恋愛将棋
あたしの名前は野村春菜。
この春から高校一年!ついに今日は高校デビューの日。
真新しい制服に身を包んで、気分もウキウキしちゃう。
憧れの青葉学園のブレザー。
紺色のジャケット、赤いリボン、そして、赤系の色のチェックスカート。
この辺じゃ一番人気のある制服だ。
「はい、こっち向いてー!ハイチーズ」
若菜お姉ちゃんが玄関前であたしの写真をを何枚か撮っていく。
「ねえねえ、若菜お姉ちゃん!キレイに撮れた?」
「ええ、可愛く撮れたわよ。」
良かった。せっかく可愛い制服だし、写真だって可愛く撮りたい。
ブサイクだったらすっごくショックだもん。
「春菜ー。そろそろ時間よー。」
「はーい!」
あたしの記念撮影を門の前で見ていたお母さんが声をかける。
あたしは急いで門の前に走る。
「ごめんなさいね、お母さんは仕事で入学式出られないけど・・・しっかりするのよ。」
「大丈夫!あたしも高校生だもん!それじゃあいってきます!」
あたしはお母さんとお姉ちゃんに手を振って、青葉学園へと走り出した。
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あたしはお父さんを生まれる直前に亡くして、今は看護師のお母さんと大学四年生のお姉ちゃんとの女三人暮らし。
家は決して裕福な家ではないけど、お母さんの貯金と、
お姉ちゃんがバイトしてくれているお陰で憧れだった私立青葉学園に入学することができた。
この学校は、成績もいいし、スポーツに音楽に美術に才能がある人を集める学校で、
この学校を卒業した人は皆成功すると言われているのだ。
正直、あたしは成績も普通で、なんの取り柄もないのに何で受かったのか今だに不思議だけど・・・
とにかく!合格通知を貰ったし、入学手続きも無事終わっし!!
どうやら手違いで合格したわけじゃなさそうで、今日からはじまる高校生生活が本当に楽しみ!
あたしは鼻歌を歌いながら、住宅街の曲がり角を曲がる。
いきなり、どんっという音とあたしの身体に衝撃が走る。
どうやらいきなり誰かとぶつかったみたいだ。
「きゃっ!」
あたしはその衝撃で尻もちをついた。
「いったー・・・」
「大丈夫か?」
低い声。男の人の声だ・・・。
と思いながらあたしは声の主を見あげる。
長めに伸ばした前髪が特徴の黒髪、どこか他人を寄せ付けないようなキツイ顔立ち。
眉間にシワが寄っているが、顔立ちはすごくキレイ。
着ているのものは紺色のジャケット、緑のネクタイに青系のチェックのスボン。
・・・青葉学園の男子制服。
緑のネクタイということは二年生?
(うわぁ、かっこいい・・・。王子様みたい・・・。)
あたしがその人に見惚れているとその人の眉間にさらにシワが寄る。
かなり怪訝そうな顔と不機嫌そうな声で、
「もしもし?」
と言う。
あ、まずい。
ガン見していたから、機嫌悪くなっちゃったかな。
何か言わなきゃ、何か言わなきゃ・・・・
「あっ!大丈夫ッス!元気ッス!」
咄嗟に何か言ったけど、なんかすごい今変なこと言っちゃった!
へ、変な子だと思われたらどうしよう。
恐る、恐る、男の人の顔を見るとぽかん、という顔をしていた。
(うわー!あたしのバカ!バカ!バカっ!)
絶対これ、変な子だと思われた!ドン引きだ!
顔が赤くなる。
もうやだ、はずかしい。今すぐこの場からいなくなりたい。
「おい、・・・・さっきからパンツ見えているぞ。」
「はわっ!!」
そう、あたしは今まで尻もちをついた姿勢・・・
つまり、M字開脚の状態で座っているわけで・・・・
それを正面から見ればそりゃあパンツ丸見え、ということになる。
もうホント、ヤバイくらいに恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
この記憶を今すぐ消したい。
ウキウキだったハズの初登校は、死ぬほど恥ずかしい思い出になるなんて・・・・・今日はついてない。
あたしは急いで、彼の元から走って立ち去った。
青葉学園に着いてからもあたしは気分が晴れなかった。
あれから全力でダッシュして男の人から逃げてきたけど、確かあの人、ウチの高校の・・・しかも先輩なんだよなぁ。
あの人に会ったらどうしよう・・・と思いつつも、とにかく学校には行かないといけないので、あたしは暗い気持ちで昇降口に行く。
昇降口の掲示板には一年生のクラス分けが貼られていて、新入生達が群がっている。
「おっはよー!春菜!
