「双子なのだから、どちらが嫁いでも同じでしょう」と母が言うので、姉の代わりに嫁いだら公爵閣下に一目で見破られました
「双子なのだから、どちらが嫁いでも同じでしょう」
母はそう言って、ティーカップを置いた。
かちり、と小さな音がした。それで話は決まりだった。
テーブルの上には、一通の手紙が開かれている。
封蝋は、雪の結晶の紋章。
ベルクール公爵家。社交界で「氷の公爵」と呼ばれる人の家だ。
「いやよ、絶対にいや!」
姉のアデルが、金色の巻き毛を揺らして叫んだ。
「あの方、笑ったところを誰も見たことがないのよ? 舞踏会でも壁際で腕を組んで、話しかけた令嬢を一言で泣かせたって噂だわ」
「ええ、ええ。分かっていますよ、アデル」
母は姉の手を優しく撫でた。
それから、ようやく私のほうを見た。
「だから、あなたが行くのよ。……ええと」
母の目が、一瞬だけ泳いだ。
いつものことだ。私の名前が、すぐには出てこないのだ。
「アデルじゃないほう」
それが、この家での私の呼び名だった。
◇
私、ノエル・ベルナールは、ベルナール伯爵家の双子の妹として生まれた。
姉のアデルとは、顔も背丈も声も、ほとんど同じだ。
違うのは、母がどちらを覚えているか、だけだった。
ドレスは、いつも姉のお下がりだった。
姉が二度着たドレスを、私が三度目に着る。
社交の場では、知らない人に「アデル様」と呼ばれ、知っている人には「アデル様の妹君」と呼ばれた。
どちらで呼ばれても、私は返事をした。
返事をしないと、母が困った顔をするから。
「手紙には、何と書いてあるのですか」
私が訊くと、母は面倒そうに便箋を読み上げた。
「『二年前の王宮舞踏会で、壁際で姉君のショールを持っていたご令嬢に、結婚を申し込みたい』――ですって」
「壁際で、ショールを……」
「アデルのことに決まっているでしょう。あの夜、アデルはとても目立っていたもの」
私は黙った。
覚えている。あの夜、姉は踊りに誘われて、私にショールを押しつけていった。
「持っていて。すぐ戻るから」と言って、結局、最後の曲まで戻らなかった。
ショールを抱えて壁際に立っていたのは、私だ。
その夜、窓の外では雨が降っていた。
広間には音楽と笑い声があふれていて、雨の音はほとんど聞こえなかった。
それでも私は、硝子を伝う雨粒をずっと眺めていた。踊る人たちを見ているより、そのほうが落ち着いたから。
隣に誰かが立って、ひと言だけ話しかけてきた気がする。
顔は、よく覚えていない。背の高い人だった。
私が短く答えると、その人はそれ以上何も言わずに、しばらく一緒に雨を見ていた。
でも、それを口にしても、母は聞かないだろう。
母の中で、目立つものは全部アデルのもので、目立たないものは全部「アデルじゃないほう」のものだった。
「公爵家には、アデルが嫁ぐとお返事しておきます。あなたはアデルとして行きなさい。双子なのだから、誰にも分かりはしないわ」
姉が、ほっとしたように笑った。
「ありがとう、お母様。……あなたも、頑張ってね」
姉は私の肩をぽんと叩いた。
名前は、呼ばなかった。
◇
出発の前夜、私は姉のお下がりのドレスを三着、古い鞄に詰めた。
母は、姉の香水を一瓶だけ持たせてくれた。
「アデルらしく振る舞うのよ。あの子の香りをさせていれば、誰も疑わないわ」
「……はい、お母様」
「それから、余計なことは喋らないこと。あなたが喋ると、すぐにアデルじゃないと分かってしまうから」
私は、こくりと頷いた。
喋らないのは、得意だった。
書斎に挨拶に行くと、父は書類から顔も上げずに言った。
「ああ、行くのか。向こうで、アデルによろしく伝えてくれ」
「……お父様。アデルは、ここに残ります」
「ん? ああ、そうだったな。じゃあ、気をつけて」
父は、最後まで顔を上げなかった。
翌朝、玄関で見送ってくれたのは、年老いた門番だけだった。
門番は帽子を取って、深々と頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、アデル様」
私は、微笑んで手を振った。
それが、この家で最後に呼ばれた名前だった。
◇
ベルクール公爵邸は、王都の北にあった。
