7 賢吾Ⅱ
月曜日の放課後、綾子は一旦家に帰ってお弁当箱等の不必要な物を置いてから、拓也の家へ向かった。
拓也の家の敷地内には、自転車が3台置いてある。
それを見て、綾子は疑問を持った。
とりあえず中に入ってみようと思い、インターホンを押す。
拓也の母に招き入れられた玄関を見ると、靴がたくさん置いてあった。
「あらあらいらっしゃい!拓也たち、居間にいるわ。人が多くて部屋に入れないみたい」
綾子は、拓也の母の言葉の意味を考えた。「人が多くて」?
そして、昨日の拓也の言葉を思い出す。
「賢吾は俺らと勉強すんの!」
「俺らと先に約束してただろ!」
思い返せば、拓也は「俺ら」と言っていた。
もしかして……と思いながら居間に足を踏み込むと、拓也と賢吾だけでなく、昶と徹の姿もあった。
「あー!綾子ちゃん!待ってたよー!」
人懐こい笑顔でそう声をかけてきたのは、昶だ。
「待ってねえよ」
テーブルに肘をついた拓也は、不満でいっぱいの表情をしている。
「座って座って」
昶は綾子に手招きし、体を少しずらした。
テーブルには、ドアの近くから反時計回りに昶、徹、拓也、賢吾の順に座っていた。
綾子は、昶が空けてくれた場所、昶と賢吾の間に座る。
「綾子ちゃんも賢吾くんに教わりに来たんでしょ?頑張ろうね!」
綾子は、昶と普通に話すことができることに安堵した。
噂はすっかり消え、綾子に対してきつい視線を向ける生徒はいなくなったが、それでも学校では話しかけにくく思っていた。
ふと綾子は、昶も「賢吾に教わりに来た」ということが気になった。
「ねえねえ今更だけど、賢吾くんってそんなに頭良いの?」
綾子の素朴な疑問に、賢吾が口を開くよりも早く答えたのは、拓也だった。
「えっお前何も知らないで来てんの?」
綾子を馬鹿にしたような物言いだ。実際、馬鹿にしているのだろう。
続けて
「こいつ、中間の時、学年トップだぜ」
と、まるで自分のことであるかのように胸を張った。
「そうなの!?すごいねー!」
「同じ眼鏡でも、お前とは大違いだな」
拓也の中にも、眼鏡=勉強ができる、というイメージがあるようだ。
綾子は反論せず、ただ拓也を睨み付けた。
もう拓也は無視して勉強しようと思い机の上を見てみると、それぞれバラバラの科目に取り組んでいる。
その様子からすると、自分で勉強して、つまずいたら賢吾に聞く、ということなのだろう。
綾子もさっそく英語のテキストを取り出す。
そして筆記用具を取り出したところで、昶が声を上げた。
「あ!そのシャープって、この前買ったやつ?」
そう、綾子が取り出したのは、以前昶と出掛けた時に買ったシャープペンシルだった。
「そうなのー!可愛いし書きやすいし、愛用中!」
「僕もストラップ付けてるよー!」
昶はスマホを取り出し、綾子に見せた。
「本当だー!やっぱり可愛いね!」
と、盛り上がり始めた2人にストップをかけたのは、今まで無言で勉学に励んでいた徹だった。
「あーもう!昶も二宮さんもちょっと静かにして!わかんなくなったしょー!」
自分の頭をわしゃわしゃとかきむしりながら、そう言った。
「俺バカだから困ってるの!集中させて!」
そう言う徹に、綾子と昶は声を揃えて
「すみませんでした」
と謝った。声が揃ったことで、2人は目を合わせて小さく笑った。
沈黙が流れる。
しかしその沈黙も、すぐに破られた。沈黙を破ったのは、またもや勉学に励もうとしていた徹だった。
「賢吾せんせー……全然わかりません」
「どこ?」
徹は、テーブルを挟んで反対側にいる賢吾に、自分の数学のプリントを見せた。
「ああ、この問題は……」
賢吾は、昨日綾子にやって見せたように、自分のノートに問題を解いていく。一通り計算して解いた後は、手順ひとつひとつを説明していた。
賢吾のその姿を見て、綾子は素直に尊敬した。
