第5話 禁忌の魔術と灯の救済
教会だった場所は、静まり返っていた。
石造りの建物は半壊し、床には砕けた石と倒れた兵士たちの影。
飛び散る赤黒い血液が、乾いて光を鈍く弾く。
イシュカは魔法陣があった場所――
今はドロリと黒い液体が薄く溜まる床を睨みつけた。
「……嘘だろ。
誰がどうやっても壊せなかった……
一体どうやって」
エリセは青年に視線を向け、目に圧を込める。
(……壊したの、あなたでしょ?)
その視線は、言葉以上に問いかけていた。
青年は小さく眉をひそめ、ため息をつく。少し面倒くさそうに、仕方なさそうに答えた。
「自壊しただけだ。灰臓石でも壊せたはずだ。……短剣に加工できればな」
言葉を失い、惨状を前に立ち尽くす。
ふと、視界の端で淡く揺れる光に気づいた。
「――あっ」
青年の外套の内側で揺れていたのは、エリセにとってあまりにも見慣れた魔術具だった。
淡い金色の光線を脈打つように揺らす、硝子の灯。
望む場所へと道を示す魔術具。
――前に、……先生が作ったって聞いた、灯。
「それ!!」
咄嗟に手を伸ばし、青年から奪い取った。
青年は瞬きもせず、その蛮行をただ見過ごす。
(間違いない……これ、あたしの家にあった灯……でも、この灯は――)
握りしめる。
そこに刻まれた時間の差異が、残酷なほどに明瞭だった。
(ほとんど新品……先生と同じ刻印がこんなにくっきり……)
(まさか、先生本人……なの?)
青年は表情を変えず、ただ黙ってエリセを見下ろしていた。
静かな瞳が――逆に、答えを示しているように……。
――イシュカは瓦礫を蹴散らし、崩れた柱の影を覗き込みながら歩いていた。
「マリ……! どこだ……返事をしろ、マリ!!」
声は焦りに震え、喉が焼けるほど叫んでいた。
しかし返事はない。沈黙だけが残酷に降り積もっていた。
(いやいやいや、落ち着けあたし!
五百年……変わらない姿で生き続けるなんて……
あ……、ありえないよね!? ね、ね?
さすがに先生もそこまで反則な人 じゃ……ないよ……たぶん……)
ちらりとずるいほど整った横顔を睨みつけ、エリセは震える手で灯を掲げた。
「イシュカさんの妹さんのところまで! 道を示して!!」
瞬間、灯の中心から柔らかな光が矢のように伸びる。
瓦礫の山を貫き、暗闇を裂いて一直線に照らす。
「イシュカさん! こっちです!」
エリセは疑念に蓋をして、イシュカの手首を掴み、迷いなく駆け出した。
要するに――やっかいな問題は、とりあえず葬ることに決めた。
崩れた階段を踏みしめ、割れた石壁の隙間を縫い、光の示す先へ――。
そこは、圧倒的な静寂に支配された区画。
長い廊下と、等間隔に口を開ける狭く冷たい石造りの部屋。
――牢獄だった。
空になった部屋、横たわる骸。
治療もされず、誰にも看取られず、闇の中で消えた命。
イシュカの口元は硬く結ばれ、血の気が失われていく。
光が導いた、瓦礫の奥の一室。
わずか三歩で壁に届くほど狭いその中央に――
乾いた血と埃にまみれ、裂かれた衣服の少女が横たわっていた。
「マリ!!」
その叫びが石壁を震わせた。
埃にまみれた床。壁には殴られ、蹴られた痕跡が黒く広がる。
鉄格子には薄くこびりついた血。
長い髪は泥と血で固まり、衣服は裂かれ、乱暴に剥ぎ取られた痕跡。
