勇者召喚に失敗した神が、俺に土下座してきた
神に土下座された経験は、たぶん誰にでもあると思います。
ないですか。そうですか。
魂があるとか、ないとか。器が大きいとか、小さいとか。
そういうことより、コーヒーが温かいかどうかの方が、たぶん大事だと思っています。たぶん。
お時間があれば、最後までお付き合いください。
朝の六時十四分。
俺は、神に土下座されていた。
場所は埼玉県さいたま市、築三十年のアパート「サンハイツ南浦和」の四畳半。
畳はへたっている。エアコンは壊れかけている。台所のシンクには昨夜のカップラーメンの容器が放置されている。窓の外では雀が鳴いていた。どこか遠くで、ゴミ収集車のメロディが聞こえた。
そんな部屋の中心で、光り輝く巨大な何かが、頭を床に擦り付けていた。
畳が、きしまなかった。重さがないのかもしれない。あるいは、畳が気を遣っているのかもしれない。
「申し訳ありませんでした」
声は部屋全体から聞こえた。性別も年齢も不明。ただ、絶対的な何かが声に乗っていた。壁から聞こえるような気もするし、自分の頭の内側から聞こえるような気もした。
俺——橘田一、三十一歳、無職——は、布団の上に座ったまま、しばらくそいつを眺めた。
「……えっと」
「申し訳ありませんでした」
「うん、謝罪は受け取った。それで」
俺は目を細めた。
「何の話?」
神が話してくれた内容を要約するとこうだ。
十年前。神は「勇者召喚」を行った。
ある次元の少年に選ばれた魂を与え、異世界へ転送し、世界を救わせる——よくある話だ。実際にそれは世界中で何千回と繰り返されてきた、神の仕事の定番だった。
問題は、そのとき選んだ魂が、俺のものだったことだ。
「……待って」
「はい」
「俺の魂を抜いて、どっかの少年に入れたってこと?」
「はい」
「でも俺、十年前から今まで普通に生きてたけど」
「……そこが、ミスです」
神は額を畳に押し付けたまま続けた。
正確には——魂を抜いた後、肉体に「仮魂」を入れて補完するはずだった。日常生活に支障がない程度の、つなぎの魂を。術式も準備も整っていた。
ところが、注入に失敗した。
原因は単純だった。橘田一の肉体が、仮魂を「拒絶」したのだ。
魂が空っぽのまま、俺の肉体は目を覚ました。起き上がった。朝食を食べた。学校へ行った。友人と笑い、受験に落ち、バイトを掛け持ちし、就職活動を三十二回繰り返し、失恋し、部屋で泣き、立ち直り——十年間、生き続けた。
「……は?」
「本来、魂がなければ肉体は機能しません。三秒で停止します。しかし橘田さんの肉体は、魂なしで十年間、呼吸し続けました」
沈黙。
「それって」
「端的に言えば」神は一息ついた。「橘田さんの肉体が、魂よりも強かったということです」
問題はまだある、と神は続けた。
俺の魂を受け取った少年——便宜上「勇者」と呼ぶ——は異世界へ飛んだ。俺の魂ごと。
勇者は無事に魔王を倒した。異世界を救った。
ここまでは予定通りだった。
「問題は、橘田さんの魂が優秀すぎたことです」
「……俺の魂が?」
「はい。我々の選別システムが橘田さんを選んだのは、理由があります。橘田さんの魂は——史上最大の器、と判定されていました」
「史上最大の器」
「人類史において、これほどの容量を持つ魂は存在しなかった。正確には、我々が観測を始めて以来、一度も」
俺は少し間を置いた。
「……俺が?」
「無職かどうかは、関係ありません」
「……聞いてないけど」
「就活の結果も、関係ありません」
「……うん」
「ただ——その器が、予想外の速度で勇者の中で開いてしまいました」
神がおもむろに動くと、空中にウィンドウが開いた。そこに十年分のデータが並んでいた。
勇者の成長記録。
一年目——魔王軍幹部を全滅。
三年目——魔王を撃破。
五年目——神格に到達。
七年目——神格を超越。異世界の神々が接触を試みるも全員撃退。
九年目——異世界の古い神を四柱、吸収。
そして、今年。
「……勇者の少年は今、何をしてるの」
神は少しだけ間を置いた。
「観測できません」
「え」
「我々の観測網の外に出ました。異世界の秩序と融合し、概念そのものになっています。もはや人間でも神でもない」
「……」
「橘田さんの魂の影響です。あの器が、異世界のすべてを飲み込みました」
魂を返してほしいか、と神は聞いた。
