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8 賢吾Ⅲ

 次の日以降も、平日は毎日放課後に一ノ瀬家で勉強会が開かれた。

 綾子は火曜の朝、梨絵に


「留年はまぬがれそう!」


 と言うと


「留年?さすがにそこまで悪くなかったでしょ。なにあんた、そんな心配してたの?」


 と言われ、自分は留年の危機になかったことを知った。

 安心感と、拓也に騙されたことへの怒りはあったものの、勉強を止めようとは思わなかった。賢吾に教わりながら、できる限りのことはやろうと決めた。



 金曜日の夜、綾子は日本史の教科書が手元にないことに気がついた。

 暗記科目は一人で家でやろうと決めていたので、勉強会の時には必要としていなかった。その為、勉強会終了後まで、教科書がないことに気がついていなかった。

 時計を見ると、もう夜の8時過ぎである。さすがに今から学校に行くわけにはいかない。

 明日は土曜日。テスト開始の1週間前から部活動は全面休止であるので部活のための出入りはないが、図書室は開放されているため、生徒の出入りはあるはずだ。

 明日朝イチで学校に行き、教科書をとってこようと決めた。



 そして迎えた土曜日の朝9時。

 教科書をとりに行くだけだが、学校に入るので一応制服を身に付けた。

 綾子は電車やバスに乗っていると、不思議な気分になった。自分は制服を着ているが、周りに制服の人がいないということは新鮮だった。

 学校に着き、やや緊張しながら玄関扉に手をかけると、扉はあっさりと開いた。

 綾子はほっとし、靴を履き替える。

 静かな廊下を歩いて、教室を目指した。歩き慣れた道なのに、誰もいないだけで不思議な雰囲気に感じる。

 綾子は一直線に教室へ行き、自分の教科書を回収した。

 そういえば教室の鍵はいつでも開いているんだな、と思った。

 試しに、1年5組の向かいにある生物室の扉に手をかけてみる。扉はびくともしなかった。特別室は扱いも特別なのか、と納得し、その場を離れた。


 綾子は1年生の教室のある4階から階段を降りている途中、ふと、今学校には誰もいないのだろうか、という疑問を感じた。

 さすがに職員室は覗く気になれなかったので、2階にある図書室に行ってみることにした。

 図書室の扉を少しだけ開けて中を覗いてみると、司書の先生だけでなく、5、6人の生徒がばらばらにテーブルに着いていた。

 人がいたことに、綾子は安心感を覚えた。

 ほっとしてから改めて中を見回すと、そこには見知った顔があった。

 綾子は静かにその人物に近づいてみる。


「二宮じゃないか。どうした」


 テーブルを挟んで向かい側に綾子が立った時、賢吾は気配を感じて顔を上げた。

 いつもの落ち着いた声が、図書室という空間に合わせて更に押し殺されている。


「ちょっと忘れ物取りに」


 綾子も、いつもより静かに声を出す。


「勉強中?」


「ああ」


「家でやらないんだね」


「家は姉さんたちがうるさいんだ。できるだけ外でやるようにしている」


 姉がいるということは、綾子には初耳だった。それも、2人以上いるような物言いだ。

 うるさいというのは、騒がしいという意味だろうか。賢吾の様子から、騒がしい姉というものは想像できない。


「そうなんだ」


 賢吾の話に相づちを打ってから


「私も勉強していこうかな」


 と綾子が言うと、賢吾は自分より前に向かって広げていた教科書やプリントを自分の側に引き寄せ、自分の隣に広げ直した。

 綾子が向かい側に座ることを了承している合図だ。

 綾子は、賢吾の向かい側に座り、賢吾が作ってくれたスペースに勉強道具を置いた。

 元々今日取り組む予定であった日本史の勉強を始める。一人黙々と暗記する教科のため、賢吾の邪魔はせずに勉強することができた。

 集中して取り組んでいると、周りの学生の何人かが立ち上がって出ていく姿が目についた。

 何かあったのだろうか、と綾子が出入り口を見ていると


「もう昼か」


 賢吾が、綾子の疑問の答えにあたることを言った。

 時計に目をやると、ちょうど12時だ。


「賢吾くんはお昼どうするの?」


「俺は持ってきている」


「そっか……」


 綾子の声のトーンが下がったことを、賢吾は聞き逃さなかった。


「二宮はどうする?というか、いつまでここにいる?」


