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勇者召喚に失敗した神が、俺に土下座してきた

作者: 終電作家
掲載日:2026/03/19

神に土下座された経験は、たぶん誰にでもあると思います。

ないですか。そうですか。

魂があるとか、ないとか。器が大きいとか、小さいとか。

そういうことより、コーヒーが温かいかどうかの方が、たぶん大事だと思っています。たぶん。

お時間があれば、最後までお付き合いください。

 朝の六時十四分。


 俺は、神に土下座されていた。


 場所は埼玉県さいたま市、築三十年のアパート「サンハイツ南浦和」の四畳半。


 畳はへたっている。エアコンは壊れかけている。台所のシンクには昨夜のカップラーメンの容器が放置されている。窓の外では雀が鳴いていた。どこか遠くで、ゴミ収集車のメロディが聞こえた。


 そんな部屋の中心で、光り輝く巨大な何かが、頭を床に擦り付けていた。


 畳が、きしまなかった。重さがないのかもしれない。あるいは、畳が気を遣っているのかもしれない。


「申し訳ありませんでした」


 声は部屋全体から聞こえた。性別も年齢も不明。ただ、絶対的な何かが声に乗っていた。壁から聞こえるような気もするし、自分の頭の内側から聞こえるような気もした。


 俺——橘田一きったかずひと、三十一歳、無職——は、布団の上に座ったまま、しばらくそいつを眺めた。


「……えっと」


「申し訳ありませんでした」


「うん、謝罪は受け取った。それで」


 俺は目を細めた。


「何の話?」



 神が話してくれた内容を要約するとこうだ。


 十年前。神は「勇者召喚」を行った。


 ある次元の少年に選ばれた魂を与え、異世界へ転送し、世界を救わせる——よくある話だ。実際にそれは世界中で何千回と繰り返されてきた、神の仕事の定番だった。


 問題は、そのとき選んだ魂が、俺のものだったことだ。


「……待って」


「はい」


「俺の魂を抜いて、どっかの少年に入れたってこと?」


「はい」


「でも俺、十年前から今まで普通に生きてたけど」


「……そこが、ミスです」


 神は額を畳に押し付けたまま続けた。


 正確には——魂を抜いた後、肉体に「仮魂」を入れて補完するはずだった。日常生活に支障がない程度の、つなぎの魂を。術式も準備も整っていた。


 ところが、注入に失敗した。


 原因は単純だった。橘田一の肉体が、仮魂を「拒絶」したのだ。


 魂が空っぽのまま、俺の肉体は目を覚ました。起き上がった。朝食を食べた。学校へ行った。友人と笑い、受験に落ち、バイトを掛け持ちし、就職活動を三十二回繰り返し、失恋し、部屋で泣き、立ち直り——十年間、生き続けた。