その肌に刻まれた傷跡は、どれほどの恐怖と痛みを耐えてきたかを語っていた。
直視するだけで吐き気がするほどだった。
腹部には身重の膨らみがあり、その近くに複数の青黒い痣が重なっていた。
(……あぁ、人はどうしてここまで狂暴になれるのだろう。
まるで知能のない獣の巣に放り込まれたような絶望感に息が詰まる。)
しかしここにたどり着くまでに見た人達と違い、彼女には顔から腹部にかけてびっしりと魔術式が刻まれていた。
胸郭にはいくつもの石が埋め込まれ、肌に直接刻まれた複雑な術式は脈打つように青く光っては消えていく。
呼吸のたび 、瞬く口元の術式の光は弱弱しく、生命を無理やり繋ぎ止めているように見えた――どれも禁忌的で、常識や倫理を逸脱した魔術式だ。
ところどころには応急医療で用いられる扶助術式に似た部分もあったが、 大半は人に施すには異質で、禍々しい。
ふいに、エリセの視界が濃灰色の外套で遮られる。
「イシュカさん。これ、治療してからじゃないと消したら――絶対にだめです。
生命維持の補助術式。……あなたが、施したんですよね ? 」
震える声で、エリセは前に立つ青年の背中を見つめる。
隠しているのは、彼女の悲惨な運命か、それともこの異質な魔術式か——。
(……一体どれほどの英知と技術力があればこんなことが可能なのだろう。 )
人体と石の固定は揺るがず、複数の魔術式を重ねても干渉や損傷はない。
血で描かれた文字も、肌に刻まれた文字も赤黒く、異様 で禍々しい。
人体に施すなど、あまりにも倫理から逸脱している。
——それでも精緻な筆跡には、誰にも真似できない美しさがあった。
(……ありえない)
五百年前のこの青年が、自分の師と同じ証跡を示すなんて。
……でも。
否定しようとしても、 見慣れた証跡に否定の余地はない。
息を止め、しばしその事実を受け止める。
(ほんとうに——先生だ。)
心臓が跳ね、世界の色が変わる。
——五百年間、変らない姿をしていても。
たとえ、人間でなくても——
エリセにとって、それは大事なことではなかった。
ただ、先生が近くにいてくれる。それだけだった。
突然現れた青年は、見知らぬ誰かではない。
その事実だけで、強張った肩の力が静かに抜けていく。
視線を泳がせ、そっと青年の横顔を追う。
揺れる睫毛が目に入った瞬間、胸の奥から安心が広がった。
自然と、微笑みがこぼれる。
小さく息を整える。
「…助けてくれたんですね、ありがとうございます」
青年の肩が、ほんの僅かに揺れた。
その微かな動きが、確かに肯定のように見えた。
——でも。
——この人が先生だからこそ分かる。
あの状態のマリさんを助けるなんて、到底思えない。
助けるとしたら……赤ん坊が“上限”?
胸の奥がざわついた。
直感が、冷静な恐怖を告げる。
次の瞬間——
イシュカの絶望に染まった声が響き、エリセは我に返った。
「……無理だ、こんなの、動かせる状態じゃない」
その先では膝を崩し、石床に手をつくイシュカの姿が目に入った。
肩ががくがくと震え、唇を噛みしめながら必死に耐えている。
「マリ…、マリ……目を、開けて」
エリセは慌ててマリの傍に駆け寄った。
血の気の引いた少女の顔はあまりにも白く、頬は冷たい。
息をしていないようにも見える。
(……やっぱり、上限が……?)
