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「双子なのだから、どちらが嫁いでも同じでしょう」と母が言うので、姉の代わりに嫁いだら公爵閣下に一目で見破られました

掲載日:2026/10/26

「双子なのだから、どちらが嫁いでも同じでしょう」


母はそう言って、ティーカップを置いた。

かちり、と小さな音がした。それで話は決まりだった。


テーブルの上には、一通の手紙が開かれている。

封蝋は、雪の結晶の紋章。

ベルクール公爵家。社交界で「氷の公爵」と呼ばれる人の家だ。


「いやよ、絶対にいや!」


姉のアデルが、金色の巻き毛を揺らして叫んだ。


「あの方、笑ったところを誰も見たことがないのよ? 舞踏会でも壁際で腕を組んで、話しかけた令嬢を一言で泣かせたって噂だわ」

「ええ、ええ。分かっていますよ、アデル」


母は姉の手を優しく撫でた。

それから、ようやく私のほうを見た。


「だから、あなたが行くのよ。……ええと」


母の目が、一瞬だけ泳いだ。

いつものことだ。私の名前が、すぐには出てこないのだ。


「アデルじゃないほう」


それが、この家での私の呼び名だった。


◇


私、ノエル・ベルナールは、ベルナール伯爵家の双子の妹として生まれた。

姉のアデルとは、顔も背丈も声も、ほとんど同じだ。

違うのは、母がどちらを覚えているか、だけだった。


ドレスは、いつも姉のお下がりだった。

姉が二度着たドレスを、私が三度目に着る。

社交の場では、知らない人に「アデル様」と呼ばれ、知っている人には「アデル様の妹君」と呼ばれた。


どちらで呼ばれても、私は返事をした。

返事をしないと、母が困った顔をするから。


「手紙には、何と書いてあるのですか」


私が訊くと、母は面倒そうに便箋を読み上げた。


「『二年前の王宮舞踏会で、壁際で姉君のショールを持っていたご令嬢に、結婚を申し込みたい』――ですって」

「壁際で、ショールを……」

「アデルのことに決まっているでしょう。あの夜、アデルはとても目立っていたもの」


私は黙った。

覚えている。あの夜、姉は踊りに誘われて、私にショールを押しつけていった。

「持っていて。すぐ戻るから」と言って、結局、最後の曲まで戻らなかった。


ショールを抱えて壁際に立っていたのは、私だ。


その夜、窓の外では雨が降っていた。

広間には音楽と笑い声があふれていて、雨の音はほとんど聞こえなかった。

それでも私は、硝子を伝う雨粒をずっと眺めていた。踊る人たちを見ているより、そのほうが落ち着いたから。


隣に誰かが立って、ひと言だけ話しかけてきた気がする。

顔は、よく覚えていない。背の高い人だった。

私が短く答えると、その人はそれ以上何も言わずに、しばらく一緒に雨を見ていた。


でも、それを口にしても、母は聞かないだろう。

母の中で、目立つものは全部アデルのもので、目立たないものは全部「アデルじゃないほう」のものだった。


「公爵家には、アデルが嫁ぐとお返事しておきます。あなたはアデルとして行きなさい。双子なのだから、誰にも分かりはしないわ」


姉が、ほっとしたように笑った。


「ありがとう、お母様。……あなたも、頑張ってね」


姉は私の肩をぽんと叩いた。

名前は、呼ばなかった。


◇


出発の前夜、私は姉のお下がりのドレスを三着、古い鞄に詰めた。

母は、姉の香水を一瓶だけ持たせてくれた。


「アデルらしく振る舞うのよ。あの子の香りをさせていれば、誰も疑わないわ」

「……はい、お母様」

「それから、余計なことは喋らないこと。あなたが喋ると、すぐにアデルじゃないと分かってしまうから」


私は、こくりと頷いた。

喋らないのは、得意だった。


書斎に挨拶に行くと、父は書類から顔も上げずに言った。


「ああ、行くのか。向こうで、アデルによろしく伝えてくれ」

「……お父様。アデルは、ここに残ります」

「ん? ああ、そうだったな。じゃあ、気をつけて」


父は、最後まで顔を上げなかった。


翌朝、玄関で見送ってくれたのは、年老いた門番だけだった。

門番は帽子を取って、深々と頭を下げた。


「いってらっしゃいませ、アデル様」


私は、微笑んで手を振った。

それが、この家で最後に呼ばれた名前だった。


◇


ベルクール公爵邸は、王都の北にあった。