ねえ、またウチら同じクラスだよ!」
掲示板の前にいた茶髪のセミロングの女の子がこっちを見て手を振る。
中学の同級生だった舞だ。
「おはよう・・・・舞。」
「どーしたの?ずいぶんテンション低いね。」
「うん、朝からかっこいい人に会ったんだけどね・・・。
恥かしい所を見せちゃったの・・・・」
「あちゃー・・・・まあ、いつものことじゃん!どんまい!
それより、早く教室行かないと、入学式はじまるよっ!」
「うん・・・・」
あたしは舞にせかされてクラスへと向かう。
とにかく、早く入学式が終わって欲しい。
そして、出来ることならあの人には会いたくない。
そんなことを思いながらも、あたしは舞と教室に向かった。
だけど、そんなあたしの願いも虚しく、あの人に出会ってしまう。
ホントに、ホントに今日はついてない。
「えー、次は生徒会長の挨拶です。」
「新入生の皆さん、おはようございます。生徒会長の花園桜馬です。」
生徒会長、と紹介されたのはなんと今朝ぶつかったあの人だった。
あたしは一瞬凍る。
でも、相手は体育館のステージで話しているんだし、
あたしなんかその他大勢に紛れ込んでいるわけだし、
分かるわけない・・・分かるはずがないはずだ・・・
と思って一旦気持ちを落ち着かせ る。
何度も深呼吸をして、改めて先輩を見たら目があった。
(・・・・顔立ちは本当にキレイだなぁ・・・)
何だろう。先輩と目が会っただけでドキドキする。
今朝のことが恥ずかしいから?
まともに顔を見ることが出来なくって、あたしはまた俯く。
先輩が話していた内容なんて全然耳に入ってこなくて。
どきどきと高鳴る鼓動。
まさか、まさか、そんなはず、ないよね・・・・。
もう一度、先輩の顔を見る。
今朝見た人を寄せ付けたくないって顔じゃなくて、今はいかにも「爽やかな生徒会長」という顔をしている。
あれ?
そこであたしは先輩の変化に気がついた。
おかしいな。今朝見た時はもっと難しそうな人だと思っていたのに。
今の顔はそんな感じがしなくて。
(・・・・もしかして、今朝のことって夢だったりして。)
そうであって欲しい、と本気で願いながら、あたしはその後の入学式を過ごした。
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入学式が終わり、あたしは帰るために校門へと向かう。
なんかついてない一日だった。
それもこれも先輩のせいだ、と思う。
先輩が朝からあたしのパンツを見たせいで・・・今日は散々だったんだ。
靴を履き替えて校門へと向かう途中、桜馬先輩を見かけた。
誰かと話している。
先輩は「爽やかな生徒会長」という顔をしていて、今朝のとっつきにくそうな顔ではなかった。
あたしは先輩を横目で見ながら、校門をくぐった。
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入学して、数日が過ぎた。
青葉学園は、本当に雰囲気が良くって、楽しくて、友達も何人かできた。
あれから、先輩のことを見ることが何度かあったけど、
いつも爽やかそうな顔をしていて、あたしが見た顔は夢なんかじゃないか、と本気で思う。
でも、なんかこう・・・・先輩を見ていると違和感を感じるのだ。
まず、笑顔。
先輩は笑う時目が笑ってない。まるで笑顔を作っているみたいだ。
それから・・・なんとなく、人と話しているとき、壁があるような気がする。
あたしは、まだ全然先輩のことを知らないから、普段がどうなのか全然知らないし、勘ぐりすぎなのかもしれないけど。
「ねえねえ、桜馬先輩ってかっこいいよね?」
新しい友達のみっちゃんが話しかけてくる。
「まあ、そうだけど・・・「桜馬先輩モテるみたいよ。