胸がぎゅっと締め付けられる。何かできるはずと手を伸ばすが、無力感が溢れる。
それでも慌ててローブをマリにかけた。
「寒いよね……少しでも楽に」
青年は、無表情のままその仕草を眺めていた。
――意味のないことだ。
保証したのは、ただ一つの願い。
ただの感傷、自己満足のまねごとだと思った——。
その視線は、床に広がるローブの裾で止まった。
漆黒の布地には、同色の糸で緻密に施された稲妻の紋章が浮かび、その周囲には控えめながらも豪奢な幾何学模様に見せかけた魔術式が繊細に編まれていた。
静謐の加護が重ねられた――安定と安息を与える最上級術式布。
それは今の少女にとって、最も必要とされる魔術具だった。
か細かったマリの呼吸が、少しずつ整い始める。
薄く開いた唇には、うっすらと色さえ戻り始める。
――運命が、軌道を変えた。
「何故……」
「え? だって寒いじゃない。ここ、埃っぽいし。
ボクのもそんな綺麗なものじゃないけど」
無意識。
偶然。
無知。
そのどれでもない。
ただ、目の前の命を思って布をかけただけだ。
先ほどまで死の縁に沈んでいた少女の指先に、確かな力が宿る。
小さな胸がゆっくりと上下するのを見た瞬間、
青年の胸の奥で、静かに何かが軋んだ。
(……引きの強い女だ)
エリセの横顔を見てしまった瞬間、
胸の中心に熱が灯る。
――憧れとも救いとも呼べる何か。
名も知らぬ赤毛の少年から視線を逸らしても、もう離せない。
肩が微かに震えた。
ふと、視界の端で淡く揺れる光に気づいた。
「――あっ」
青年の外套の内側で揺れていたのは、エリセにとってあまりにも見慣れた魔術具だった。
淡い金色の光線を脈打つように揺らす、硝子の灯。
望む場所へと道を示す魔術具。
――先生が作ったって聞いてた、灯。
「それ!!」
咄嗟に手を伸ばし、青年から奪い取った。
青年は瞬きもせず、その蛮行をただ見過ごす。
(間違いない……これ、あたしの家にあった灯……でも、この灯は――)
握りしめる。
そこに刻まれた時間差が、残酷なほどに明瞭だった。
(ほとんど新品……先生と同じ刻印がこんなにくっきり……)
(まさか、先生本人……なの?)
青年は表情を変えず、ただ黙ってエリセを見下ろしていた。
静かな瞳が――逆に、答えを示しているように……。
――イシュカは瓦礫を蹴散らし、崩れた柱の影を覗き込みながら歩いていた。
「マリ……! どこだ……返事をしろ、マリ!!」
声は焦りに震え、喉が焼けるほど叫んでいた。
しかし返事はない。沈黙だけが残酷に降り積もっていた。
(いやいやいや、落ち着けあたし!
五百年……変わらない姿で生き続けるなんて……
あ……、ありえないよね!? ね、ね?
さすがに先生もそこまでずるい人じゃ……ないよ……たぶん……)
ちらりとずるいほど整った横顔を睨みつけ、エリセは震える手で灯を掲げた。
「イシュカさんの妹さんのところまで! 道を示して!!」
瞬間、灯の中心から柔らかな光が矢のように伸びる。
瓦礫の山を貫き、暗闇を裂いて一直線に照らす。
「イシュカさん! こっちです!」
エリセは疑念に蓋をして、イシュカの手首を掴み、迷いなく駆け出した。
要するに――やっかいな問題は、とりあえず葬ることに決めた。
崩れた階段を踏みしめ、割れた石壁の隙間を縫い、光の示す先へ――。
そこは、圧倒的な静寂に支配された区画。
長い廊下と、等間隔に口を開ける狭く冷たい石造りの部屋。
――牢獄だった。
空になった部屋、横たわる骸。
治療もされず、誰にも看取られず、闇の中で消えた命。
イシュカの口元は硬く結ばれ、血の気が失われていく。
光が導いた、瓦礫の奥の一室。
わずか三歩で壁に届くほど狭いその中央に――
乾いた血と埃にまみれ、裂かれた衣服の少女が横たわっていた。
「マリ!!」
その叫びが石壁を震わせた。
埃にまみれた床。壁には殴られ、蹴られた痕跡が黒く広がる。
鉄格子には薄くこびりついた血。
長い髪は泥と血で固まり、衣服は裂かれ、乱暴に剥ぎ取られた痕跡。
その肌に刻まれた傷跡は、どれほどの恐怖と痛みを耐えてきたかを語っていた。
直視するだけで吐き気がするほどだった。
腹部には身重の膨らみがあり、その近くに複数の青黒い痣が重なっていた。
(……あぁ、人はどうしてここまで狂暴になれるのだろう。