返還は技術的に可能だ。ただし——勇者の中で俺の魂はすでに異世界の根幹と融合しており、そのまま引き抜くと異世界が消滅する。三千億の住民ごと。
「いや、それはちょっと」
「よろしいのですか。あなたは自分の魂を永遠に失うことになりますが」
「三千億人消えるよりはいい」
「……そうですか」
「そもそも俺、魂なくても十年生きてたし。このまま魂なしでいいじゃないですか」
神の光が、小さく揺れた。
「橘田さん」
「はい」
「一つ、確認させてください」
「どうぞ」
「あなたは今まで——魂がないことに、気づいていませんでしたか」
「今日初めて知りました」
長い沈黙。
「橘田さん」
「はい」
「魂のない存在が体験する感情——喜び、悲しみ、孤独、希望——それらは本来、魂が生み出すものです」
「ええ」
「あなたはその十年間、魂なしで、それらをすべて体験していたことになります」
「そうみたいですね」
「就活に落ちて、落ち込みましたか」
「しましたね」
「バイト仲間と笑ったことは」
「ありましたよ」
「好きな人に振られたことは」
俺は少し間を置いた。
「……ありましたよ」
「一人でいて、寂しいと思ったことは」
「……まあ」
神が、静かに言った。
「魂のない存在が、感情を持つことはありえません。我々の知識体系では、完全に不可能なことです」
「でも、持ってたわけでしょ」
「はい」
「じゃあ」
「はい」
「俺の中に、何が入ってたんですかね」
神は、答えなかった。
答えられないのか、知っていて答えないのか、俺には分からなかった。
ただ、もう一度だけ深く頭を下げて、消えた。
光が消えると、部屋は元の薄暗さに戻った。
六時四十分。
俺は立ち上がって、台所でお湯を沸かした。
インスタントコーヒーをマグカップに入れて、ベランダに出た。
南浦和の朝は、普通だった。住宅街に朝日が差していた。鳥が鳴いていた。コンビニのトラックが角を曲がっていった。
俺は魂なしで、コーヒーをすすった。
温かかった。
苦かった。
うまかった。
——それが何なのかは、分からなかった。
マグカップを持ちながら、ふと思った。
あの神は、「俺の魂を選んだ」と言った。
史上最大の器だと、システムが判定したから。
でも。
俺の人生を振り返ってみると——就職活動三十二連敗。バイト十一回転職。彼女なし。貯金十七万円。資格なし。特技なし。友人は数えるほど。部屋は四畳半。
どこをどう見ても、「史上最大の器」には見えない。
それなのに神は、俺を選んだ。
……なぜ?
本当に、システムの判定が正しかっただけなのか。
それとも——神は最初から、俺の「魂の不在」を知っていたのか。
魂のない器。何も入っていない、完全に空っぽの器。
だから——「史上最大」と判定されたのではないか。
コーヒーが冷めた。
俺はマグカップを見つめた。
空っぽのマグカップは、どんな飲み物でも入れられる。
コーヒーでも、水でも、毒でも。
部屋に戻って、布団に倒れ込んだ。
天井を見上げながら、もう一つ、思った。
あの神は言った。「橘田さんの魂の影響で、勇者は概念になった」と。
「橘田さんの器が、異世界のすべてを飲み込んだ」と。
でも——それは「俺の魂」の力なのか?
それとも——「魂なしでも感情を持てた、この肉体」の力なのか?
だとしたら。
俺の魂はもう、異世界にある。
でも「俺」は、ここにいる。
今この部屋に存在しているのは——魂がなくて、でも感情があって、でも感情の出所も分からない——一体、何なのか。
答えは、出なかった。
外から、ゴミ収集車のメロディがまた聞こえた。
それでも俺は、明日も起きるだろう。
コーヒーを飲むだろう。
就活サイトを開くだろう。
ため息をつくだろう。
何も入っていない俺が——何かを探し続けるだろう。
それが、何なのかは。
たぶん、一生わからない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
書くきっかけは、ささいな疑問でした。何度就活に落ちても、振られても、どん底でも——なんだかんだ人間って翌朝ちゃんと起きて、コーヒーを飲んで、またため息をつくじゃないか。あれは何なんだろう、と。気がついたら神様が土下座していました。
続きは、まだ橘田一のそばにいてみたいとは思っています。たぶん、本人も自分のことをまだ知らないので。
感想やコメントをいただけると、続きを書く力になります。またどこかでお会いできたら、うれしいです。