白い石造りの館で、庭には雪のように白い花が咲いている。


馬車を降りると、玄関前に背の高い男の人が立っていた。

黒い髪に、灰色の瞳。

噂どおり、表情というものがほとんどない。


ルシアン・ベルクール公爵、その人だった。


私は、母に何度も練習させられたとおりに、姉の真似をして微笑んだ。

姉のお下がりの、桃色のドレス。

姉が好きな香水。

姉の口癖。


「お初にお目にかかります。ベルナール伯爵家の、アデルでございます」


ドレスの裾を軽く直してから、お辞儀をする。

顔を上げると、公爵閣下と目が合った。


一秒。

二秒。


灰色の瞳が、わずかに細められた。


「君は、アデル嬢ではないな」


息が止まった。


指先から、すうっと血の気が引いていく。

見破られた。

初対面の、それも、たった数秒で。


母にも、父にも、家の使用人にさえ見分けてもらえなかったのに。


「……申し訳、ございません」


声が震えた。

送り返される。伯爵家は公爵家を欺いた罪に問われる。母は怒るだろう。「どうしてうまくやれなかったの」と。


私は深く頭を下げたまま、次の言葉を待った。


けれど、降ってきたのは、思いもよらない言葉だった。


「……よかった」


顔を上げた。

公爵閣下は、ほんのわずかに、肩の力を抜いたように見えた。


「私が求めたのは、君だ」

「え……?」

「二年前の舞踏会で、壁際でショールを持っていたのは君だろう。姉君は、あの夜ずっと踊っていた」


私は、口を開けたまま固まった。


「伯爵家から『アデルが嫁ぐ』と返事が来たとき、手違いかと思った。だが、来たのは君だった。……だから、よかったと言った」


◇


応接間に通されると、温かい紅茶が出てきた。

私は、カップを両手で包んだまま、しばらく何も言えなかった。


向かいに座った公爵閣下は、じっと私を見ている。

睨んでいるのではない。

ただ、見ている。そういう目だった。


「ひとつ、頼みがある」

「は、はい。何なりと」

「名を教えてくれ」


私は、瞬きをした。


名前。

最後に誰かに名前を訊かれたのは、いつだっただろう。

家庭教師は「お嬢様」と呼んだ。社交界では「アデル様」か「妹君」。母は「アデルじゃないほう」。


誰も、訊かなかった。

訊く必要がなかったのだ。私は、姉のついでにそこにいるだけだったから。


「……ノエル、です」


自分の声が、ひどく小さく聞こえた。

声に出して名乗るのは、何年ぶりだろう。


「ノエル」


公爵閣下が、繰り返した。

低く、確かめるような声だった。


「ノエル。いい名だ」


カップの中の紅茶が、小さく揺れた。

手が震えていたのだと、少し遅れて気がついた。


◇


その夜、私はなかなか眠れなかった。


広すぎる寝台。

柔らかすぎる枕。

窓の外では、風が白い花を揺らしている。


目を閉じると、昼間の声が何度もよみがえった。

ノエル。ノエル。いい名だ。


本当だろうか。

明日の朝になったら、「やはり手違いだった」と言われるのではないか。

「アデル嬢を呼んでくれ」と言われるのではないか。


私は寝台の上で膝を抱えた。

期待するのは、怖かった。

期待して、また名前を忘れられるくらいなら、最初から「アデルじゃないほう」のままでいたほうが楽だった。


明け方近くになって、ようやく少しだけ眠った。


◇


公爵邸での暮らしは、驚くことばかりだった。


翌朝、私に用意された部屋の扉には、真鍮の小さな札がかかっていた。

『ノエル』

ただそれだけ、刻んであった。


私は、しばらくその札の前から動けなかった。

指でそっとなぞると、真鍮はひんやりと冷たかった。

刻まれた溝は、まだ新しかった。昨日のうちに、誰かが急いで作らせたのだ。


「昨夜、旦那様が職人を叩き起こしまして」


通りかかった執事が、少し困ったように笑った。


「『アデル』と刻んだ札を、すでに用意してございましたので。旦那様が、それは要らないと」


朝食の席では、執事が椅子を引きながら言った。


「おはようございます、ノエル様」


侍女は、髪を梳かしながら言った。


「ノエル様の御髪は、とても柔らかいのですね」


庭師は、花を一輪差し出しながら言った。


「ノエル様に。旦那様が、一番きれいなのを選べと」


一日に何度、名前を呼ばれただろう。

数えようとして、途中でやめた。