 賢吾の口調は、責めているものではなく、単純な疑問を口に出しているだけであった。

 綾子は少し考えてから


「何か買ってきて食べようかな。すごく集中できるし、まだいたいな。ここって何時まで使えるの?」


 普段図書室を利用しない綾子は、土曜日に開放されていることは知っていても、時間までは把握していなかった。


「土曜は4時までだ」


「じゃあ最後までいるよ」


「そうか」


 そう言って、賢吾は勉強道具を鞄に仕舞い始めた。

 その様子を綾子がぼーっと見ている。その姿を見て賢吾は口を開いた。


「何をしている?昼食を買いに行くんだろう」


「あっ、うん!」


 まさか一緒に行ってくれるとは思ってもいなかった綾子は、驚いた。

 それと同時に嬉しくもあった。喜びは、声のトーンに出ていたが、賢吾は気づいていないようだった。

 綾子は慌ててテーブルの上を片付け、立ち上がる。

 2人が向かったのは、学校の近くのコンビニだった。

 綾子は、おにぎりとサラダを手にし、飲み物を選んでいた。綾子の隣では賢吾も飲み物を眺めている。結局、綾子は麦茶、賢吾は緑茶を購入した。緑茶を選ぶ賢吾を見て、綾子はイメージ通りだと感じていた。


 再び学校に戻った2人は、図書室で食べるわけにはいかないので、購買に向かう。

 購買はやっていないが、購買前の飲食用のスペースは開放されていた。

 そこには既に、図書室で見かけた生徒が数名いて、それぞれが昼食をとっていた。

 綾子と賢吾は挨拶をしてから食事を始める。

 綾子はおにぎりにかぶりつきながら、目の前にいる賢吾を眺めた。

 その視線に気づいた賢吾が、不思議そうな表情をしている。

 綾子は誤魔化すように、話し始めた。


「賢吾くんって、お姉さんいるんだね」


「騒がしいのが2人な。二宮は?」


「私は一人っ子」

 

 どうやら誤魔化せたようだ、と安心し、話を続ける。


「まあ、拓也が兄弟みたいなものなんだけどね」


「2人は昔から仲が良いのか」


「赤ちゃんの時から知り合いなんだよねー」


「そうか」


 綾子はふと、賢吾の表情が今まで見ていたものより明るいように感じた。思い返せば、今日まで、勉強中の賢吾の姿しか知らなかった。

 真剣な表情も良いが、今の表情の方がもっと良い、と思った。そして、もっといろんな表情を見てみたいとも思った。


 2人は1時過ぎに図書室に戻り、午後からの勉強を再開した。

 集中して取り組むと、時間が経つのは早いもので、すぐに閉館時間の4時になってしまった。

 綾子は伸びをしたり首を動かしたりして、体をほぐした。

 周囲の生徒も、順に帰宅準備を始める。

 賢吾も、キリの良いところまでやってしまってから、片付けに入った。

 図書室を出たところで


「家まで送ろう」


 賢吾から、そう申し出があった。


「いやいや、大丈夫だよ!てか賢吾くん家どこ?」


 賢吾が答えた場所は、綾子の家とは離れた場所だった。学校からだと、同じバスに乗るが、その後に乗る電車は違う路線のものだ。


「駅まで一緒に帰ろう?」


 賢吾は綾子の提案に不満がありそうだったが、そのまま綾子が押しきる形でその話は終わった。

 2人が乗り込んだバスには他の乗客がいなかった。

 昶と乗ったバスとは大違いだな、と綾子は思った。

 静かなバスに揺られていると、綾子の頭の中には色々なことが浮かんでくる。

 その中の、聞くなら今しかない、ということを思いきって聞いてみることにした。


「賢吾くんって、彼女とかいないの?」


 自分の左隣からきた予想外の言葉に、賢吾は前を向いて一瞬固まる。

 一瞬の間をおいてから


「いない」


 という返答があった。

 そして


「二宮は?」


 という質問があった。

 今度は、賢吾の返答に安堵していた綾子が右側を向いたまま一瞬固まる。


「私もいなーい」


 そう答えながら、賢吾の質問の意味を考えた。たぶん、兄弟の話をした時と同じで、聞かれたから聞き返しただけなのだろう、と。

 その話題について、2人が話し続けるようなことはなかった。

 空いていたバスは10分もしないうちに駅に着き、約束していた通り、そのまま別れた。

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