成績優秀、スポーツはそこそこできるし、何でも器用にこなせて、面倒見もいいし。」
舞が横から冷静に話す。
「うわー!なんか王子様みたい!」
「でも、女の子の告白は皆断っているみたいよ。なんでもその理由がね・・・」
「ふふっ!それはあたしに惚れているからでしょ!」
「いや、あんた、この学校に入ってきたんばかりでしょ。」
みっちゃんと舞の会話をぼんやりと聞きながら、桜馬先輩ってモテるんだなーと思った。
まあ、確かに顔が良くて何でも器用にこなせるならモテるかもしれない。
あたしの胸がざわつく。
何で・・・・こんな、先輩がモテるって話を聞いただけでこんなに不安になるんだろう・・・・。
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部活見学がはじまった。
部活見学といっても、部活推薦できている人は入る部活が決まっているので、
この部活見学は部活が決まっていない人達向けの形式上のものである。
暇つぶしにでも、と思って、あてもなく、ふらふらと回っていたら、部室棟の前に桜馬先輩が座っていた。
他の部活が声を出して立って人を呼びかけている中、先輩は一人パイプ椅子に座って本を読んでいた。
先輩が座っている椅子の前の机に「将棋部」と書いてあるから、たぶん、先輩も部活に入っているのだろう。
なんとなく、気になってあたしは先輩の前まで歩いていく。
「先輩、将棋やるんですか?」
読書に熱中していた先輩が顔をあげる。
人を寄せ付けたくなさそうな顔。最初に出会った先輩だ。
「将棋に興味あるのか?」
あたしの反応を伺うような先輩の質問。
興味がなければかまってくるな、と言わんばかりの不機嫌さだ。
・・・うう、そんなに邪険に扱わなくてもいいのに・・・話しにくい。
「・・・・えっと、お父さんが好きだったんです。」
本当は将棋なんて全然興味もなかったけど、それを口にするとあっちいけと言われそうなので、お父さんのことを話す。
今でも、お父さんの部屋には将棋盤と駒と将棋の本が残っている。
お父さんは昔から将棋が好きだったのよ、とお母さんも言っていたので嘘は言ってない。
「ふーん。お前も将棋指すのか?」
少し先輩の反応が柔らかくなった。
さっきまでの不機嫌な感じはない。
むしろ、同類を見つけたかのように嬉しそうだ。
本当に先輩は将棋が好きなんだなぁ。
「いえ、お父さんはあたしが生まれる前に亡くなったから・・・・全然、ルールとか分からなくて・・・・。」
「そうか・・・・悪いことを聞いたな。」
先輩が申し訳なさそうに謝る。
その後、先輩は、少し考えて、
「興味があるなら、教えようか?」
先輩は、少年のような顔でいたずらっぽくニヤッと笑った。
普段見せている仮面のような笑顔とは違う、心から笑っている笑顔。
その笑顔を見た瞬間、顔が赤くなる。
心臓の鼓動がさらに早くなって、まともに先輩の顔が見れなくなる。
――――――あたし、先輩のこと、好きになっちゃったんだ。
あたしは自分の気持ちを理解してしまった。
いつから惹かれていたのかもよく分からないけれど。
でも、はっきりと堕ちたと分かったのは、たぶん、この瞬間。
「・・・・はい。」
あたしは震える声で、先輩に返事をした。
「ここが、将棋部の部室な。
活動は毎日しているから、好きな時に来てくれたらいい。」
先輩はあたしに入部届けを渡すと、早速部室へ案内してくれた。
四畳くらいの小さな畳の部屋には将棋の本がたくさん置いてあって、将棋盤が真ん中に置いてある。
「一応、俺の他に部員は4人いるが・・・まあ、幽霊部員だから来ることはないから。」
と、いうことはあたしは毎日先輩と二人きりになれるということ?