白い石造りの館で、庭には雪のように白い花が咲いている。
馬車を降りると、玄関前に背の高い男の人が立っていた。
黒い髪に、灰色の瞳。
噂どおり、表情というものがほとんどない。
ルシアン・ベルクール公爵、その人だった。
私は、母に何度も練習させられたとおりに、姉の真似をして微笑んだ。
姉のお下がりの、桃色のドレス。
姉が好きな香水。
姉の口癖。
「お初にお目にかかります。ベルナール伯爵家の、アデルでございます」
ドレスの裾を軽く直してから、お辞儀をする。
顔を上げると、公爵閣下と目が合った。
一秒。
二秒。
灰色の瞳が、わずかに細められた。
「君は、アデル嬢ではないな」
息が止まった。
指先から、すうっと血の気が引いていく。
見破られた。
初対面の、それも、たった数秒で。
母にも、父にも、家の使用人にさえ見分けてもらえなかったのに。
「……申し訳、ございません」
声が震えた。
送り返される。伯爵家は公爵家を欺いた罪に問われる。母は怒るだろう。「どうしてうまくやれなかったの」と。
私は深く頭を下げたまま、次の言葉を待った。
けれど、降ってきたのは、思いもよらない言葉だった。
「……よかった」
顔を上げた。
公爵閣下は、ほんのわずかに、肩の力を抜いたように見えた。
「私が求めたのは、君だ」
「え……?」
「二年前の舞踏会で、壁際でショールを持っていたのは君だろう。姉君は、あの夜ずっと踊っていた」
私は、口を開けたまま固まった。
「伯爵家から『アデルが嫁ぐ』と返事が来たとき、手違いかと思った。だが、来たのは君だった。……だから、よかったと言った」
◇
応接間に通されると、温かい紅茶が出てきた。
私は、カップを両手で包んだまま、しばらく何も言えなかった。
向かいに座った公爵閣下は、じっと私を見ている。
睨んでいるのではない。
ただ、見ている。そういう目だった。
「ひとつ、頼みがある」
「は、はい。何なりと」
「名を教えてくれ」
私は、瞬きをした。
名前。
最後に誰かに名前を訊かれたのは、いつだっただろう。
家庭教師は「お嬢様」と呼んだ。社交界では「アデル様」か「妹君」。母は「アデルじゃないほう」。
誰も、訊かなかった。
訊く必要がなかったのだ。私は、姉のついでにそこにいるだけだったから。
「……ノエル、です」
自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
声に出して名乗るのは、何年ぶりだろう。
「ノエル」
公爵閣下が、繰り返した。
低く、確かめるような声だった。
「ノエル。いい名だ」
カップの中の紅茶が、小さく揺れた。
手が震えていたのだと、少し遅れて気がついた。
◇
その夜、私はなかなか眠れなかった。
広すぎる寝台。
柔らかすぎる枕。
窓の外では、風が白い花を揺らしている。
目を閉じると、昼間の声が何度もよみがえった。
ノエル。ノエル。いい名だ。
本当だろうか。
明日の朝になったら、「やはり手違いだった」と言われるのではないか。
「アデル嬢を呼んでくれ」と言われるのではないか。
私は寝台の上で膝を抱えた。
期待するのは、怖かった。
期待して、また名前を忘れられるくらいなら、最初から「アデルじゃないほう」のままでいたほうが楽だった。
明け方近くになって、ようやく少しだけ眠った。
◇
公爵邸での暮らしは、驚くことばかりだった。
翌朝、私に用意された部屋の扉には、真鍮の小さな札がかかっていた。
『ノエル』
ただそれだけ、刻んであった。
私は、しばらくその札の前から動けなかった。
指でそっとなぞると、真鍮はひんやりと冷たかった。
刻まれた溝は、まだ新しかった。昨日のうちに、誰かが急いで作らせたのだ。
「昨夜、旦那様が職人を叩き起こしまして」
通りかかった執事が、少し困ったように笑った。
「『アデル』と刻んだ札を、すでに用意してございましたので。旦那様が、それは要らないと」
朝食の席では、執事が椅子を引きながら言った。
「おはようございます、ノエル様」
侍女は、髪を梳かしながら言った。
「ノエル様の御髪は、とても柔らかいのですね」
庭師は、花を一輪差し出しながら言った。
「ノエル様に。旦那様が、一番きれいなのを選べと」