数えきれないくらい呼ばれたのは、生まれて初めてだった。


夕方、届いた手紙の宛名にも、こう書いてあった。


『ノエル・ベルナール様』


差出人は、公爵閣下だった。

同じ屋敷の中にいるのに、わざわざ手紙をくれたのだ。中には、たった一行。


『今夜の晩餐は、君の好きなものにした』


私は、手紙を持ったまま首を傾げた。

好きなもの。

私の好きなものなんて、私自身もよく知らないのに。


◇


晩餐の席に並んでいたのは、白身魚の香草焼きと、林檎のタルトと、砂糖を入れない紅茶だった。


全部、私の好きなものだった。


「……どうして、ご存じなのですか」


私が訊くと、公爵閣下はナイフを置いた。


「見ていた」

「見て……?」

「二年前の舞踏会で、君は軽食の卓から白身魚だけを取っていた。林檎のタルトは、姉君の分まで取ってきて、自分はひと口だけ食べていた。紅茶に砂糖を入れなかった」


私は、フォークを握ったまま動けなくなった。


「昨日、君を一目で見分けたのも同じだ。君はお辞儀の前に、一度ドレスの裾を直す。姉君は直さない」

「……そんな、ことで」

「それから、笑う前に一度うつむく。雨の音がすると、窓のほうを見る。君の声は、姉君より少しだけ低い」


公爵閣下は、淡々と並べていった。

まるで、本の頁を読み上げるように。


「双子だから同じだと、君の母上は思っているのだろう。だが、見ていれば分かる」


灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。


「誰も、見ていなかっただけだ」


喉の奥が、ぎゅっと詰まった。


窓の外で、ぽつりと雨の音がした。

私は、思わず窓のほうを見てしまった。

それから、はっとして公爵閣下を見ると――


あの氷の公爵が、ほんの少しだけ、口の端を上げていた。


「ほら」

「……っ」


私はうつむいて、それから、笑った。

うつむいてから笑う癖があるなんて、十八年間、知らなかった。


「……閣下は、どうしてあの夜、私を見ていらしたのですか」


訊いてから、少し後悔した。

厚かましい質問だったかもしれない。


けれど公爵閣下は、気を悪くした様子もなく、窓の外に目をやった。


「あの夜も、雨が降っていた」

「……はい。覚えています」

「私は舞踏会が苦手でね。いつも壁際にいる。誰と話しても、氷のようだと言われるから」


雨粒が、窓硝子を伝って落ちていく。


「広間の誰もが、踊る人を見ていた。君だけが、窓の外の雨を見ていた。私も、同じものを見ていた」

「……」

「それで、隣に立って、ひとつだけ訊いた。覚えているか」


顔は覚えていなかった。けれど、その言葉は覚えている。

忘れるはずがない。あの夜、私に話しかけてくれたのは、その人だけだったのだから。

あの背の高い人が、目の前のこの人だったのだ。


「『雨が、お好きなのですか』と」

「君は『ええ』とだけ答えた。それから、少しうつむいて、笑った」


公爵閣下は、私のほうに向き直った。


「私に話しかけられて、泣かなかった令嬢は、君が初めてだった」


私は思わず噴き出した。

氷の公爵の、たぶん、人生で一番の冗談だった。


◇


数日後、公爵閣下は私を王都の仕立屋に連れていった。


「好きな生地を選ぶといい」

「えっ……で、でも、ドレスなら持ってきましたから」

「あれは、アデル嬢のものだろう」


私は言葉に詰まった。

桃色も、黄色も、薄紫も、全部姉の色だった。私のために選ばれた色は、一枚もない。


店の棚には、色とりどりの生地が並んでいた。

私は、その前でただ立ち尽くした。


選べなかった。

何色が好きかなんて、考えたこともなかったのだ。お下がりに、好き嫌いを言う必要はなかったから。


「……分かりません。私、何色が好きなのか」


情けなくて、声がしぼんだ。

すると、公爵閣下が棚の端を指さした。


「さっきから、三度あれを見ている」


夜明け前の空のような、深い青の生地だった。


「……どうして、分かるんですか」

「見ていたからだ」


仕立屋の主人が、微笑ましそうに生地を広げてくれた。

鏡の前で肩に当てると、桃色を着ていたときよりも、ずっと自分の顔に見えた。


「ノエル様に、よくお似合いです」


仕立屋の言葉に、頬が熱くなった。

私は鏡から目をそらして、小さく頷いた。


◇