嬉しくて、舞い上がりそうになる。
先輩と二人きりって、なんか嬉しいな。
「あと、これ、部室の鍵。無くすなよ。」
そう言って、先輩はあたしに鍵を渡してくれた。
初めて触れた先輩の手は、ひんやりと冷たくてどきっとしてしまう。
思ったよりも先輩の体温は低いらしい。
「それから、野村は将棋のルールを知らないから、まずこの本を読め。」
そう言いながら、先輩は「よいこでもわかるしょうぎにゅうもん」という本を探して、あたしに渡した。
「これ、子供向けですよね?」
馬鹿にされているのだろうか。
確かにあたしは馬鹿だし、成績だってよくないけど・・・・
あたしはちょっぴり幻滅しながら先輩を見る。
「それが一番分かりやすいからな。まずは、それでルールを覚えろ。」
先輩はあたしを馬鹿にしている感じはなく、普通にこれが分かりやすいだろうという親切心で渡したみたいだ。
分かりにくい優しさだなぁ、と思ってあたしは苦笑する。
もっと言葉を使えば良いのに。
でも、そんな先輩の分かりにくい優しさが心地良かった。
「先輩、今読んでもいいですか?」
「いいよ。それじゃあ、俺、詰将棋解いているから。」
そう言って先輩はその場に座り、さっき読んでいた本の続きを読む。
あたしはちょっと迷って、先輩から人一人分空けたところに座った。
四畳くらい、という狭さもあって、先輩が近くてどきどきする。
先輩は、本に没頭しているのか、真剣な顔で本を読んでいる。
ものすごく真剣な顔をしていて、ドキドキしてきた。
やばい。先輩の顔を見たらおかしくなりそうだ。
あたしは無理矢理本に視線を移して、本を読みはじめた。
子供向けの本らしく、将棋の駒の動かし方や反則技など基本的なことが優しく書いてある。
これならあんまり本を読まないあたしでも大丈夫かな、と思いながら読み進める。
「・・・・先輩。」
一通り読み終わった所で、あたしは先輩に声をかける。
「何だ?」
先輩は本に視線を置いたまま返事をする。
「あの・・・駒の動かし方とかは分かったんですけど、どうやったら王を取れるんですか?」
「・・・・。」
先輩が呆れた顔でこっちを見る。
一瞬先輩と目があって、ドキッとした。
先輩は小さくため息をつきながら、
「それは、実際に指しながら覚えるしかない。」
と短く言った。
「でもでも、なんかこう・・・これをやったら大丈夫みたいなやつありません?」
「一応、攻め方とかの種類はあるけど・・・ただ、相手も人間だから毎回同じ事していたら勝てないぞ。」
「むー。それじゃあ、どうやったら勝てるんですか?」
「うーん・・・・・・これをやれば絶対勝てるっていうのはないな。
地道な研究と、勉強。あとはたくさん指す事。これしかない。」
思ったよりも将棋って難しいかもしれない。
どうしよう、あたしにできるのかな。
「大丈夫だって。やっていることは「いかに相手より早く王を取るか」だから。まあ、パズルみたいものだ。」
不安そうなあたしを見て先輩が励ましてくれた。
パズルでさえ苦手なあたしに将棋なんかできるのだろうか。さらに不安が増す。
でも、やるといった以上は頑張るしかないよなぁ。
「とりあえず、一局指そう。指しながら教えるから。」
そう言って先輩将棋盤をあたしと先輩の間に置いた。
将棋の駒を丁寧に並べて行く。
「あれ?先輩、駒少なくないですか?」
「ハンデだよ、ハンデ。最初から同じ条件でやったら俺が勝つだろ。」
それもそうか、と納得する。
先輩、ちゃんとあたしのこと考えてくれているんだ、と少し嬉しくなった。
何でも器用にこなせるって皆が言っていたけれど、
本当は物事は器用にこなせても、人付き合いは不器用な人なのかも。
まあ、あたしの勝手な解釈ですけれども。
「先輩、やりながらおしゃべりしていいですか?」
ちょっとだけ、欲を出してみる。
将棋でもいいけど、やっぱり、先輩と話したい。
「・・・・・程々にしろよ。」
先輩が少し考えて、返事をする。
嫌な顔はしていないのでたぶん大丈夫かな。きっと。
やっぱり、先輩は優しいな。
「えへへっ、先輩優しいですねぇ。」
「・・・・・。」
思ったことを素直に言うと、先輩は一瞬複雑そうな顔をする。
その後、いつものとっつきにくい顔に戻って、
「はじめるぞ。俺が先攻で、野村は後攻な。」
と少し距離を取るかのように事務的に言った。
もしかして、距離を取ろうとしているのかな。
とぼんやり思う。
まあ、でも、あたしは気にしない。
そんなことを気にしていたら、先輩を知ることなんて出来ないから。
「はいっ。お願いします。」
本で読んでいたらなんか複雑そうだったけど、実際に将棋やるとなるとちょっとわくわくしてきた。
先輩は早速、歩を進ませる。
