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第6話 先生、本気が過ぎるんですが!?

「信じられない……」

イシュカの頬を、一粒の涙が伝った。

それは絶望の涙ではなかった。

妹の手首を取り、しっかり伝わりはじめた脈に震える。

「なんで急に?」

「……わからない。だが、たぶんもう大丈夫だと思う」

イシュカの声には、震えと安堵が混じっていた。

彼は妹の手を包み込み、かすかに笑う。

その表情は、張り詰めていた糸がようやく解けた瞬間のものだった。


エリセはそっと息を漏らし、二人の姿を見つめた。

よかった。

――でも、

助かっただけじゃ、終わりじゃない。

この先を生きるための道が、まだ必要だ。


まだ、彼らのためにできることがある。

ほんの少しでいい。

あと一歩だけ、未来に手を伸ばすために。


そう思った瞬間、身体が先に動いていた。


エリセは振り返り、青年の腕を掴む。

「この魔術具ランタン、譲ってくれたら帰ってもいいよ!」

は?

青年は目を見開いた。

その反応は、驚きというよりも動揺に近かった。

それは彼が、この魔術具——ランタンを手放すつもりがなかった証にも見えた。

「……強欲だな。まさか俺から奪うつもりか?」

ひたり、ひたりと空気の温度が下がる。

石床が霜に覆われるまで、数秒とかからなかった。


声は静かなのに、まるで刃の破片を混ぜたような冷たさを帯びていた。

「わがままを通すだけの支払いがお前に可能だとでも?」


けれどエリセは静かに首を振った。

まっすぐに、逃げずに。


「ちがうよ。

 これは……いつかあなたが誰かに渡すものだから」


青年の表情がわずかに揺らぐ。


「どうして、そう言い切れる?」


エリセは(ランタン)の取っ手を両手で包み込んだ。

灯火はゆっくりと、懐かしい色に揺れる。


「だって、これ、家にあるから!

いつからあったのかなんて知らなかったけど――

ずっと家にあって、行き先を照らしてくれてた」


言葉を重ねるほどに灯火は桜色に染まり、青年の胸に痛むほどの響きを残す。


「だから知ってる。

あなたは、いずれこれを手放す。

未来のために、誰かのために。

そして、その“誰か”が今、ここにいる」


エリセはイシュカとマリに視線を向けた。


イシュカの震える腕には、未来にしがみつこうとするマリがしっかり抱かれている。

小さな命を守る魔術光は頼もしく、息をするように瞬いていた。


「この(ランタン)は、あの人たちが生きていくために必要だよ」


ゆっくりと、イシュカの手に(ランタン)を押し当てる。


「だから、お願い。

 譲って」


青年は息を呑んだ。


胸の奥に熱が込み上げる。



(お前が望むなら、それも悪くない。)


興味もなければ縁もない相手に譲る――

その無意味さと居心地の悪さが、胸をざわつかせる。

だが、それ以上に、

目の前の赤毛の少年の願いを失うほうが、はるかに耐えがたかった。


だから、——言葉を絞り出す。

「……なら、それをやる代わりに、困った時には会いに来い。

——会いに来ていい。必ず覚えておけ」


静かな声の底に、冷たさとは別の熱が滲んでいた。

その瞬間、エリセの心臓がひゅ、と小さく跳ねる。

息を吸うのも忘れて、視線を向ける勇気はなかった。

エリセはあわてて、イシュカの両手に《灯》をしっかり握らせる。

「イシュカさん、これ、望む場所に導いてくれる魔術具だから。

手放しちゃダメ、ずっとずっと大事にして。」


言葉を終えると、エリセはそっと(ランタン)へ視線を落とした。

灯火が震えるように瞬き、桜色がかすかに濃くなる。


祈るように、エリセはそっと灯に囁く。


『——イシュカさんとマリさんが、安全に暮らせる場所に連れていって!』


灯の先端が瞬くと、まるで生き物のように光の尾を引きながら、空間に渦を巻いた。

ひとすじ、そしてふたすじ、光の道が宙に伸び、床を跳ね、壁を駆け上がる。

光の粒が舞い散り、空気が震えるたびに、床や石壁に虹色の反射が跳ね返った。

一瞬、周囲は昼間のように明るく照らされ、灯の光が導く道は、まるで未来へ向かう光の橋のようだった。


「これは、続く道だよ!」



青年の指先がかすかに震えた。

その震えは——彼が一つの魔術具を手離す決断の証。








——コツ、コツ。


軽くノックをするような音がしたかと思うと、

エリセの足元に白い魔力光の文字で縁取られた円が突然浮かんだ。

「えっ……?」

「迎えが来たようだな」

青年の静かな声と反対に、空気がざわりと震えた。

うわっっ!!

