《エピソード零》
――あれは、魔王戦から逃げ延びた夜のことだった。
元勇者パーティーは、もはや満身創痍だった。
魔力は底を尽き、回復アイテムも尽き、勝利の可能性は完全に断たれていた。
それは敗北だった。完全な、逃げの敗北。
それでも魔王軍は追撃の手を緩めない。
「このままじゃ、全員やられる……!」
杖を握りしめたクリスが、歯を食いしばる。
「バラけて逃げるよ! 集団でいれば、すぐに見つかる!」
イヅナが叫んだ。
「わかった……マリネ、俺たちはこっちだ!」
「うん」
マリネは小さく微笑み、うなずいた。
ラスティアへ戻る途中、二人は森の中を進んでいた。
夜半、雨が降り始め、視界も足元も悪い。
「……早く、ギルドに戻らないと」
マリネが足を速めた、その時。
――かすかな泣き声が、雨音の向こうから聞こえた。
「……泣き声?」
マリネは立ち止まり、耳を澄ませる。
「赤ん坊……?」
声のする方へ駆け寄ると、木の根元にひとり、赤子が捨てられていた。
ずぶ濡れで、寒さに震え、小さな声で泣いている。
「……こんなところに……なぜ……」
マリネは迷わず赤子を抱き上げた。
その瞬間、赤子はぴたりと泣き止み、彼女の胸に顔を埋めた。
「……ピンク色の髪……珍しいわね」
雨に濡れたその髪は、夜の中でも淡く光って見えた。
「この色、まるで宝石みたい……レアね」
マリネは赤子を見つめ、決意する。
「……よし、連れて帰りましょう」
「いいでしょ?イヅナ」
「もちろんだ、こんなとこに捨てられてかわいそうに」
ラスティアへ戻ったマリネとイヅナは、真っ直ぐギルドへ向かった。
扉を開けると、そこには無事だったクリスの姿があった。
「マリネ! イヅナ! 無事だったのか!」
「クリス……ただいま」
マリネが微笑むと、クリスの視線が腕の中の赤子に向く。
「……その赤ん坊は?」
「森で捨てられていたの。放っておけなくて」
「……魔王戦で敗北して、魔力も底をついてるのに……」
クリスは言葉を選びながら続けた。
「赤ん坊の面倒まで見る気か?」
「ええ」
マリネは即答した。
「この子は、生きたいんです。だから、私が守ります」
その瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。
「……そうか」
クリスは小さく息を吐いた。
「なら、ギルドで面倒を見よう。私も手伝う」
「ありがとう」
マリネは赤子を見つめる。
「この子の名前は、レア。ピンクの髪が珍しいから」
「いい名前だ」
だが、その夜だった。
魔王軍八代将軍の一人、グリムヘルドがラスティアに現れた。
「見つけたぞ、勇者パーティー」
巨大な黒剣を構え、命じる。
「ギルドを襲撃しろ」
配下たちが雪崩れ込み、クリスが前に立った。
「《爆裂魔法》!」
轟音とともに魔法が炸裂する。
「ギルドは私が守る! マリネ、イヅナ、逃げて!」
「……わかった!」
マリネとイヅナはギルドを飛び出した。
港を見下ろす丘。
その先で、黒い影が立ちはだかる。
「逃がすと思ったか?」
グリムヘルドだった。
魔力の尽きたマリネの魔法は通じず、一撃で吹き飛ばされる。
「マリネ!」
崖から落ちかけた彼女を、
レアを抱えたまま、もう片方の手で火縄銃《焔》を伸ばす。
「掴め!」
マリネが《焔》の銃身を掴む。
「イヅナ……後ろ!」
イヅナの背後に――グリムヘルドが迫っていた。
「……イヅナ」
マリネは微笑んだ。
「レアを……頼んだわ」
「何言って――」
「このカードを……この子が大きくなったら、渡して」
スターダスト・エレメンタルドラゴンのカードが宙を舞う。
「ありがとう……あなたと冒険できて、楽しかった」
マリネは、手を離した。
「マリネェェェェ!!」
その叫びとともに、彼女は闇へと消えて行った。
怒りが、世界を反転させる。
「リバース――!」
スターダスト・エレメンタルドラゴンの咆哮とともに、グリムヘルドは消滅した。
それから年月が過ぎ、港が見える丘。
イヅナとレアは、星空の下、芝生に寝転んでいた。
「……そっか。そういうことだったんだね」
「僕はまだ親父と言っていいのかな?」
「何を今さら。当たり前だろ」
「じゃあ……マリネさんは、僕のお母さんだ」
「ああ。あいつが聞いたら、照れてたろうな」
レアは、少し照れたように笑った。
イヅナはカードを差し出す。
「だから、これはお前のだ」
だがレアは首を振る。
「それは、親父が持ってて」
「……?」
「僕はもっと強くなって、大賢者マリネ・グランツェルを超える。
その時に、もらいに来るよ」
「……ワッハッハ!」
イヅナは豪快に笑った。
「そりゃいい! 俺もまだ死ねねぇな」
星空の下、血の繋がらない親子の笑い声が響く。
――チリン。
どこからか、鈴の音が聞こえた気がした。
まるで、大賢者マリネ・グランツェルが、
今もなお、この丘から二人を見守っているかのように。
この場所は、後にこう呼ばれる。
「マリネの丘」
――彼女が、最後に“母”として生きた場所として。