ひと月ほど経った頃、伯爵家から手紙が来た。

母と姉が、公爵邸を訪ねてくるという。


理由は、すぐに分かった。

「氷の公爵」は、実は穏やかで誠実な人だという噂が、王都に広まり始めていたのだ。

しかも、ベルクール公爵家は国でも指折りの資産家だ。


その日、私は仕立て上がったばかりの青いドレスを着ていた。


応接間に入ってきた母は、満面の笑みだった。

後ろには、新しいドレスで着飾った姉がいる。

姉のドレスも、偶然、青だった。


「まあ、公爵閣下! このたびは、とんでもない手違いがございまして」


母は大げさに頭を下げた。


「先日お送りしたのは、妹のほうでございました。本物のアデルを、こうしてお連れいたしましたの」

「本物、か」

「ええ、ええ。双子なのですから、同じでございましょう? でしたら、姉のほうがよろしいかと。妹は、何をやらせても地味で――」

「お母様の言うとおりですわ、閣下」


姉が一歩前に出て、華やかに微笑んだ。


「私、閣下のことを誤解しておりましたの。こんなにお優しい方だなんて。妹より、きっと私のほうが閣下を楽しませて差し上げられます」

「そうか」


公爵閣下は、それだけ言った。

姉は気にした様子もなく、扇をひらりと広げた。


そこで、母は私に目を向けた。

私は、公爵閣下の隣に立っていた。


母の目が、私と姉の間を行き来した。

一度。

二度。


それから、母は私の手を取って、にっこりと笑った。


「さあ、アデル。閣下にご挨拶なさい」


部屋の空気が、ぴたりと止まった。


姉が、引きつった顔で母の袖を引いた。


「お母様……私は、こっちよ」

「え? あら、まあ。ほほ、ほほほ。ドレスが似ていたものですから」


壁際に控えていた執事が、こほん、と小さく咳払いをした。

侍女たちが、そっと目を伏せた。


この屋敷の誰もが、ひと月で私を見分けられるようになっていた。

十八年一緒に暮らした母だけが、分からなかった。


母の笑い声が、空しく響いた。

私の手を握っていた母の手が、するりと離れていった。


公爵閣下が、静かに口を開いた。


「伯爵夫人。双子は、同じではない」


声は低く、少しも荒らげていなかった。

それなのに、母の笑顔が凍りついた。


「アデル嬢は、お辞儀の前に裾を直さない。紅茶には砂糖を二つ入れるだろう。笑うとき、うつむかない」


姉が、ぎくりとしたように自分の手元を見た。

テーブルの上の姉のカップには、角砂糖が二つ沈んでいた。


「私が妻に望んだのは、ノエルだ。最初から、ずっと」


公爵閣下は、立ち上がった。


「アデル嬢との縁談は、正式にお断りする。今日は遠いところを、ご苦労だった」


それだけだった。

怒鳴ることも、責めることもなかった。


それでも、母の顔は真っ白になっていた。


「お、お待ちくださいませ、閣下。ほんの、ちょっとした行き違いで……ねえ、あなたからも何か言いなさい」


母が、すがるように私を見た。

名前は、やはり呼ばなかった。


私は、少しだけ考えた。

言いたいことは、たくさんあった気がする。

十八年分の「アデルじゃないほう」。お下がりのドレス。顔を上げなかった父。


でも、口から出てきたのは、ひとつだけだった。


「お母様。私の名前は、ノエルです」


母は、何か言いかけて、口を閉じた。

それきり、何も言わなかった。


◇


玄関まで見送りに出たとき、姉がふと足を止めた。


母はもう、先に馬車に乗り込んでいる。

姉は振り返って、私の顔をしげしげと眺めた。


鏡で見るのと、ほとんど同じ顔。

十八年間、隣にいた顔。


姉は、少しだけ困ったように眉を寄せて、小さな声で言った。


「……ねえ。あなた、名前、何だったかしら」


私は、息を呑んだ。


責めるような声ではなかった。

本当に、思い出せないのだ。

十八年間、同じ部屋で眠り、同じ食卓についていた妹の名前を。


胸の奥で、何かがしん、と冷えていく。

答えようとして、唇が動かなかった。


自分の名前を、自分の口から言うのが、急に怖くなった。

言っても、また忘れられる気がした。


そのとき、背中に、温かい手が触れた。


「ノエルだ」


公爵閣下の声だった。


振り向くと、彼は私の隣に立っていた。

いつもと同じ、表情の少ない顔で。

けれど、その声には少しの迷いもなかった。


「彼女の名は、ノエルだ。覚えておくといい」