2人のやり取りを盗み見ながら、綾子も自分の勉強を始める。
始めは順調に解いていたのだが、やはり途中でつまずいてしまう。英単語の意味は調べたのでわかったのだが、文そのものをどう訳したら良いかわからない。
綾子は賢吾に聞こうか迷った。
さっきからみんなが代わる代わる質問するため、賢吾自身の勉強が進んでないように思う。
綾子が迷っていると
「どうした。どこかわからないのか?」
と、賢吾の方から尋ねてきた。綾子の手が止まっていたことで察したようだ。
「あ、いや……」
「遠慮するな。俺が答えられることなら教える」
賢吾の申し出に、綾子は甘えることにした。
「じゃあ……この文なんだけど、訳し方がわかんなくて」
綾子は英文を指差す。賢吾は黙読してから
「単語の意味はわかってるか?」
と、確認をしてきた。
「うん。それは調べたからわかる」
綾子がそう答えると
「そうか。なら、まずこの文はここで1回区切って……」
と、1つずつ丁寧に、訳し方を説明し始めた。
数学を教わった時と同様、わかりやすい説明だった。
説明を終えた賢吾からの「わかったか?」という問い掛けに、綾子は頷く。
「ありがとう。でも、賢吾くんの勉強の邪魔だよね。ごめんね」
綾子は、お礼を伝えてから、気になっていたことを言った。
「いや、気にせず質問してくれて構わない」
「でも……」
「教えることも勉強になるんだ」
それに、と賢吾は続ける。
「どっかの誰かさんよりましだ」
と、プリントを握りしめたまま賢吾の方を見ている徹に目をやった。
「賢吾~」
「はいはい。次はどこですか」
徹が賢吾に質問するのは何度目だろう。
全部の問題を聞いているのではないかと綾子が感じるほど、頻繁に質問をしている。
賢吾はその1つ1つに丁寧に答えていた。
綾子は、賢吾のその丁寧さを「優しい」と感じていた。
この日の勉強会は、7時近くまで続いた。
一ノ瀬家の夕御飯が7時頃なので、その前に解散することとなった。
それぞれが自分の持ち物を片付けている時、昶が綾子に声をかけた。
「綾子ちゃん、勉強はかどった?」
「うん、すっごく!賢吾くんの説明わかりやすかったし」
「ねー!賢吾くん、本当の先生みたいだよね!」
無邪気に言う昶には、やはり可愛さがあった。
そんな昶から、提案があった。
「明日もここでやるから、よかったらおいでー」
「え!いいの!?」
「来んな!」
「賢吾くん、いいでしょ?」
昶は拓也の言葉を無視し、賢吾に確認をとっていた。
「俺で役に立てるなら」
賢吾は綾子の目を見て、そう答えた。
その視線を受けて、綾子は胸を高鳴らせた。
「よ、よろしくお願いします!」
そんな自分を誤魔化すように、テーブルに頭がつきそうなくらい深く、頭を下げた。
やり取りが一通り終わるタイミングを見て、拓也の母が綾子に声をかけた。
「綾子ちゃん、晩ご飯食べていく?」
綾子の母は、仕事の都合上夜勤でいないことがある。そんな日は時々一ノ瀬家でご飯をご馳走になるのだ。
「いや、今日は大丈夫。ありがとうございます」
「そう?」
綾子の母から、夜勤のことは聞いていたらしい。有り難い申し出であったが、昨晩の残り物がる。その上、今の自分の感情のことを考えると一人になりたい気分だった。
更に匂いからして、一ノ瀬家の晩ご飯はカレーのようだ。カレーなら一人増えても減っても問題ない、という考えもあった。そこは、拓也の母も同じ考えだろう。
ふと、拓也が何も口を挟んでこないことが気になった。思い返せば、今まで何度か一緒に晩ご飯を食べたが、拓也は綾子が晩ご飯を食べに来ることを拒否したことは一度もなかった。
「おじゃましました」
4人は一斉に一ノ瀬家を出る。
すぐ隣ではあるが、自転車の昶と徹、そして駅まで徒歩の賢吾が、綾子を家の前まで送った。
勉強会初日は、これで解散となった。