王様にした」
「毎日みんなでシュチニクリンのゴウユウを繰り返してたら、イツの間にかお金なくナッちゃった」
話を聞きながら、私はゆっくりとずり落ちた眼鏡を元の位置に戻した。どうやら息子は、向こうであまり良い統治をしていないようだった。私は俯いた。
「なんという……なんといったらいいのか。息子がそちらの世界で、申し訳ないことをした」
「? 全然そんなことないよ? チクワブ毎日美味しいもの食べラレて、楽しいよ。これからも毎日美味しいもの食べたイカラ、オトウサン、お願いダカらお金ちょうだい?」
透き通った目を輝かせる孫を、私は心から哀れみそっと撫でてあげた。チクワブは少し驚いたようだったが、やがて気持ち良さそうにゴロゴロ喉を鳴らした。このネコ娘は……息子のせいでまっとうな生き方を教わっていないのだ。思わず目を潤ます私を、少女が不思議そうに見上げた。やがて私は、初めてこの手で孫をぎゅっと抱き寄せた。まさかこんな形で孫を抱くことになるなんて……想像していたよりは、だいぶ毛むくじゃらだった。
「チクワブ。今日はもう帰りなさい。それから息子に、改築する前にもう一度減価償却費を計算し直して、城の資産を把握しろと伝えてくれ」
「??? ……ワカッタ。オトウサン、またね……」
チクワブは私の顔に頬を擦りつけると、寂しそうに尻尾を揺らしTV画面の中へと消えていった。しばらく私は、何も映っていない黒い画面を見つめ続けた。それから身を起こし、通勤用の鞄とスーツを探した。
「母さん、母さん。起きてくれ」
「うぅん……。ああ貴方……良かった……。酷い夢を見ていたの。おかしな竹輪の妖怪がいきなり現れて……」
「大丈夫だよ。全部夢だ。それにあれは猫さ。きっとな。私はもう行かなくては……」
「え……貴方、一体どこに……」
「心配するな。仕事だ。かあさんはしばらく温泉旅行にでも行って、体を休めてくれ。まだ病み上がりなんだから……」
「ダメよ貴方……無理をしては」
ベッドに寝かせた妻の手をゆっくり振りほどき、私は何も映っていないTV画面の前でネクタイを結び直した。いつもの通勤鞄を持ち、平常心を保つため軽く息を吐く。
どんな世界にせよ、息子が起こした混乱の責任は、親が取らなくては。まずは息子が民衆から搾り取っているであろう財産の再分配と、異常な税率の是正からだ。
「行ってきます」
寝室の妻にそう言い残し、私は異世界へと旅立った。