姉は、ぽかんと口を開けた。

それから、何度か瞬きをして、小さく繰り返した。


「ノエル……。そう、ノエル、だったわね」


姉は気まずそうに笑うと、裾を翻して馬車に乗り込んだ。


馬車が遠ざかっていく。

私は、それが見えなくなるまで、玄関の前に立っていた。


「……閣下」

「何だ」

「もう一度、呼んでいただけますか」


公爵閣下は、ほんの少しだけ目を見開いた。

それから、私の頬にかかった髪を、指で払った。


「ノエル」


一度。


「ノエル」


二度。


「何度でも呼ぶ。君が、自分の名前を疑わなくなるまで」


私はうつむいた。

うつむいて、それから、笑った。

笑ったはずなのに、頬が濡れていた。


◇


その後、母と姉の噂は、あっという間に社交界に広まった。

「自分の娘を見分けられない伯爵夫人」。

「妹の名前を忘れた姉」。


公爵家の誰かが言いふらしたわけではない。

あの日、応接間の扉の外には、たまたま王都から来ていた仕立屋が控えていた。仕立屋の口は、どこの家でも軽いのだ。


母が開くお茶会には、人が集まらなくなったという。

姉への縁談も、ぱたりと途絶えたらしい。


手紙が一度だけ来た。

宛名は『アデルじゃないほうへ』ではなく、ちゃんと『ノエルへ』と書いてあった。

母の字だった。

それが、母から私に届いた、初めての名前入りの手紙だった。


私は、返事を書いた。

短く、丁寧に。

最後に、自分の名前を添えて。


「怒らないのか」


書き終えた手紙に封をしていると、公爵閣下が訊いた。

暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


「君は一度も、母上や姉君を責めなかった。責めてよかったはずだ」

「……怒り方が、よく分からないんです」


私は、封蝋が冷えていくのを眺めながら答えた。


「怒るのは、自分がそこにいると思っている人のすることだと思っていました。私は、いないのと同じだったから」

「今は」

「今は……」


言いかけて、私は窓の外を見た。

雨は降っていなかった。それでも、窓のほうを見てしまった。


「今は、ここにいるので。怒るより先に、嬉しいことのほうが多くて、忙しいんです」


公爵閣下は、しばらく黙っていた。

それから、私の手から手紙を取って、執事を呼んだ。


「これを、ベルナール伯爵家へ。差出人は、ノエル・ベルナールだ」


わざわざ名前を口にするその人の横顔を見て、私はまた、うつむいて笑った。


◇


婚姻の儀は、春の終わりに執り行われた。


大聖堂の小さな礼拝室で、司祭が婚姻証書を差し出した。

厚い羊皮紙。

金の縁取り。

その下に、名前を書く欄がふたつ並んでいる。


先に、公爵閣下が署名した。

迷いのない、まっすぐな文字で。

『ルシアン・ベルクール』


それから、羽根ペンが私に渡された。


指先が、冷たかった。

これまで私の名前は、いつも誰かの名前のついでだった。


『アデルとその妹』。

『ベルナール家の双子』。

『アデルじゃないほう』。


公式の書類に、私の名前だけが書かれたことは、一度もない。


ペン先をインクに浸す。

羊皮紙の上に、そっと下ろす。


『ノ』


ひと文字目が、少し震えた。


『エ』


二文字目で、隣に立つ人の気配を感じた。

彼は何も言わず、ただ見ていた。私が書くのを。私の手を。


『ル』


三文字目で、視界が滲んだ。

でも、手は止めなかった。止めたくなかった。


『・ベルクール』


最後の一画を書き終えて、ペンを置いた。


羊皮紙の上に、ふたつの名前が並んでいる。

『ルシアン・ベルクール』

『ノエル・ベルクール』


誰のついででもない、私の名前。

私だけの名前。


「ノエル」


隣で、夫が呼んだ。

私はうつむいて、それから顔を上げて、笑った。


「はい」


返事をするのに、もう迷わない。

この名前で呼ばれたら、それは私のことなのだ。


(了)


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― 新着の感想 ―
なんでノエルはここまで蔑ろにされてたんだろうか? そこがサッパリ解らなくてモヤモヤしたまま終わった
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