一日に何度、名前を呼ばれただろう。
数えようとして、途中でやめた。
数えきれないくらい呼ばれたのは、生まれて初めてだった。
夕方、届いた手紙の宛名にも、こう書いてあった。
『ノエル・ベルナール様』
差出人は、公爵閣下だった。
同じ屋敷の中にいるのに、わざわざ手紙をくれたのだ。中には、たった一行。
『今夜の晩餐は、君の好きなものにした』
私は、手紙を持ったまま首を傾げた。
好きなもの。
私の好きなものなんて、私自身もよく知らないのに。
◇
晩餐の席に並んでいたのは、白身魚の香草焼きと、林檎のタルトと、砂糖を入れない紅茶だった。
全部、私の好きなものだった。
「……どうして、ご存じなのですか」
私が訊くと、公爵閣下はナイフを置いた。
「見ていた」
「見て……?」
「二年前の舞踏会で、君は軽食の卓から白身魚だけを取っていた。林檎のタルトは、姉君の分まで取ってきて、自分はひと口だけ食べていた。紅茶に砂糖を入れなかった」
私は、フォークを握ったまま動けなくなった。
「昨日、君を一目で見分けたのも同じだ。君はお辞儀の前に、一度ドレスの裾を直す。姉君は直さない」
「……そんな、ことで」
「それから、笑う前に一度うつむく。雨の音がすると、窓のほうを見る。君の声は、姉君より少しだけ低い」
公爵閣下は、淡々と並べていった。
まるで、本の頁を読み上げるように。
「双子だから同じだと、君の母上は思っているのだろう。だが、見ていれば分かる」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。
「誰も、見ていなかっただけだ」
喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
窓の外で、ぽつりと雨の音がした。
私は、思わず窓のほうを見てしまった。
それから、はっとして公爵閣下を見ると――
あの氷の公爵が、ほんの少しだけ、口の端を上げていた。
「ほら」
「……っ」
私はうつむいて、それから、笑った。
うつむいてから笑う癖があるなんて、十八年間、知らなかった。
「……閣下は、どうしてあの夜、私を見ていらしたのですか」
訊いてから、少し後悔した。
厚かましい質問だったかもしれない。
けれど公爵閣下は、気を悪くした様子もなく、窓の外に目をやった。
「あの夜も、雨が降っていた」
「……はい。覚えています」
「私は舞踏会が苦手でね。いつも壁際にいる。誰と話しても、氷のようだと言われるから」
雨粒が、窓硝子を伝って落ちていく。
「広間の誰もが、踊る人を見ていた。君だけが、窓の外の雨を見ていた。私も、同じものを見ていた」
「……」
「それで、隣に立って、ひとつだけ訊いた。覚えているか」
顔は覚えていなかった。けれど、その言葉は覚えている。
忘れるはずがない。あの夜、私に話しかけてくれたのは、その人だけだったのだから。
あの背の高い人が、目の前のこの人だったのだ。
「『雨が、お好きなのですか』と」
「君は『ええ』とだけ答えた。それから、少しうつむいて、笑った」
公爵閣下は、私のほうに向き直った。
「私に話しかけられて、泣かなかった令嬢は、君が初めてだった」
私は思わず噴き出した。
氷の公爵の、たぶん、人生で一番の冗談だった。
◇
数日後、公爵閣下は私を王都の仕立屋に連れていった。
「好きな生地を選ぶといい」
「えっ……で、でも、ドレスなら持ってきましたから」
「あれは、アデル嬢のものだろう」
私は言葉に詰まった。
桃色も、黄色も、薄紫も、全部姉の色だった。私のために選ばれた色は、一枚もない。
店の棚には、色とりどりの生地が並んでいた。
私は、その前でただ立ち尽くした。
選べなかった。
何色が好きかなんて、考えたこともなかったのだ。お下がりに、好き嫌いを言う必要はなかったから。
「……分かりません。私、何色が好きなのか」
情けなくて、声がしぼんだ。
すると、公爵閣下が棚の端を指さした。
「さっきから、三度あれを見ている」
夜明け前の空のような、深い青の生地だった。
「……どうして、分かるんですか」
「見ていたからだ」
仕立屋の主人が、微笑ましそうに生地を広げてくれた。