「先輩って二年生なのに生徒会長ですよね。何で生徒会長なろうと思ったんですか?」
あたしが、歩を進ませながら、質問をする。
「別にやりたくてやっているわけじゃない。」
急に場の雰囲気が変わった。
冷たい空気が流れてくる。
何気なく聞いた質問が地雷だったことに気づいて、あたしは恐る、恐る、先輩の顔を見る。
その顔には、何の感情も浮かんでなかった。
生気もない、死んだ人のような顔。
あたしはぞくっ、と身を震わせる。
何がそこまで・・・・先輩を飲み込もうとしているのだろう。
しばらく、あたしは将棋の駒を動かすのが精一杯で、何も言えなくて。
何か言いたかったけれど、何も言葉が出てこない。
先輩はずっと、機械のようにただ駒を動かしている。
その姿にだんだんと不安になってきて、あたしは慌てて、次の話題を探す。
「せ、先輩はいつから将棋好きなんですか?」
あたしの声は震えていて、声を出すのもやっとという感じだったけど、
先輩に届いたみたいで、張り詰めていた空気が、緩むのを感じる。
先輩の表情に生気が出てくる。
「・・・・小学生の頃かな。」
そう言った先輩の声はとても懐かしそうで、目を細めながら先輩は言った。
この話題は地雷ではない、と分かって少し胸を撫で下ろした。
「へぇー!そんなに前から好きなんですね。」
「昔、人に教えて貰って。それからずっと好きなんだ。
強い人に勝つのは難しいし、上を目指すのも楽じゃないけど、やりがいがあって面白い。」
まるで子供のようなキラキラした目で先輩は言った。
さっきまでの先輩とは全然違う。
「・・・・本当に、将棋が好きなんですね。」
「そうだな。一時期は本当にプロになりたいって本気で思った。」
さっきの表情とはうってかわって、先輩の表情が曇る。
「・・・・一時期って、今は・・・・?」
「・・・・・・・。」
先輩が悲しそうな、どうにもならないような顔をした。
まるで、何かを諦めたような・・・悲しい顔。
胸が痛くなる。
どうして、諦めてしまったんだろう。
何があって、夢を諦めざるを得なかったのだろうか。
少し考えて、ああ、そうか、とあたしは気付いた。
だから、さっき、先輩は生気のない顔をしていたんだ。
夢を追いかけるのを辞めさせられて、ただ周りが望むままに生きるしかないから。
生徒会長をしているのも、やりたくてやっているわけじゃないって先輩は言っていた。
やりたくなくても、やるしかないんだ。
それが、きっと、先輩の置かれている状況なんだろう。
だけど、それでも、先輩は将棋を辞められなくて、こうして一人部活をしているんだ。
そう気付いたら泣きたくなってきた。
「・・・・あたし、先輩の邪魔してませんか?」
「ん?してないよ。将棋に興味を持ってくれるのは嬉しいから。」
その笑顔にあたしは本気で涙が零れそうになる。
先輩は本当に将棋が好きで、あたしが将棋に興味を持ってくれることが嬉しいんだと感じる。
だから、だからこそ・・・夢を諦めてしまった先輩を思うと切ない。
泣きたい気持ちを紛らわせたくて、あたしは将棋盤へと目を向ける。
「よかったです。えーっと・・・」
あたしは将棋盤を見ながら次の手を考える。
気がついたら、あたしは先輩に王手をくらいそうだった。
これはまずい。今まで適当にやっていたとはいえ、あっさり負けるのは嫌だなぁ、と思ってあたしがうんうん唸っていると、
「いいか、行き詰まった時は落ち着いて、視野を広く、思考は深く。
そうすれば、おのずと道が見える。」
と先輩が声をかけてくれた。
あたしは顔を上げて、先輩の顔を見る。
大丈夫、お前ならできる、なんとなくそう言われた気がして、再び将棋盤に目を落とす。
落ち着いて、視野を広く、思考は深く。
「・・・・えっと。
あ、これかな。銀を動かしてっと・・・。」
無事王手の危機を乗り越えてほっと一息つく。
あたしでもできるんだ。
これはちょっと嬉しい。なんとなく、将棋の楽しさが分かってきたかも?
「そうそう。やればできんじゃん。」
先輩が嬉しそうに笑う。
「えへへっ、数学とかいつも分からなくなると全然解けないのに、なんかできちゃいました。」
「野村は落ち着いて考えればいいんだよ。
勉強も将棋も同じ。冷静に考えれば解けない問題はないから。」
「そうなんですか・・・・ためになります。」
「おっ、もうこんな時間か・・・。生徒会に行かないと・・・
それじゃあ、また明日な。」
そう言って、先輩は慌てて部室を出て行った。
また明日。
先輩は、何気なく言った言葉かもしれないけど。
その言葉がこんなにも嬉しいなんて。
恋って不思議だな。
今まで興味なかった将棋をやろうって思ったり、先輩の何気ない一言が嬉しかったり。
先輩、あたし、先輩のことが、本気で好きなんです。
側にいてもいいですか?