石床が、ゆっくりと光に変わり始める。

「ちょっ、待って——!」

とっさに振り向き、エリセはイシュカへ手を伸ばした。

「イ、イシュカさん! 本当にありがとう!

 マリさんをどうか大事にして……!」

「エリセ! まだ——!」

イシュカも思わず手を伸ばす。

指先が触れそうで触れない距離。

届かない焦りが、声の震えになって溢れる。

光は一気に渦を巻き、床の境界を飲み込んだ。

「エリセっっ!」

叫び声が、急速に遠ざかる。

あまりの速さに目の焦点が合わない——

――落下。

――落下。

そして

――落下。


ただ真っ逆さまに落ちるだけ、などという甘いものではなかった。

次の瞬間、真下へ一直線だった身体が、右へ弾け飛び、

今度は左へ振り回される。

「ぎゃっ!? ちょ、ちょっと待っ……う、うおおおおおっ!!?」

視界が回転する。

上が下で、右が左で、何もかもが逆さま。

胃が喉までせり上がり、息を吸う暇もない。

「や、やめっ……しぬしぬしぬしぬしぬ!!!!!!」

遠心力で頬がひっぱられ、耳がキーンと鳴る。

上下左右、意味のない方向へ振り回され続け――


どんっ!!

——衝撃とともに、世界が止まった。

視界いっぱいに、魔術陣が広がっていた。

床も、壁も、天井までも。

無数の符号と幾何学式が光を脈打ち、空間そのものを固定するように震えている。

常識を超えた複雑さ——普通の魔術師なら一瞬で発狂するほどの密度だ。


その中心に、エリセは落ちてきたらしい。

ふかふか。

石床とは違う、柔らかく温かい感触。

「うっ……うぉええええええええええええええええっっ!!」


クッションの上によつんばいになり、胃を押さえて涙目でえずく。

吐き気が収まらず、呼吸もひっくり返り、半泣きで顔を上げると――

そこは。

いつもの天井。

(けど先生が描いたと思われる魔術の文字でほぼ全面真っ黒に埋め尽くされてる)

見慣れた壁。

(こっちもやっぱり文字や符号でいっぱい)

散らかった本と紙と、窓際の小さな観葉植物。

(ちょっと待って、本の背表紙や葉っぱにまで描かないで、他の部屋に片付けてくれたらいいのに!)

天井を見上げると淡く魔光灯が灯っている。

(……え、ランプのガラスにまで文字が描いてあるし、それが壁に投影されてる……計算済みってこと!?)

平和な時代の静けさと温かい空気が満ちているにもかかわらず、

この部屋だけ明らかに魔術研究施設の末期状態だ。


「あ……あたしの家……?」

震える声の直後。

「……随分と派手に戻ってきたな」

その声は低く、けれど長い時間、張り詰めていた緊張がほどけたあとのように響いた。

聞き慣れすぎた低い声。

見慣れた濃灰色の外套の裾。

黒いブーツ。

「せ、先生……ただいま……!!」

仰ぎ見ると、その人は目を見開いたまま固まっていた。


(同じ顔だけど、先生はわずかに表情豊かだった。)

「何だ、その髪は。……赤いし、短い」

「あ、髪のこと?

切っちゃった!

危ないからって。

似合う?」

無言。

でも、ほんの少し口元が緩んだ気がした。

「……男じゃなかったのか」

「はあ!?

なにそれ!」

全力で睨むエリセに、先生はわずかに口元を緩めた。

五百年前の彼は決して見せなかった、柔らかな微笑。

ほんの一瞬だけ、触れたがるように手が動いた気がした。

「……おかえり」

言葉が少ないのは同じだけど、そこには確かな温度があった。

その一言は、反則だった。

不覚にも、エリセの視界が滲んだ。

テーブルの上には、イシュカに渡したあのランタンの灯が、そっと暖かく瞬いていた。

――帰り道は、いつでも繋がっている。


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