鏡の前で肩に当てると、桃色を着ていたときよりも、ずっと自分の顔に見えた。
「ノエル様に、よくお似合いです」
仕立屋の言葉に、頬が熱くなった。
私は鏡から目をそらして、小さく頷いた。
◇
ひと月ほど経った頃、伯爵家から手紙が来た。
母と姉が、公爵邸を訪ねてくるという。
理由は、すぐに分かった。
「氷の公爵」は、実は穏やかで誠実な人だという噂が、王都に広まり始めていたのだ。
しかも、ベルクール公爵家は国でも指折りの資産家だ。
その日、私は仕立て上がったばかりの青いドレスを着ていた。
応接間に入ってきた母は、満面の笑みだった。
後ろには、新しいドレスで着飾った姉がいる。
姉のドレスも、偶然、青だった。
「まあ、公爵閣下! このたびは、とんでもない手違いがございまして」
母は大げさに頭を下げた。
「先日お送りしたのは、妹のほうでございました。本物のアデルを、こうしてお連れいたしましたの」
「本物、か」
「ええ、ええ。双子なのですから、同じでございましょう? でしたら、姉のほうがよろしいかと。妹は、何をやらせても地味で――」
「お母様の言うとおりですわ、閣下」
姉が一歩前に出て、華やかに微笑んだ。
「私、閣下のことを誤解しておりましたの。こんなにお優しい方だなんて。妹より、きっと私のほうが閣下を楽しませて差し上げられます」
「そうか」
公爵閣下は、それだけ言った。
姉は気にした様子もなく、扇をひらりと広げた。
そこで、母は私に目を向けた。
私は、公爵閣下の隣に立っていた。
母の目が、私と姉の間を行き来した。
一度。
二度。
それから、母は私の手を取って、にっこりと笑った。
「さあ、アデル。閣下にご挨拶なさい」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
姉が、引きつった顔で母の袖を引いた。
「お母様……私は、こっちよ」
「え? あら、まあ。ほほ、ほほほ。ドレスが似ていたものですから」
壁際に控えていた執事が、こほん、と小さく咳払いをした。
侍女たちが、そっと目を伏せた。
この屋敷の誰もが、ひと月で私を見分けられるようになっていた。
十八年一緒に暮らした母だけが、分からなかった。
母の笑い声が、空しく響いた。
私の手を握っていた母の手が、するりと離れていった。
公爵閣下が、静かに口を開いた。
「伯爵夫人。双子は、同じではない」
声は低く、少しも荒らげていなかった。
それなのに、母の笑顔が凍りついた。
「アデル嬢は、お辞儀の前に裾を直さない。紅茶には砂糖を二つ入れるだろう。笑うとき、うつむかない」
姉が、ぎくりとしたように自分の手元を見た。
テーブルの上の姉のカップには、角砂糖が二つ沈んでいた。
「私が妻に望んだのは、ノエルだ。最初から、ずっと」
公爵閣下は、立ち上がった。
「アデル嬢との縁談は、正式にお断りする。今日は遠いところを、ご苦労だった」
それだけだった。
怒鳴ることも、責めることもなかった。
それでも、母の顔は真っ白になっていた。
「お、お待ちくださいませ、閣下。ほんの、ちょっとした行き違いで……ねえ、あなたからも何か言いなさい」
母が、すがるように私を見た。
名前は、やはり呼ばなかった。
私は、少しだけ考えた。
言いたいことは、たくさんあった気がする。
十八年分の「アデルじゃないほう」。お下がりのドレス。顔を上げなかった父。
でも、口から出てきたのは、ひとつだけだった。
「お母様。私の名前は、ノエルです」
母は、何か言いかけて、口を閉じた。
それきり、何も言わなかった。
◇
玄関まで見送りに出たとき、姉がふと足を止めた。
母はもう、先に馬車に乗り込んでいる。
姉は振り返って、私の顔をしげしげと眺めた。
鏡で見るのと、ほとんど同じ顔。
十八年間、隣にいた顔。
姉は、少しだけ困ったように眉を寄せて、小さな声で言った。
「……ねえ。あなた、名前、何だったかしら」
私は、息を呑んだ。
責めるような声ではなかった。
本当に、思い出せないのだ。
十八年間、同じ部屋で眠り、同じ食卓についていた妹の名前を。
胸の奥で、何かがしん、と冷えていく。
答えようとして、唇が動かなかった。