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家に帰ってから、あたしはお父さんの部屋に行って何冊か将棋の本を取り出して夢中で読んだ。
少しでもできるようになったら、先輩も喜んでくれると思って、一生懸命勉強をする。
「どうしたの?春菜、将棋の勉強なんかして。」
何時の間にかお姉ちゃんが帰ってきたのか、あたしの後ろに立っていた。
夢中になっている間にすっかり時間が立っていたらしい。
「あっ!お姉ちゃん!おかえり!」
「何?好きな人でもできたの?」
お姉ちゃんがいたずらっぽく笑う。
どうやら、お見通しらしい。
あたしの顔が赤くなったのが分かったのか、
「ふふっ、頑張って。春菜は可愛いから、きっと振り向いてくれるわよ。」
とお姉ちゃんは優しく笑った。
そうかなぁ、先輩はあたしのこと見てくれるようになるかな?
恋愛って、なんだか将棋みたいだ。
一手、一手、相手の気持ちに近づく為の手を考えて、指して行く。
先輩の気持ちに近づくにはどんな手がいいんだろう?
「いいか、行き詰まった時は落ち着いて、視野を広く、思考は深く。
そうすれば、おのずと道が見えるはずさ。」
落ち着いて、視野を広く、思考は深く。
先輩の言葉を思い出す。
あたしにできるのかな?伝わるかな?
次の日、あたしは早速、先生に入部届けを出してから部室に向かった。
部室のドアを開けようとすると、中から声が聞こえる。
「桜馬君が好きなの。」
あたしは、ドアを開けようとした手を止める。
こっそりドアの窓から中を覗いて見ると女の人が先輩を抱いていた。
赤いセミロングの髪ふわふわのバーマがかかっていて、あたしよりも綺麗で大人っぽい人。
「お願い。遊びでもいいの。側にいさせて。」
女の人は潤んだ瞳で桜馬先輩を見る。
先輩の顔は無表情で、何を思っているのか、分からない。
どうしよう。
心が痛くて泣き出しそうになる。
こんなの見たくない。
逃げたしたい気持ちになるけど、先輩が何を言うのか気になって、動けない。
ずきずきと心が痛み出して、頭の中がガンガン鳴る。
もし、先輩が彼女を受け入れたら、あたしはどうなってしまうのだろう。
「・・・・悪いけど、俺、そういうの興味ないから。」
心の底からほっとしている自分がいた。
あたしはずるい人だ。
他の人が振られることを願うなんて。
女の人は残念そうに俯く。
「・・・・・どうしても、ダメ?」
未練深そうに女の人は言った。
「・・・タメだ。いいかげん離せ。」
先輩は冷たく言い切る。
人を寄せ付けない、絶対零度の顔。
女の人は泣きながら名残惜しそうに手を離し、こっちに向かって来る。
あ、まずい。
と思った時は時遅く、女の人はドアを開けて部室を出て行く。
部屋の中にいた先輩と目が合う。
「・・・・見ていたのか?」
先輩の目がさらに細くなる。
どうやら、見られたくないものを見てしまったらしい。
「・・・・いえ、さっき来たばっかりで・・・何かあったんですか?」
あたしはかぶりをふると、先輩の目がさらに細くなる。
目を逸らしたいけど、ここで逸らしたら疑われてしまうのでなんとか耐える。
「・・・・まあいい。部活、はじめるぞ。」
そう言いながら、先輩は将棋盤を準備する。
なんとなく、表情がきつい。
距離は近いのに、なんとなく先輩が遠く感じる。
少しだけ、不安になる。
指しはじめてからも先輩は無言で、ただ眈々と駒を動かして行く。
将棋をする機械みたいだ、とあたしは思った。
何の感情も見せない、いや、見せないようにしている、ただの人形。
これじゃあ、まるで、昨日と同じ・・・・・
あたしは昨日の先輩を思い出す。
何がそこまで・・・先輩を苦しめているのだろう。
先輩の抱えている闇はあたしが思っているより大きいものなのかもしれない。
「先輩。」
あたしは覚悟を決めて、先輩に話しかけた。
「何?」
先輩はあたしを見ないで返事をする。
短い返事。表情は無表情で、冷たい、重い空気が漂っている。
