メメント・モリ
メメント・モリ
学生時代のほぼ全ての時間を、いじめを受けるという役回りを任された。
任せてきた相手は、僕が男らしくないという理由で排斥した。
仲良く話していた同級生も、多勢に無勢だから、尻尾を振る相手を変えて、ニヤニヤと笑っていた。その記憶が、風景が、今でも思い出せる。
そいつらは腰の軽い女性たちと違わない。ただ、私が強く感じたのは、友達ですら簡単に裏切るくらいの、人の生き意地汚さだ。
どうしてそんなに生きていたい。
命は尊いからか?
人の尊厳がどこにあるか知ってるか?
考えること、考えられること。もっと簡潔にいえば、個性があること。
今はストレス社会だとかって騒がれたりするけれどそれは、本人が自分を殺しに殺し、仮面をかぶって生きているからじゃないのか?
そりゃぁ、気疲れだってするだろう。
まるであいつのせいで苦しんでいるんだなんて、お門違いも良いところだ。
そういう人たちは、変なところで大人なんだろう。良い言い方をすれば、使うべき言葉を選んでいる。
はっきり言ってしまうと、彼ら彼女らが生まれる前から、社会はそうであったし、最小限のコミュニティーというミクロな環境に馴染み過ぎているからだろう。
朝、目が覚めると、自分はどこにいて、どういう立場なのか忘れている。
学生なのか、社会人なのか、そんなところからボンヤリと考えている。
毎晩自分が死んでいき、毎朝生き返っているような、そんな気分がする。
例えば明日、僕が死んでいたとしても、なんら不思議には思わないだろう。
今ですら、自分という人間がいるのかどうか怪しいのだ。
そういう時、無性に人と話したくなる。とても緊張するけれど、たとえば他人がどんな顔をして、どんな口調で話していても、そこに自分を感じられるのだ。
人の顔色は気になるし、とても怖いけれど、ふと安心する瞬間が確かにあるのだ。
「ねぇ、君は明日死んでいたら、どう思う?」
頭の中で誰かが囁く。
「いいんじゃないかな?死んでいても。」
この人とは、よく夜に話している。自問自答の類だけど、自分と話せるのは貴重だと思う。
「何がいいの?」
「明日死んでいても、誰も僕の死に悲しまなくても、ふと疑問に思うはずなんだ。あの変な奴見なくなったなって。それだけで本当に十二分なんだ。」
「そこに自分がいた証拠だから?」
「そう。形はなくても、いつか忘れられても、一時だけでも他人の中にいられたら、本当に十二分なんだ。」
さて、明日は何を話そうか?
小さな世界に閉じこもって生きているのは、僕のほうだけど、その心地よさは否定したくはないのかもしれない。