自分の名前を、自分の口から言うのが、急に怖くなった。
言っても、また忘れられる気がした。
そのとき、背中に、温かい手が触れた。
「ノエルだ」
公爵閣下の声だった。
振り向くと、彼は私の隣に立っていた。
いつもと同じ、表情の少ない顔で。
けれど、その声には少しの迷いもなかった。
「彼女の名は、ノエルだ。覚えておくといい」
姉は、ぽかんと口を開けた。
それから、何度か瞬きをして、小さく繰り返した。
「ノエル……。そう、ノエル、だったわね」
姉は気まずそうに笑うと、裾を翻して馬車に乗り込んだ。
馬車が遠ざかっていく。
私は、それが見えなくなるまで、玄関の前に立っていた。
「……閣下」
「何だ」
「もう一度、呼んでいただけますか」
公爵閣下は、ほんの少しだけ目を見開いた。
それから、私の頬にかかった髪を、指で払った。
「ノエル」
一度。
「ノエル」
二度。
「何度でも呼ぶ。君が、自分の名前を疑わなくなるまで」
私はうつむいた。
うつむいて、それから、笑った。
笑ったはずなのに、頬が濡れていた。
◇
その後、母と姉の噂は、あっという間に社交界に広まった。
「自分の娘を見分けられない伯爵夫人」。
「妹の名前を忘れた姉」。
公爵家の誰かが言いふらしたわけではない。
あの日、応接間の扉の外には、たまたま王都から来ていた仕立屋が控えていた。仕立屋の口は、どこの家でも軽いのだ。
母が開くお茶会には、人が集まらなくなったという。
姉への縁談も、ぱたりと途絶えたらしい。
手紙が一度だけ来た。
宛名は『アデルじゃないほうへ』ではなく、ちゃんと『ノエルへ』と書いてあった。
母の字だった。
それが、母から私に届いた、初めての名前入りの手紙だった。
私は、返事を書いた。
短く、丁寧に。
最後に、自分の名前を添えて。
「怒らないのか」
書き終えた手紙に封をしていると、公爵閣下が訊いた。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「君は一度も、母上や姉君を責めなかった。責めてよかったはずだ」
「……怒り方が、よく分からないんです」
私は、封蝋が冷えていくのを眺めながら答えた。
「怒るのは、自分がそこにいると思っている人のすることだと思っていました。私は、いないのと同じだったから」
「今は」
「今は……」
言いかけて、私は窓の外を見た。
雨は降っていなかった。それでも、窓のほうを見てしまった。
「今は、ここにいるので。怒るより先に、嬉しいことのほうが多くて、忙しいんです」
公爵閣下は、しばらく黙っていた。
それから、私の手から手紙を取って、執事を呼んだ。
「これを、ベルナール伯爵家へ。差出人は、ノエル・ベルナールだ」
わざわざ名前を口にするその人の横顔を見て、私はまた、うつむいて笑った。
◇
婚姻の儀は、春の終わりに執り行われた。
大聖堂の小さな礼拝室で、司祭が婚姻証書を差し出した。
厚い羊皮紙。
金の縁取り。
その下に、名前を書く欄がふたつ並んでいる。
先に、公爵閣下が署名した。
迷いのない、まっすぐな文字で。
『ルシアン・ベルクール』
それから、羽根ペンが私に渡された。
指先が、冷たかった。
これまで私の名前は、いつも誰かの名前のついでだった。
『アデルとその妹』。
『ベルナール家の双子』。
『アデルじゃないほう』。
公式の書類に、私の名前だけが書かれたことは、一度もない。
ペン先をインクに浸す。
羊皮紙の上に、そっと下ろす。
『ノ』
ひと文字目が、少し震えた。
『エ』
二文字目で、隣に立つ人の気配を感じた。
彼は何も言わず、ただ見ていた。私が書くのを。私の手を。
『ル』
三文字目で、視界が滲んだ。
でも、手は止めなかった。止めたくなかった。
『・ベルクール』
最後の一画を書き終えて、ペンを置いた。
羊皮紙の上に、ふたつの名前が並んでいる。
『ルシアン・ベルクール』
『ノエル・ベルクール』
誰のついででもない、私の名前。
私だけの名前。
「ノエル」
隣で、夫が呼んだ。
私はうつむいて、それから顔を上げて、笑った。
「はい」
返事をするのに、もう迷わない。
この名前で呼ばれたら、それは私のことなのだ。
(了)




