第2話 世界の常識? 狂ってない?
石畳を蹴る足音と、荒くなる呼吸。
逃げ続けていたはずの狭い路地の空気が、急に――凍りついた。
ぶわっ、と。
見えない何かが世界を押し潰すように膨れ上がり、背中を殴られたみたいに体が揺れる。
「……っなに、これ……っ!」
次の瞬間、白い光が夜空を真っ二つに裂いた。
まるで巨大な柱が天へ突き上がるように、輝きが上空へ伸びる。
遠く離れているのに視界が焼け、心臓が一拍止まったようになった。
光の中で、銀色の輪のようなものがいくつも弾け飛び、流星のように軌跡を引いていくのが見えた。
それは美しいほど滑らかで、しかし背筋が凍りつくほど正確な殺意に満ちていた。
――遅れて、血の霧が夜空に花開くように舞い上がる。
叫び声はなかった。
聞こえるのは、肉が裂ける湿った音と、石床に血が降り注ぐざらついた響きだけ。
「う、うわっ……な、なにが起きてる……!?」
鋏の教会兵が思わず足を止め、路地の壁に手をつく。
指が震え、剣を握る手は汗で濡れていた。
その光の中心にある、得体の知れない魔力の奔流は、
人の理を越えた何かが暴れているとしか思えなかった。
「今度は何を召喚したんだ……っ」
風が、渦巻く。
耳鳴りがする。
呼吸が上手くできない。
空気に溶け込んだ魔力が、肺の奥で冷たい鉄になって刺さるようだ。
「いや、いやいや……嘘でしょ……! ここでなにが起きてるの……!」
エリセは震える声で言う。
それは恐怖ではなく――
世界の形が突然ねじ曲がってしまったような、理解の追いつかない混乱だった。
遠くに見える光の渦は、
まるで天から降る凶兆の星のように、静かに、狂気じみた美しさで夜を照らし続けていた。
「とにかく安全な場所まで行ってからだ!」
男はまだ息を荒げていたけれど、手を離さない。
黒い石造りの建物はどれも古く、灯りは炎のように揺れ、
どこにもエリセの世界にある光機器はない。
遠くで鐘の音が鳴り、背後から甲冑の激しい音が追ってくる。
「見失うな!」
「逃がすなっ!」
怒号が壁に跳ね返って響き、余計に胸が締め付けられた。
建物の隙間をすり抜け、細い路地へ。
月明かりも届かない闇を抜け、急な階段を駆け下りる。
男は古びた家の裏手に回り込むと、壁に手を這わせ、隠された金具をつかんだ。
きしむ金属音がして、薄い木板の扉が開く。
「こっちだ!」
あたしたちは中へ滑り込む。
直後、扉が閉まり、重い錠が降りた。
――外の世界の息遣いが、音ごと遮断された。
薄暗い階段を下り、地下室へ。
湿った土と鉄の匂い。
湿気を帯びた空気が肌に張りつく。
灯されたのは魔術灯でも水晶灯でもなく、ただの蝋燭。
ゆらゆらと揺れる炎が、ざらつく壁の影を大きく伸ばした。
薄暗がりの中で、男は甲冑を外しながら言った。
「……僕はイシュカ・ノアリス。理容師で、君を召喚した魔術士の息子だ」
ノアリス。
その姓を聞いた瞬間、あたしの呼吸が止まる。
――ノアリス。
それは、あたしの姓と同じだった。
「座れ。手が冷たいし……蹴られた腹はどうだ?」
そう言うと、鋏の教会兵――イシュカは近くの椅子を引き寄せ、そっとあたしを促した。
彼は地下室の端に置かれた小鍋で湯を温め、素早く温かい飲み物を作る。
「無理してないか? 痛みが酷いならソファで横になるといい」
震える手で小さな陶器のカップを差し出すと、湯気がほのかに立ち上り、体の芯に温もりが染みていく。
「さっきの魔法陣は、捕らえた魔術士の魔力を捧げる供物陣だ」
イシュカは低く言う。
「命が尽きるまで、同じ血を持つ者を次々に召喚する。ここの教会は何年か前に発掘したあの魔術陣を魔術師狩りに使ってるんだ」
「血統を……辿る……?」
思わず握った手に力が入り、喉が細くなる。
「父は、君とどこかで血が繋がっているんだろう。だから、召喚の対象として選ばれたんだと思う。
俺は召喚を阻害する魔術式を組んでいたんだが、上手く作用したみたいだ」
「ちょっと待って。それって――」
イシュカは短く息を吐き、地下室の壁に手をついた。
その手がわずかに震えているのに、あたしは気づいた。
「……大丈夫?」
思わず声をかけると、イシュカは微かに肩を動かして、笑うように首を横に振った。
「……緊張でな。少し、呼吸を整える」
頭上では、甲冑がきしむ音と、兵士の怒号が遠くで反響している。
「まず、落ち着いて聞いてほしい。
ここはルザリオの王都だ。他の国も同じだが、
“魔術師は異端として教会に狩られる”。」
「もちろんオレらは異端じゃない、親父だって。
だが、……教会は絶対だ。神以外の力――自身の魔力を頼む者は、存在そのものが冒涜とされる。
聖典の名のもとに、“浄化”と称して村も学舎も焼かれた。
何千人も、祈りながら死んだ。」
低く震える声で、イシュカは言った。
「それが、この時代の常識だ」
「は……? 魔術師が日常の仕事してる国よ、ルザリオは。 他の国だって同じ!研究所も工房も学校もあるし、魔術具店だって――」
エリセは声を詰まらせた。 イシュカはぽかんと口を開け、しばらく言葉を失った。
その様子に、エリセは逆に不安を覚え始める。
「ルザリオが……?」
「さっきまで普通に暮らしてたの! 皆、魔術を使って――」
思わず声が大きくなる。
胸が焼けるように熱くて、抑えきれなかった。
地下室の上から、甲冑の走る音が荒く響いた。
「エリセ、声を落として」
イシュカが素早く手を伸ばし、軽く肩に触れた。
低い声で、しかしどこまでも優しく。
「ここは防音の術式を仕込んである。多少の音は吸う。
……でも、一応な」
わずかに指先が震えていた。
扉に向けられた彼の視線は、鋭い警戒の色を帯びている。
(ここを見つけられたら、終わり――)
暗闇の沈黙が数秒続いたのち、
イシュカは押し出すように言った。
「……それで、いつの話なんだ?
今は――ルザリオ建国百十九年だ」
音が消えたような錯覚があった。
イシュカの言葉が、世界を無慈悲に引き裂いたみたいだった。
――百十九年。
あたしの時代は六百四十七年。
差は、およそ五百年。
(うそ……ここ、過去……?)