触れるな、という先輩の無言の圧力を感じる。
あたしは深呼吸をして、まっすぐ先輩を見た。
「何がそこまで・・・・先輩を追い詰めているんですか?」
先輩があたしを見る。
何の感情もない顔。
怖くて、怖くて・・・・本当は目をそらしたいし、この場から逃げ出したい。
だけど、ここで逃げてしまったら、たぶん、あたしはここにこれなくなるから。
必死であたしは先輩のことを見続ける。
「・・・・何のことかな?」
先輩は、仮面のような笑顔を浮かべる。
ああ、まずい。
何でか分からないけれど、このままにしたらまずい。
先輩はこのまま何もなかったことにするつもりだ。
先輩のことはまだまだよく分からないけれど、あたしの第六感がそう言っている。
なかったことにするな、と。
「とぼけないで下さい!」
「うまく言えないけど、なんか先輩の周りに大きな闇があって・・・
その闇に先輩が飲み込まれてしまいそうで・・」
「・・・へぇ。だから、俺の心の闇を話せって?」
先輩の目がさらに細くなる。
空気がさらに重くなる。
先輩の目は冷たくて、怖くて、身体が震える。
たぶん、この闇は先輩にとって触れられたくないこと。
負けちゃだめだ。この空気に飲まれちゃだめだ。
あたしは目を逸らしたくなる自分を必死に押さえて先輩を見続ける。
「・・・・別に・・・先輩が話したくないなら、話さなくてもいいです。
ただ・・・その闇に飲まれないで欲しいんです。」
そう、話したくないなら、話さなくていい。
あたしは機械のような先輩じゃなくて、
将棋のことで少年のようなキラキラした笑顔を浮かべる先輩が見たいから。
この重苦しい闇に飲まれて欲しくないだけだから。
先輩が虚を付かれたような顔をする。
少しだけ、空気が軽くなった気がした。
「・・・・野村は・・・思ったより馬鹿じゃないんだな。」
ぽつり、と先輩がつぶやく。
「なっ!し、失礼ですよ!」
確かにあたしはバカだけど、面とむかってはっきり言われると傷つく。
「悪い、悪い。」
あたしがむくれていると、先輩が柔らかく笑った。
あ、いつもの先輩が戻ってきた。
掴みどころがなくて、将棋が好きで、すごく分かりにくいけど、優しい先輩。
あたしの大好きな先輩。
「先輩、あたし、先輩のことが好きです。」
思わず、勢いであたしは先輩に告白してしまう。
言った瞬間、思わず顔が赤くなる。
先輩の顔が怖くて見れなくて、あたしは目つむって俯く。
だけど、さっきまで感じていた冷たくて、重い雰囲気はなくて、
恐る恐る目を開けて先輩を見ると、先輩はちょっと困ったような顔をしていた。
「・・・その気持ちには答えられないよ。
だけど・・・・将棋に興味があるなら、部活に来て欲しい。
理由はどうあれ、将棋に興味を持って貰えることは嬉しいから。」
と、先輩は言葉を選びながら、言った。
嫌がられてない、拒否られてもない。
むしろ、もうあたしがこ部活になくならないように、気を使われている?
ただ、今はあたしの気持ちに答えられないというだけなのかな。
まだまだチャンスはあるのかな。
「本当ですか?それじゃあ、毎日部活来ます!」
あたしはとびっきりの笑顔で、先輩に言った。
先輩はため息をついて、
「全く、将棋をやるって言わなきゃ相手にしたくない奴だよ、本当に。」
と皮肉を言いながら、次の一手を打つ。
「それって、あたしにきゅんときたって意味ですか?」
あたしが茶化しながら一手を打つと、
「・・・どこをどう解釈したらそうなるんだよ!」
と怒声が飛んで来た。
先輩の顔を見ると難しい顔をしていて、照れている様子は全くない。
まだまだ道のりは遠いみたいだ。
「えー!違うんですか!」
「はい、王手。」
先輩は楽々とあたしを追い込む。
「えー!いつのまにー!」
まだまだ、二人の距離は遠いし、道のりも長いけど。
だけど、あたしは諦めない。
まだあたしと先輩の恋の将棋は序盤戦。まだまだ勝負の行方は分からない。
いつか、先輩の気持ちに王手をかけてやるんだ。
そんなことを思いながら、あたしは次の一手を考えはじめた。
END