まるで知能のない獣の巣に放り込まれたような絶望感に息が詰まる。)
しかしここにたどり着くまでに見た人達と違い、彼女には顔から腹部にかけてびっしりと魔術式が刻まれていた。
胸郭にはいくつもの石が埋め込まれ、肌に直接刻まれた複雑な術式は脈打つように青く光っては消えていく。
呼吸のたび 、瞬く口元の術式の光は弱弱しく、生命を無理やり繋ぎ止めているように見えた――どれも禁忌的で、常識や倫理を逸脱した魔術式だ。
ところどころには応急医療で用いられる扶助術式に似た部分もあったが、 大半は人に施すには異質で、禍々しい。
ふいに、エリセの視界が濃灰色の外套で遮られる。
「イシュカさん。これ、治療してからじゃないと消したら――絶対にだめです。
生命維持の補助術式。……あなたが、施したんですよね ? 」
震える声で、エリセは前に立つ青年の背中を見つめる。
隠しているのは、彼女の悲惨な運命か、それともこの異質な魔術式か——。
(……一体どれほどの英知と技術力があればこんなことが可能なのだろう。 )
人体と石の固定は揺るがず、複数の魔術式を重ねても干渉や損傷はない。
血で描かれた文字も、肌に刻まれた文字も赤黒く、異様 で禍々しい。
人体に施すなど、あまりにも倫理から逸脱している。
——それでも精緻な筆跡には、誰にも真似できない美しさがあった。
(……ありえない)
五百年前のこの青年が、自分の師と同じ証跡を示すなんて。
……でも。
否定しようとしても、 見慣れた証跡に否定の余地はない。
息を止め、しばしその事実を受け止める。
(ほんとうに——先生だ。)
心臓が跳ね、世界の色が変わる。
——五百年間、変らない姿をしていても。
たとえ、人間でなくても——
エリセにとって、それは大事なことではなかった。
ただ、先生が近くにいてくれる。それだけだった。
突然現れた青年は、見知らぬ誰かではない。
その事実だけで、強張った肩の力が静かに抜けていく。
視線を泳がせ、そっと青年の横顔を追う。
揺れる睫毛が目に入った瞬間、胸の奥から安心が広がった。
自然と、微笑みがこぼれる。
小さく息を整える。
「…助けてくれたんですね、ありがとうございます」
青年の肩が、ほんの僅かに揺れた。
その微かな動きが、確かに肯定のように見えた。
——でも。
——この人が先生だからこそ分かる。
あの状態のマリさんを助けるなんて、到底思えない。
助けるとしたら……赤ん坊が“上限”。
胸の奥がざわついた。
直感が、冷静な恐怖を告げる。
次の瞬間——
イシュカの絶望に染まった声が響き、エリセは我に返った。
「……無理だ、こんなの、動かせる状態じゃない」
その先では膝を崩し、石床に手をつくイシュカの姿が目に入った。
肩ががくがくと震え、唇を噛みしめながら必死に耐えている。
「マリ…、マリ……目を、開けて」
エリセもマリの傍に駆け寄って、自分のローブを外して少女にかけた。
「寒いよね……少しでも楽に」
青年は、無表情のままその仕草を眺めていた。
――意味のないことだ。
保証したのは、たった一つの願い。
ぬくもりなど、生死に関係ない。
ただの感傷。
自己満足のまねごとだと——そう思った時、
青年の視線が床に広がるローブの裾で止まった。
漆黒の布地には、同色の糸で緻密に施された稲妻の紋章が浮かび、その周囲には控えめながらも豪奢な幾何学模様に見せかけた魔術式が繊細に編まれていた。
静謐の加護が重ねられた――安定と安息を与える最上級術式布。
それは今の少女にとって、最も必要とされる魔術具だった。
か細かったマリの呼吸が、少しずつ整い始める。
薄く開いた唇には、うっすらと色さえ戻り始める。
――運命が、軌道を変えた。
「何故……」
「え? だって寒いじゃない。ここ、埃っぽいし。
ボクのもそんな綺麗なものじゃないけど」
無意識。
偶然。
無知。
そのどれでもない。
ただ、目の前の命を思って布をかけただけだ。
先ほどまで死の縁に沈んでいた少女の指先に、確かな力が宿る。
小さな胸がゆっくりと上下するのを見た瞬間、
青年の胸の奥で、静かに何かが軋んだ。
(……引きの強い子供だ)
エリセの横顔を見てしまった瞬間、
胸の中心に熱が灯る。
――憧れとも救いとも呼べる何か。
名も知らぬ赤毛の少年から視線を逸らそうとしても、もう離せない。
肩が微かに震えた。