「……は?」


「本来、魂がなければ肉体は機能しません。三秒で停止します。しかし橘田さんの肉体は、魂なしで十年間、呼吸し続けました」


 沈黙。


「それって」


「端的に言えば」神は一息ついた。「橘田さんの肉体が、魂よりも強かったということです」



 問題はまだある、と神は続けた。


 俺の魂を受け取った少年——便宜上「勇者」と呼ぶ——は異世界へ飛んだ。俺の魂ごと。


 勇者は無事に魔王を倒した。異世界を救った。


 ここまでは予定通りだった。


「問題は、橘田さんの魂が優秀すぎたことです」


「……俺の魂が?」


「はい。我々の選別システムが橘田さんを選んだのは、理由があります。橘田さんの魂は——史上最大の器、と判定されていました」


「史上最大の器」


「人類史において、これほどの容量を持つ魂は存在しなかった。正確には、我々が観測を始めて以来、一度も」


 俺は少し間を置いた。


「……俺が?」


「無職かどうかは、関係ありません」


「……聞いてないけど」


「就活の結果も、関係ありません」


「……うん」


「ただ——その器が、予想外の速度で勇者の中で開いてしまいました」


 神がおもむろに動くと、空中にウィンドウが開いた。そこに十年分のデータが並んでいた。


 勇者の成長記録。


 一年目——魔王軍幹部を全滅。


 三年目——魔王を撃破。


 五年目——神格に到達。


 七年目——神格を超越。異世界の神々が接触を試みるも全員撃退。


 九年目——異世界の古い神を四柱、吸収。


 そして、今年。


「……勇者の少年は今、何をしてるの」


 神は少しだけ間を置いた。


「観測できません」


「え」


「我々の観測網の外に出ました。異世界の秩序と融合し、概念そのものになっています。もはや人間でも神でもない」


「……」


「橘田さんの魂の影響です。あの器が、異世界のすべてを飲み込みました」



 魂を返してほしいか、と神は聞いた。


 返還は技術的に可能だ。ただし——勇者の中で俺の魂はすでに異世界の根幹と融合しており、そのまま引き抜くと異世界が消滅する。三千億の住民ごと。


「いや、それはちょっと」


「よろしいのですか。あなたは自分の魂を永遠に失うことになりますが」


「三千億人消えるよりはいい」


「……そうですか」


「そもそも俺、魂なくても十年生きてたし。このまま魂なしでいいじゃないですか」


 神の光が、小さく揺れた。


「橘田さん」


「はい」


「一つ、確認させてください」


「どうぞ」


「あなたは今まで——魂がないことに、気づいていませんでしたか」


「今日初めて知りました」


 長い沈黙。


「橘田さん」


「はい」


「魂のない存在が体験する感情——喜び、悲しみ、孤独、希望——それらは本来、魂が生み出すものです」


「ええ」


「あなたはその十年間、魂なしで、それらをすべて体験していたことになります」


「そうみたいですね」


「就活に落ちて、落ち込みましたか」


「しましたね」


「バイト仲間と笑ったことは」


「ありましたよ」


「好きな人に振られたことは」


 俺は少し間を置いた。


「……ありましたよ」


「一人でいて、寂しいと思ったことは」


「……まあ」


 神が、静かに言った。


「魂のない存在が、感情を持つことはありえません。我々の知識体系では、完全に不可能なことです」


「でも、持ってたわけでしょ」


「はい」


「じゃあ」


「はい」


「俺の中に、何が入ってたんですかね」



 神は、答えなかった。


 答えられないのか、知っていて答えないのか、俺には分からなかった。


 ただ、もう一度だけ深く頭を下げて、消えた。


 光が消えると、部屋は元の薄暗さに戻った。



 六時四十分。


 俺は立ち上がって、台所でお湯を沸かした。


 インスタントコーヒーをマグカップに入れて、ベランダに出た。


 南浦和の朝は、普通だった。住宅街に朝日が差していた。鳥が鳴いていた。コンビニのトラックが角を曲がっていった。


 俺は魂なしで、コーヒーをすすった。


 温かかった。


 苦かった。


 うまかった。


 ——それが何なのかは、分からなかった。



 マグカップを持ちながら、ふと思った。


 あの神は、「俺の魂を選んだ」と言った。


 史上最大の器だと、システムが判定したから。


 でも。


 俺の人生を振り返ってみると——就職活動三十二連敗。バイト十一回転職。彼女なし。貯金十七万円。資格なし。特技なし。友人は数えるほど。部屋は四畳半。


 どこをどう見ても、「史上最大の器」には見えない。


 それなのに神は、俺を選んだ。


 ……なぜ?


 本当に、システムの判定が正しかっただけなのか。


 それとも——神は最初から、俺の「魂の不在」を知っていたのか。


 魂のない器。何も入っていない、完全に空っぽの器。


 だから——「史上最大」と判定されたのではないか。



 コーヒーが冷めた。


 俺はマグカップを見つめた。


 空っぽのマグカップは、どんな飲み物でも入れられる。


 コーヒーでも、水でも、毒でも。



 部屋に戻って、布団に倒れ込んだ。


 天井を見上げながら、もう一つ、思った。


 あの神は言った。「橘田さんの魂の影響で、勇者は概念になった」と。


 「橘田さんの器が、異世界のすべてを飲み込んだ」と。


 でも——それは「俺の魂」の力なのか?


 それとも——「魂なしでも感情を持てた、この肉体」の力なのか?


 だとしたら。


 俺の魂はもう、異世界にある。


 でも「俺」は、ここにいる。


 今この部屋に存在しているのは——魂がなくて、でも感情があって、でも感情の出所も分からない——一体、何なのか。



 答えは、出なかった。


 外から、ゴミ収集車のメロディがまた聞こえた。


 それでも俺は、明日も起きるだろう。


 コーヒーを飲むだろう。


 就活サイトを開くだろう。


 ため息をつくだろう。


 何も入っていない俺が——何かを探し続けるだろう。


 それが、何なのかは。


 たぶん、一生わからない。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

書くきっかけは、ささいな疑問でした。何度就活に落ちても、振られても、どん底でも——なんだかんだ人間って翌朝ちゃんと起きて、コーヒーを飲んで、またため息をつくじゃないか。あれは何なんだろう、と。気がついたら神様が土下座していました。

続きは、まだ橘田一のそばにいてみたいとは思っています。たぶん、本人も自分のことをまだ知らないので。

感想やコメントをいただけると、続きを書く力になります。またどこかでお会いできたら、うれしいです。

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面白かったので短編なのがもったいない
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